終章幻想



背中を丸め、暗示の罠に縛られたように地面に視線を落とし、働き蟻たちの動きを凝視していた。

一匹の働き蟻と目が合った。

こちらをじっと見て促す。

「おい、俊介。そんなところでぼさっとしていないで、早く獲物を捕りに行かなくっちゃ駄目じゃないか」

「おう…」

訝る生返事をし、もぞっと身体を動かした。

霜月に近い神無月ともなれば、早朝の空気は肌寒い。輪廻の息を吹きかける風が、冷えた首筋を撫ぜ鼻腔をくすぐる。

うずくまる高田俊介が、たまらず「ハッ、ハクション!」と、大きなくしゃみをした。と同時に、はっと目を覚ましたように瞬きし、肩をすぼめ身震いする。

「おお、寒ぶ。うんにゃ、一体こんなところで何をしているんだ。何だか、小言を言われたような気がしたが…」

皆目見当がつかず目をぱちくりさせ、冷えた身体が堪えるのか愚痴る。

「こりゃたまらん。こんなところでじっとしていたせいで、冷え切っちまったじゃねえか。これじゃ風邪を引きそうだ」

呟いた後、握り締めた拳で目頭を擦る。

「しかし、俺って、ここで何をしていたのかな…?」

思案しつつ、まるで触角をしごくように頭を掻き、ひょいっと辺りを見廻した。そして、怪訝そうに呟く。

「ううん、何があったというんだ…?それにしても寒いな。まったく、こんなに身体が冷たくなってら」

狐にでも抓まれたような顔をした。それでも、もやっとしたまま立ち上がり、入間川に架かる橋をもと来た方へと歩み出し、そしてゆっくりと走り出した。

「如何にも分からんな。俺、あそこでじっと座り込み、結構長い間いたような気がするんだけど…。確かに、動く蟻を観ていたよな。けれど、知らぬ間にこの身体が何かしていたような気もするんだ。はて、何だろうか…。いいや、思い出せねえ」

視線を鳥肌の立つ腕に移し片手で二の腕を摩りつつ、走りながらしきりに何かを思い起こそうとする。

「…ううん、待てよ」

そうか。そう言えば、昨日は花金だったからな。それでつい、居酒屋で盛り上がり飲み過ぎたんだ。二日酔いで頭痛がひどかったが、何時もの日課だ。今朝もジョギングしに出たんだ。それにしても、昨夜は馬鹿上司の悪口を肴に随分飲んだな。

息を整え走りつつ、今朝への記憶を辿る。

おお、思い出してきたぞ。それで入間川に架かる八瀬大橋を渡り、あそこまで走って行ったんだ。辿り着く頃には、結構息が上がっていたものな。お陰で少し汗をかいたせいか、悪酔いも抜けた気がしたよ。その後、あの橋の袂で一息入れていたんだ。

そうそう、あそこの青かびの蒸した石のベンチに腰掛けてな。直に爽快感が漂ってきて、気持ちよかった。それで息を整え、何の気なしに足元を見たたら、懸命に獲物を探す蟻の動きに目が止った。結構、蟻って目まぐるしく動き回るよな。その動きを視線が追っていた。

そうだ、じっと見ていた。草むらや石ころの奥から何匹もの蟻が出てきては、獲物を探しながら動き廻っている。不規則に動く奴もいれば、帰り来る蟻と触角を合わせ、何やら話し合っている者。それに蝉の羽を咥え運んでいる蟻と、いろんな動きを追いかけていた。そうだ。そんな、忙しない彼らに引き込まれるように覗いていたんだ…。

しかし不思議だな…。そうこうしているうちに、何時の間にか何にも分からなくなっちゃって。如何していたか知らねえが、今思えば、そんな働き蟻たちの中に吸い込まれて行ったような。と言うか、その世界に居るような気がしたよ。でも、如何も解せねえ…。如何して、そんなことになったのか?

