第5話 なにもなくて、冬


俺は地元で話題(チョロイ、こちらの言いなり、など)の精神科に行き、自分がウツで毎日死にたいと思っていると力説した。医者は「ふうん」とだけ言い、うつ病の診断書を書いてくれた。それを職場に持っていき、半年間の休職期間をもぎ取ると、その場で辞表のテンプレートと退職届も貰っておいた。総務の人は「なんだかイキイキしているね」という。「やりたいことができたんで」と俺は笑った。


半年後に退職したらハローワークで失業保険をもらうつもりだ。これからの生活にいくら金がかかるかわからないから、こうした制度はフルで活用していこう。そして実際、ほとんど金はかからなかった。


***


加藤トマの猟銃はシンプルな村田銃で、彼女はこれで幾頭ものヒグマを撃ち、その恵みで捨てられた子供たちを育てたらしい。「私は撃ったことがないですが」と良子に銃の手ほどきを受ける。弾は湿気を避けるように(水とり象さん!)とともに屋根裏に隠されてあった。俺は銃を担ぎ、おそらくはトマばあさんも歩いたであろう山のけもの道を歩く。


大きな木、小さな木、枝、岩、沢、それらが行く手を遮る山の中でも「ここを歩くしかない」という道があった。そんな道を歩くと、必ず強烈な糞のにおいに出会う。その匂いは嗅覚を刺激し、全身の細胞を目覚めさせる。けもの道の探索を初めて3日目、音と匂いの感覚が完全に覚醒したことが分かった。それは命との距離を測るセンサーだ。銃を持たずに歩くと、好奇心旺盛な小鹿が目の前に現れる。その後ろには大きな母ジカがかならずいて「ほら、あれがニンゲンよ、足が遅いし力もないから安全だけどあんまり近づいちゃあいけません」と言っている。だいたい10mぐらいの距離まで近づくと逃げる。銃があれば初心者でも楽勝で撃てるだろう。だが実際に銃を担ぐと100m先にいても逃げる。殺気があふれているんだろうか。


「銃があっても、銃の存在を忘れるぐらいになれ」とトマばあさんは良子に教え込んだらしいが、良子は最初っから銃なんて持たずに獣との交流にいそしんだ。撃ち殺す必要がなかったからだ。


良子は獣たちの人間?関係を完全に把握していたらしい。「やっぱり山の向こうにいるヒグマの家族が一番つよくて調停役です、神様、総理大臣、大統領って存在、エゾリスとかヒグマさんの超大ファンで、いっつも木の上から瞳をうるうるしながら観戦してます」で、なぜかお腹がすいたらいつの間にか食料が神社に届くのだとか。ホントかよ、まあ、本当なんだろう。


そんな話を岩の上でおにぎりを食べながら思い出す。日差しが温かく、虫たちが喜んでいる。発熱するコケの絨毯のにおいを楽しんでいたら25mぐらい先からシカがやってきた。「最近、シカたちの喧嘩が激しくて、若いオスが居場所がなくなってきているってヒグマさんが言ってました」とのことだ。良子はそんな情報を得る代わりに、この世が9次元世界でできていることや物質の最小単位がひもであることを教えてあげるという。ヒグマはとても感心するそうだ。へぇ。


ぼーっとしていた。せっかくだから・・えと、何をしようとしていたんだっけ?ああ、そういえば今日は銃をもってた。じゃあ弾をとって、銃にセットして、セーフティを解除して、狙いをつけて、やっぱり心臓かな、引き金を引くか。まあ、どーせ逃げられる。だが、俺のゆったりとした一連の動作を前にしても、そのシカは逃げなかった。ガン!と銃声、硝煙のにおい、シカは飛び跳ね、どこかに逃げようとしたが、すぐに自らの死を悟った。山刀を取り出して解体する。右の太ももの肉だけをもらう。50mぐらいの距離で、キツネやトンビがこちらをうかがっているのがわかる。


鹿もも肉のステーキを一生分は食い、残りは燻製にした。生きている。そう思った。

「冷蔵庫が欲しいな」というと「ですねえ」と良子が言う。占い師、安倍晴明としての子捨ての仕事をするために、良子はソーラーパネルの携帯充電器を持っている。とても便利だが、冷蔵庫を動かすほどではない。これまでは必要なかった。良子はトマばあちゃんに教えてもらった方法で魚や小動物をとったり、山菜や小さな畑で野菜を作ったり、あとはコメなど必要なものは郵便で送ってもらう。


