五
季節が変わり、時がゆったりと流れる。
青々した新芽が大地から顔を覗かせ、吹く風が淡い春を告げていた。新風のあたる日向で、俊介が遠い日でも覗うように目を細める。
そうだったなあ、あの時は。思い起こせば、やはり俺たちの考えていたことが正しかったような気がするよ。強権政治で巣穴を統括しようなんて、長続きしないものだ。菊地らの過ちを見れば分かる。
それにしても、自然界の神様は正しき者に味方する。例の件だが、我ら巣穴を攻められていたら大惨事になるところだ。勿論、平松らの行動阻止にしても神様が助けてくれたようなものだ。
しかし、暴君と化した菊地は、どこかに隙を作っていたのだろう。忠実な部下と心許していた者に命を奪われるなんて。平松にしても、相当ひどい目に合っていたように風の噂で聞いた。その恨みが重なり、菊地を死に至らしめたのであろう。
そして平松は、今度は己が菊地になろうとした。また部下を苦しめ暴君と化そうとした。己を見失うと、菊地の二の舞になることを忘れてな。哀れにも天に見放され、人間の子供が乗る自転車に踏み潰されるとは。まあ、平松や仲田にしても死んでよかったのかもしれないな。
そう思えた。そして、更に追憶する。
幸いにも神様がそれを許さなかった。菊地が殺されたことは已むを得ぬとして、もし平松が反面教師とし、引き継いだ巣穴を統治していれば死なずにすんだのに。
我らだって争いは避けたい。巣穴に危害が及ばなければ、好んで仲間同士の争いなどしなくてすむ。平松も何故そのことが分からなかったのか。越冬するための備蓄食料が不足していれば、如何して相談に来なかったのか。我らは殺生し合うことを好まない。援助を求められても、決して軍門に下ることではない。それを奪い取ろうとするから罰が当たったのだ。
我らだって、備蓄食料が余っているわけではない。がしかし、仲間が苦しんでいれば相談にも乗ろう。必要なら我らの食う分を減らしてでも、譲ったというのに。
それを考えると、つくづく残念でならなかった。でも、今となっては詮無いと思う。
だが、そんな事件の結末で、我らの巣穴改革が終ったわけではない。今までにも増して、推し進めていかなければならない。
改めて、そう確信する。
まだまだ、やることが山ほどあるんだ。後ろばかり見ていても仕方あるまい。前を向いて進もう…。
俊介は固く心に決めた。
まず思い立ったのが、久美子とのことだった。今では一つの部屋に暮らしている。何故そうなったのか、今一度問い直してみた。すると分かってきた。人を憎む。それが菊地の生き様であり、そのことから逆に人を愛することに気づいた。今ある二人の在り方が、論を通じてそうなったわけではない。本能に基づくものであったが、結果的に愛と言うものを知った。それが久美子に対する抱いていた己の気持ちだった。
知り得て、直ぐに彼女に尋ねた。
答えは同じだった。異性を愛すること。それに真正面から向き合い、時には迷い時には焦り、試行錯誤しながら苦難を乗り越え、愛することが何なのか、それに気づきその愛を深く知り得て、互いに理解し結ばれたるのだ。
これが、二人の成し得た生への改革であった。
そうなんだ。愛するということは、こういうことだったんだ。これで今まで胸に澱んでいた切ない気持ちがすっきりした。久美子にしたって、俺だって、今ではあの時の辛さが嘘のように思える。でも胸の高鳴りや息苦しさ、思い出せば新鮮に蘇える。それが、互いに感じる愛なのか。これを俺は追い求めていたんだ。改革というのは、何も形あるものだけでとは限らない。無形のものであろうと、大切な改革というものがあったんだ。
つくづく感じた。
俊介は悟ったように思えた。今まで胸に痞えていたわだかまりが消え、確固たるものに変っていた。
いずれにしても我ら巣穴だけでなく、蟻族にとってこのように愛し合うという関係を築いたのは、俊介と久美子の二人が初めてだった。この二人の行いは、直ぐに仲間に伝播し、時雄や国分、そして他の仲間たちも、皆愛に目覚めていったのである。
異性を好きになる。