如何にも不可解と言う表情で、遠方を覗う視線となり、しきりに思いを巡らせながらゆっくりと走っていた。

それにしても、ううん?あの時…、確か誰かに呼ばれたよな気がする。そう、働き蟻に視線を投げていた時だよ。待てよ、ひょっとして、あの働き蟻だったかもしれんな。

…まさか、蟻が俺の名前を呼ぶはずもなかろう。いや、待てよ。確かに、動き回る蟻たちをこの目で追っていた。あの時観ていて、そのうち何やら奴らに呼び込まれるような感じになっていたんだ。

そうだ、あの時だ!一匹の働き蟻と、如何言うわけか目が合った。そんなこと有り得ないと思うが。でも、本当なんだ。それで、語り掛けてきたような気がして。聞き耳を立てた。すると、その小さな蟻が、何か話しかけているじゃねえか。

俺は、更に聞き耳を立てた。すると、「おい、俊介。何をぼさっと、そんなところで休んでいるんだ!」と告げていた。それで、はっとしって言い訳したんだ。「悪い、悪い。家からここまで走ってきて、息が切れてしまったから、ここに腰掛けて休んでいたんだ。それに昨日は花金だったので、たらふく酒を飲んでな。おかげで二日酔いになって参ったよ。けど、走ったお陰で酒気も抜けた」と応じていた。そしたら、その蟻が、また言ったんだ。「分かった。でもな、お前は働き蟻なんだぞ。だから、二日酔いの酒が抜けたとか言って、そんなところで休んでいる場合じゃない。俺らと共に早く獲物を探しに行かなきゃ駄目じゃないか」って、更に「獲物の在り処を教えるから」と、触角を近づけてきたんだ。

確かそうだったよ…。元はといえば、昨夜散々上司の悪口言って飲み、職場の改革だのと能書き垂れていたからな。潜在的にストレスを抱え、憂さを晴らしていたのも起因してるか。

胸の内で反芻しているうちに、徐々に思い出してきた。

だから、何のこだわりもなく、あの働き蟻の仲間になって。つい人間であることを忘れ、蟻の世界へと入り込んでいたんだ。それでな、俺もその働き蟻に、獲物の在り処を聞こうと聞き耳を立てた途端、如何言うわけか頭の先がこそばゆくなって、つい手でしごいていた。生えてきた触角をな。それで、その蟻に獲物の在り処を聞いていたんだ。それから、教えられた通り探しに行ったように思う…。

そこまでしか思い起こせないのか、その先の記憶が途切れ、目をしばつかせる。

でも、その後のことがまったく覚えていない。あれから何処へに行ったのか。その後如何なったかも…。

そして、現実を見つめる。

まさか、そんなことはないだろうが。俺が働き蟻になるなんてよ…。ううん、分からんな。気づいたら、あそこでしゃがみ込み、じっと一点を見つめていたんだからな。しかし、おかしなことがあるもんだ。

その後のことがついと出ず、反芻を中断する。

「それにしても身体が冷えちまって、危うく風邪を引くところだったぜ」

また愚痴り、冷たい川風を受けながら走る。

直に息が荒くなってきた。それでも、もやっとしたまま走り続ける。

しかし、不思議なことがあるもんだ。でもよ、話は変わるが俺ら人間だって、いろんなことがあるよな。そこには共存共栄して行くための決まりがあるが、平和に暮らすというのは難しいものだ。世界を見れば至る所で衝突が起きているものな。

ところで狭い話だが、俺の勤める会社だって同じことが言える。まあ、いろいろ馴染めねえところがあるし、不平不満が湧くことも事実だからな。だからと言って、その組織のルールの下で折り合いをつけなければ、肩身の狭い思いをすることが多々ある。

そりゃ、蟻社会の中だって、他の動物や昆虫の世界だって同じだろ。ましてや、人間社会だって変わらないんじゃないか。こんな変化の激しい世の中だ、何時まで経っても古い体制にしがみついているようじゃ、時代の変化に立ち遅れ、潮流に飲み込まれ消滅してしまうものな。

動物や昆虫、更には植物だって、時代や環境の変化に順応できず絶滅して行った生き物が幾多いるじゃねえか。恐竜やマンモスが如実に示しているぞ。多少違うが、それを人間社会、特に会社組織に当て嵌めてみれば同じことが言える。駄目な会社ほど、管理職は周りに責任を転嫁し、己の力のなさを棚に上げ、それを隠すように自らの特権にしがみつき保身を図るだけ。それを視ている部下も表面ずらを合わせ、裏では机の下に唾を吐くが如く上司をなじり、能書きだけで何もしない。そんなことが日常茶飯事だ。

