陰謀と教養。あるいは、どうして高い教養を備えた人々が、陰謀論をあっさりと受容してしまうのか?

鳥山仁

第1話 視覚と認識

 陰謀論と教養、特に西洋哲学と関係のある書籍に関する話をしたら、色々と質問されたのでまとめておく。長くなる上に複雑なので、興味の無い人は読まない方が良い。


 また、本稿では個別の陰謀論に関する詳述をしていない。それらに関しては、商業作品が発売されているので参照していただきたい。


 まず、結論を言うと陰謀論や疑似科学は消滅しない。その原因は、疑似科学や陰謀論を構成する要素が、20世紀以前の西欧社会にとって理知的とされる考え方だったからで、なおかつそれが未だに学術界に残っているからだ。


 疑似科学や陰謀論を構成する要素の中でも基礎となるのが決定論、観察者問題、認識の定義、数の扱い方、そして精神病的な世界観(統合失調症的な認識)の5点である。この5つの中でも、最初の3つには比較的強い相関関係がある。


 最初の決定論だが「あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定されている」という考え方で、仏教で用いられる縁起説(原因があるから結果がある)や、キリスト教やユダヤ教の終末論が代表的なものとして挙げられる。


 この決定論は程度の差はあれ「未来は予め決定されている」という前提に立っているため、未来予知が可能であるという結論が導き出せる。ただし、現実の人間が行う予知や予測の大半は的中しないため、決定論とは相容れない。


 そこで「未来が予測できるはずなのに、当たらないのは何故か?」という辻褄合わせのために唱えられるのが「人間は不完全な生物なので、未来を予知することができない」という主張である。これが観察者問題だ。


 つまり、世界は決定論的な存在で未来は確定しているにも関わらず、不完全な観察者は未来を決定するための重要な隠れている、あるいは隠された何かを認識し得ないため、未来予知が外れる、ということになる。


 このことは、同時に人間よりも高度な存在で、かつ全ての原理原則を把握している存在は未来を予測する事が可能だということを指し示している。また、不完全な人間であっても、今より高度な原理原則を認識する能力を獲得すれば、未来予測が可能になるはずだという確信にもつながる。


 この「より高度な認識力を身につけることによって、未来予測が可能になる」という考え方を進歩主義という。進歩主義が道徳的決定論と結びつくと、認識力がより洗練される事によって、道徳がより正しいものに「進歩」するという考え方になる。これが進歩的道徳観だ。


 それでは不完全な人間が、より高度な原理原則を認識するためには、どのような方法を採れば良いのか? それは、世界に隠れている、あるいは隠されている何かを「発見」することによって達成されるはずだ。この考え方を「認識の視覚的アレゴリー(比喩)」と呼ぶ。


 ところが、人間の認識力は視覚とはイコールでは無い。たとえば、私はアラビア文字を視覚的に「見る」ことは出来るが、アラビア語の単語や文法を知らないので「読む」ことはできない。従って、認識を視覚に喩えることは正確では無く、厳密な定義が必要な時には不適切である。


 このような視覚と認識の不一致は、20世紀以前にも知られていたが、ほとんどの宗教家や哲学者は認識に正確な定義を与えることができなかった。認識と視覚は不可分な関係に置かれたまま、人間が特殊な認識能力を獲得することによって、隠れた、もしくは隠された世界から真理を引き出すことが可能だとされた。


 「認識の視覚的アレゴリー(比喩)」の代表的なジャンルがオカルト(隠秘学)だが、これ以外にも深層心理を想定している心理学、人間に秘めた力が眠っていると考える超能力、言語に正しい意味が内包されているという前提の解釈論、霊界や死後の世界が想定されている宗教も該当する。


 そして、ここから重要だがキリスト教圏における自然科学も、基本的に決定論と「認識の視覚的アレゴリー(比喩)」を自明のものとして採用していた。つまり、世界には暗号のように神によって隠された何かがあり、科学の進歩によってそれらを発見していくという考え方である。


 その極端な例がラプラスの主張で「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう」というものだった。


 しかし、ラプラスの予測は外れた。1920年代になると、量子力学の発展と共に決定論では説明できない現象が研究対象となり、どうやら世界は量子レベルでは規則性が存在しないだろうという説が有力になった。これに反発したのは、同じ物理学者達だった。


 その中でも、相対性理論の提唱者であるアルベルト・アインシュタインの反発ぶりは有名で、彼は知人の物理学者であるマックス・ボルンに「彼(神)はサイコロを振らない」と手紙に書いたが、現在ではアインシュタインの説は否定的に受容されている。


 つまり、非決定論的な世界観が正しい事がほぼ確定したわけだが、これで価値観の一大転回が起きたかというと、実はそうでも無いからややこしい。少なくとも、20世紀以前に確定した自然科学の諸原理の多くは、現在でも正しいとされている。


 例えば、物理学では量子力学以前に成立した力学系のジャンルは古典力学、それ以降に発展した量子に関する=非決定的な力学を量子力学として分類している。つまり、同じ物理学に決定論に基づくジャンルと非決定論に基づくジャンルが同居していることになる。


 また、現在でも非決定論的な考え方に否定的なアカデミシャンは、物理学を含めて結構いる。ただし、彼らが非決定論的な考え方、例えば確率論などは代表的なものだが、これが理解できているかというと、かなり怪しいとしか言いようが無い。

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