人間社会や他動物では本能であると同時に、ごく有り触れたことかもしれない。だが、蟻族にとっては、今までにない一大変革であった。そう、何万年、何千万年と生き永らえてきた生き様を根底から崩すものと言ってよい。生を受けた時から役割が定められ、そのことのみを一生掌り、それ以外のことには何も感心を示さず、また持つことなくその命を閉じる。思想や行動にしても、いわんや生き方そのものがそのように躾られ、何も疑わず従事することが、この社会では常識となっていた。
その常識に風穴を開けることの難しさや苦労は、一筋縄で出来るものではない。その大きな改革をこの巣穴社会の中で、俊介を中心として、水面に投じた小石の波紋のように幾重にも広がっていった。主を失った菊地らの巣穴は統率する者がいなくなり、蜘蛛の子を散らすように飛散した。その後誰もいなくなった蟻塚は、自然の力によって風化し跡形もなくなっていた。
愛するものを得た俊介は、久美子と共に充実した日々を送る。その改革精神は止まるところを知らず、益々旺盛になって行った。巣穴社会の運営や秩序作り、そして獲物の捕獲方法と次々に斬新的な手法を加え、時雄や将隆それに国分らと共に変革に取り組んでいた。今では構成員も大きく膨らみ、更に活気の溢れるものとなっていた。
自らの考えで行動し巣穴社会の発展に貢献する。その理念の下でより豊かな生活を送るため、更に改革の輪を広げ賛同する仲間を増やし、俊介が始めた小さな一歩が、大きなうねりとなり発展して行ったのである。
「あの時が転機だったかもしれない。そう思わないか、久美子。もし俺が、君との出逢いにすれ違いがあったなら、今の俺など有り得ない。この改革も途中で頓挫していたかもしれないよ」
「いいえ、私だって目覚めさせて貰わなければ、あなたと同じなのですよ。だから俊介さんを好きになれたのも、あなたが改革、改革と追い掛け回してくれたから感化されてしまったんだわ。だって、最初の頃は何がなんだか分からなかったもの。それでも懲りずに導き続けてくれたお陰で理解することが出来たの。感謝しているわ」
「何を言っている。そんなに追い掛け回してはいなかったぞ。それより逆じゃないか。最初の頃の君は、ぼけっとしていたような印象だった。それに飲み込みが悪いんでやきもきしたよ」
「何よ。私、そんなに覚えが悪かったかしら。でも、ぼけっとなんかしてなかったわよ。むしろ、あなたの教え方が悪かったんじゃない?」
「何言ってやがる。この…」
久美子の額を軽く小突く。
「痛い!」
よろける振りをして寄り添った。
「でも、俊介さんがいなかったら、私、一生働き蟻として獲物探しの役割を全うしていたと思うの」
「そうかもしれないな。俺だってそうだ。何も考えず、決められた役割に満足していたら君と同じだったな。そう思うとぞっとするよ」
「そうね、私だって。こうやって、あなたの愛を受けることだって出来なかったんだもの。もしそうだったら、私、嫌よ」
「俺だって…」
俊介が久美子の肩を引き寄せる。待ちかねたように胸に顔を埋めた。
抱き締める彼女の甘い髪の匂いが鼻腔をくすぐった。あまねく両肩に彼の力強さを感じ取る。
「久美、愛している…」
「私だって、愛しているわ…」
互いの愛を確かめるように抱き合っていた。
幾数年の歳月が経つ。
巣穴社会も更に拡大し、俊介と久美子のと間に幾人もの子供が出来た。二人の愛の結晶である。時雄や他の仲間たちの間でも異性との営みが築かれ、多くの子供が誕生していた。 役割を定めない自由に育てる子供らだ。
俊介は改めて思い知る。
自分たちが子供を作ることさえ、我々にとって初めてのことだし、それが女王蟻だけの特権でなということ。そして、女王蟻を中心とした仲間集団から、夫婦とその子供の家族が肩を寄せ合う巣穴社会へとなったということを。
これこそが、追い求め捜し続けていたものだったのかも知れない。
我らの知る限り人間社会や動物たち、それに鳥類らの社会でも、ごく自然にそのような営みを掌っているではないか。これこそが、我ら蟻一族の社会で何万年も、いや何千万年も欠けていた営みではなかろうか。
改革とは、このことだったのか…。
二人は互いに見つめ合い、しみじみとこの言葉を噛み締めていた。巣穴社会に改新という息吹が優しく吹き抜けて行く。そして平穏な普段の生活に戻り、働き蟻たちは秋涼の時期を迎え、越冬の備えのための獲物探しに余念がなかった。
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