さっき夢見ていた蟻社会だって、何千万年と種族保存されてきたが、自然という環境の変化に適応できなくなければ、いずれ絶滅することだって有り得ることだ。それを回避するため懸命に生きているんだろうが、なかには人間社会と同じように反発したり、仲間同士で争う蟻たちもいるんじゃないか。

だけどよ。どの社会であれ組織の中での醜い争いや、欺くような行為は許せるもんじゃないぜ。そんなの蟻世界で言えば働き蟻の屑だし、我が社会でも人間の屑だ。会社でいえば、いずれ消滅する屑会社ということになる。うん、待てよ。そんな会社あったか?

おお、よくよく考えてみりゃ、何だこりゃ俺んところじゃねえのか?こりゃ、大きな声じゃ言えねえぞ。

息が上がってきたせいか、はたまたストレスが湧いてきたのか表情が曇りだす。

「ああ、嫌だ。花金の夜に二日酔いになるほど飲んで憂さを晴らしたのに。上司とはいえ、またあの張子の虎野郎のことを思い出してしまったぜ」

愚痴り、自身に言い聞かせる。

「それにしても、ひょっとしたら、そんなの俺んところだけじゃねえかも知れんな。まあ愚痴になるが、そんなのはどこでも日常茶飯事だからな。だからストレスが溜まるし、それを抜くため仕事帰りに酒の力を借りて解消するんじゃねえか。橋の袂で懸命に動き回るあの働き蟻たちだって、ひょっとしたらそういうこともあるんじゃないか…?まあ、如何だか分からんがよ」

独り言を洩らしつつ、入間川に架かる橋の途中まで来たところで足を止める。荒くなった息を整え、ふと欄下を見下ろすと、寒々とした水面が小波を立て勢いよく流れる光景が目に映る。

ひと吹きの冷風を受け、愚痴がついと吹き飛んだ。大きく息を吸ってみるが、何となくすっきりせず、ぽつんと呟く。

「それにしても、不思議なことがあるもんだ。何時もは意識することない蟻たちのことなんか考えてよ…」

そして、不可解な思いを吹っ切る。

「まあ、さっきの働き蟻も俺らも同じようなもんだ。組織の中じゃ、同じ雑兵だからな。とは言え、どこの世界でも、何時の世でも、その時代の変化に応じて変わらなければ、進歩なんて有り得ないやな。そういう意味じゃ、改革というのは常に必要なんだよ」

「おっと、こんな妙ちくりんなこと、何時まで考えても仕方ねえ。それより、早く帰るとするか」

また、家路へと向かい走り出した。流れる入間川の川面から、八瀬大橋上に舞い上がる清秋の風が、顔に当たり吹き抜けて行く。

「うひょっ、冷つめてえな!」

顔をしかめ、避けようと首をちじめた。つれて、腹の虫が「ぐうう・・・」と鳴った。思わず腹に手をやる。

それにしても腹が減ったな。そう言えば、昨夜から酒ばかり喰らって、まともに飯を食っていなかったんだ。さあ、早く帰って、焼き海苔と温かい味噌汁で朝飯でも食うか。それじゃなきゃ、身体が温ったまらねえからよ。

湯気の立つ朝げを思い浮かべつつ速度を速める。直に息が弾み出した。大橋を渡り終え街中へと入ってくる。その頃になると、もはや不可解に思えた働き蟻らのことなど消え、美味そうな朝食のことしか頭になかった。

どこからか、味噌汁の炊く匂いが漂ってくる。

「ああ、腹減った」

走りながら、鼻をくんくんさせた。香り立つ向こうで、つと蘇る。

うむ、久美子?働き蟻の俊介が、生涯愛しだ女性か…。

一瞬間を置き、ため口を洩らす。

「うん、…何だ。手前の女房みてえじゃねえか」

思わず出て照れくさそうにはにかむが、鼻腔をくすぐる香に、忙しく仕度する後姿を思い描いては、一瞬たおやかな気持ちに包まれる。が、洩らしたそばから如何にもこそばゆいのか苦笑いし、指先で鼻を押さえ「くすん」と鳴らした。


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雑兵たちの幻世(ぞうひょうたちのまほろば) 高山長治 @masa5555

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