この山奥のさらに奥にも郵便配達はくる、そこに道があるからだ。

しお、しょうゆ、みそ、酒でだいたいの物は食えるようになった。温泉で体を洗ったり、トイレの穴を掘ったり、ここでの生活は本当に必要最低限だった。


特に冬。初めての冬がやってきた。地獄の季節。冬。


***


すべての物が凍る冬。食材の保存には便利だが、生きていくだけでとてもエネルギーが必要だ。まずは体温。どうやって女1人でここで暮らしているかというと、小さな石油ストーブ1つだけだった。円筒型のかわいいストーブだが、つけるとすぐに酸素を燃焼しすすと二酸化炭素を吐き出す。狭い空間を温めるには十分だが、ずっとつけていると一酸化炭素中毒になってしまうのだ。だから換気が欠かせないが、周囲は高い雪に覆われている。トマばあちゃんの時代は男手がたくさんあり、人力で雪からこの建物を守っていたらしいが、いまはどうしているのか?なんと「しらない」とのことだった。誰かがここまでの道を除雪してくれているのだ。挨拶もしたことがなければ、顔も見たことがないという。


だれなんだ?


毛皮の毛布にくるまれて朝の寒さに閉じ込められていると「ザッ、ザッ」という音が外から聞こえる。ガラス戸のむこうに人がいて、スコップで除雪をしてくれていた。立ち上がり、ガラス戸をあけ「あのー、すいません」と声をかける。そのおじさんはこちらを向き、満面の笑顔、そしてふたたびザッ、ザッ、と除雪作業を始める。俺はさらに近づいて「ありがとうございます」というと、おじさんは「えへへ!さぶいねえ!」と笑った。「今年からここに住み始めました、よろしくおねがいします」「うん!頼むね!ありがとう!」「あの、どうして、ここまでしてくれるんですか?」「だいじょうぶ!ありがとう!えへえへ!」ザッ、ザッ、というところで会話をあきらめて、寒いから社に戻った。


加藤トマと捨てられた男たち。トマの最後の弟子良子。トマの生活を支えていたのは子供の良子だけではなく、成長して、社会に復帰した男たちがいたんじゃないか?


***


だいたい数か月に1度、良子の携帯が鳴り、安倍晴明の占いが始まる。客は様々だ。人生を捨てたい俺のような男。子供を捨てたい女。親を捨てたい。兄弟を捨てたい。でも、そんなことは言い出せない。考えてもいけない。心の底に押し込めて、暗い表情でやってくる。良子は超人的な洞察力でそれを読み取り、話をする。

「捨てていいですよ」

と良子が言えば、言われた人間はぼろぼろと涙を流し崩れ落ちた。横で見ていてもつきものが落ちていくのがよくわかる。

だが、これはいいことばかりじゃあない。

善行とはとてもじゃないが言えない。

例えば、良子の面談の数日後に札束をもってやってくる男がいる。「やってやりました!」と興奮している。パワハラ上司を包丁で刺したらしい。「よかったですね」と良子は笑う。

子供を捨てに来る場合はもっとやっかいだ。良子は子供を育てた経験がなく、あってもここじゃあ殺してしまうだけだ。ミルクもなにもない。ではどうしているのかというと「だいたい数日したら誰かが迎えに来ます」という。地元の警察や役所の福祉課の人間はここのことを知っていて、なぜか子供が捨てられたことがわかるようだ。


でも、どうやって?


ほとんど人との交流を捨てている良子のことを誰かが監視しているのだろうか?

うーん、わからない。鍋にみそをいれながら考える。あ、そろそろみそが切れるな。こんど・・・・あ!


***


代引きでみそやコメをもってきた郵便局員は小太りの中年で「はい!はい!」と返事がとてもいい。こんなところにまで配達するのは相当大変だろうに、そんな気配すら出さないのは大したものだ。「大変ですね」というと「いえいえ!」と腰が低い。「さいきんは、子供を捨てに来る人は来ていませんか?」「実は、明日それっぽい人がやってきます」「そうですか、そちらも大変な仕事ですね」


こんな日常会話があった。そうして、数日後、役場の福祉課から人がやってきて、子供を保護するのだ。


「本当は、お母さんの住所とか名前とか残していってほしいんですよね」「やっぱり、子供が成長すると会いたくなったりするんですか?」「それもありますけど、戸籍とかね・・いろいろ大変なんですよ」


思えばこの時だった。俺たちがこの土地を捨てずに生きていける最後のチャンスがこの時だったんだ。だけどこの時の俺は何も見えちゃいないし、なにも知らなかったんだ。後悔しても仕方ないが、この「この時」という瞬間というのはいつも後になってわかるもんだ。

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