決意を胸に一途の望みを抱き、ゆっくりと丘を越え、しいの木の見えるところまでやってきた。そこで立ち止まり、大きく息を吸い木の幹元を覗う。

俯き祈る彼女を見た。

おや?あれは、久・美・子では…。

目を疑う。すると、全身に緊張感が走りにわかに鼓動が脈打ち始めた。

まさか、想い来てみたが夢ではないのか。あれだけ悩んだ彼女が、あそこにいるなんて…。もしかしたら、幻ではないのか。深く想うあまり幻覚を見ているのではないか。

硬く握った拳で目を擦る。そして、期待願う。

幻覚なら消えてくれ。いや、現実であって欲しい。木の下にいるのが、愛しい久美子なら、消えないでくれ!

胸の内で叫んだ。

そして、恐る恐る目を開ける。視線が久美子を捉えていた。現実だった。俯く彼女を見い出していた。

想い悩んだ末、会いに行こうと決意し、不安と期待を抱えやってきた。俊介自身、こんなに早く会えるとは思ってもみなかった。冷静でいようと気負うが、鼓動が激しく高鳴り出す。吹っ切れた心算でいたが、いざ目の前にすると頭の中が混乱していた。動揺する気持ちは、更に落ち着きをなくす。

如何する。何を話したらいい。ともかく落ち着け、落ち着くんだ!いちるの望みを持って来たが、直ぐに会えるなんて。自分の気持ちを素直に伝えようと決めてきたんだ。けれど、急に近づきそれだけ言うことなど出来ない。始めに何を話せばいい。いや、とにかく落ち着け。

己に言い聞かせ、揺らぐ胸の内で思案する。

如何する、俊介。ああ、それにしても会えるなんて。何と打ち明けたらいい。どんなことを話し、そしてこの胸の内を、如何語れば分かって貰える。待て、このまま黙っていれば変に思うだろう。何とかしなければ。そうかと言って、直ぐに「好きだ」と告げたら驚くだろう。それじゃ駄目だ。しかし、黙って抱きしめたら、それも不意で拒まれるかもしれない。

そうなれば気まずくなり、気軽に話など出来なくなる。それでは打ち明けることが出来ない。とは言え、改革の話をしたところで当たり障りのない話で終わってしまうだろう…。そうなれば尚更、好きだなんて言えなくなる。…如何しよう。

立ち止まったまま、乱れる心を整理出来ず、ただ立ち尽くしていた。

それにしても、久美子は俺を見つけたはずなのに、何時まで俯いている。何かあったのか…。ああ、如何する。このまま自然な振る舞いを装い、久美子のところへ行き声を掛けようか。

そう思うが、一歩も足が出なかった。そう考えるだけで気持ちばかりが焦り、身体が動かないのだ。それどころか、更に鼓動が高鳴り、身体中が熱くなっていた。

会いたいという滾る想いが、実現したんじゃないか。せっかく会えたのに、如何して素直になれない。正直に、「好きだ」と言って、思いきっり抱き締めればいいじゃないか。何故そうしない。何をうろたえているんだ、俊介。しっかりしろ。この期に及んで、打ち明けるのではなかったのか。そう決心したんじゃないのか!

思い余るほど頭に血が上っていた。声を掛けようとするが喉が締めつけられ、唇がひび割れるほど渇ききっていた。叫ぼうとするが思うように声が出ない。生唾と共に大きく息を飲む。

「く・み・こ」

やっと絞り出した。が、彼女には届かない。更に勇気を出し夢中で呼んだ。

「久美子!」

同時に、無意識のうちに足が出ていた。俊介の声に、久美子の身体がぴくんと反応した。その声に応え視線を上げるが、返事が出来ない。

ああ、俊介さん。やっぱりあなたなのね。夢ではないのね。

心の中で、応えていた。

言葉にならなかった。

俊介の姿がぼやけていた。

輝く瞳から堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。零れ落ちる涙を拭い、彼に向かって走り出していた。それを見た俊介が、応ずるように歩み出し、その足が速くなり駆け出した。直ぐに近づく。二人の足が止まり、互いの目を見る。

久美子は俊介に何か言おうとした。俊介もまた心の内を打ち明けようとした。が、何も言い出せなかった。と言うより、喉が渇き切っていた。

じっと見詰め合う。ほんの一時の出来事であったかもしれない。だが二人にとって、その瞬間が止ったように長い時間に思えた。

俊介が告白しようと息を飲む。久美子も、「俊介さん!」と叫ぼうとした。が、その一瞬の後、俊介が乾いた声で叫ぶ。

「久・美・子!」

その言葉に突き動かされた。

「俊介さん!」

呼び合うと同時に、自然界の女神が優しく二人の背中を押していた。しいの木の下に爽やかな風が流れる。すると、求める気持ちが一つになり、引き寄せられるように抱き合っていた。

彼女が俊介の胸に飛び込んで行ったのか、彼が久美子の肩を抱き寄せたのか分からぬが、本能の導くままに抱き合っていたのだ。暫らくそのままでいた。時間が止まったように動かなかった。どれだけの時間が過ぎて行ったのか。どれほどの時が止っていたのか、分からなかった。

しっかりと、そして息が詰まるほど強く抱き合った。

待ち望んだ、悠久の時を迎えていた。

俊介は久美子の甘い髪の匂いに包まれ、彼女の胸の感触が伝わってくる。俊介は有り余る力で抱き締めた。久美子は息が出来ぬほど満たされていた。彼のたくましい腕の中で、しっかりとその愛を感じ取っていた。嬉しかった。嬉しくて涙が溢れてきた。

暫らくそのままでいた。そして俊介が、ゆっくりと彼女の両肩を離し、涙に濡れる瞳を見て打ち明ける。

「久美子、お前が好きだ」

すると、肩を揺らしすすり泣く声でしゃくりあげる。

「私もあなたが好き。あなたに会いたくて、如何しようもなかったの…」

しっかりと俊介の胸に顔を埋めていた。言葉はそれだけである。それですべての想いが伝わっていた。そして、再び強く抱き合っていた。

無言の時が流れる。

「…」

「…」

幾つもの出来事が去来していた。抱き合い、蘇る思いを噛み締めていた。何度諦めようとしたか。どれだけ焦がれ悩んだことか。無数の想いが二人を包む。それも今は終息しつつある。温もりを感じつつ、互いの息遣いを聞き、苛まれていたすべての苦しみが消えて行くのが分かった。すると微かに、安らかに刻む鼓動が感じ取れていた。

俊介がそっと久美子の顎を上げ、求めるように口づけをする。待ち望んでいたのか深く反応した。その瞬間から二人は、堰を切ったように弄り合い、そしてその場に崩れて行った。

俊介は夢中だった。久美子もそれに応じた。思わず俊介の腕に力が入る。

「あっ、痛い。あまり強くすると、苦しい…」

「あっ、ご免…」

俊介のすべてが注がれ、久美子もすべてを受け止めた。恥じらう気持ちなど消え、悦びが広がっていた。

聖なる欲望の中で愛を受け止めようと、俊介の背中に爪を立てた。

情熱の炎が久美子を焼きつくし始めていた。初めて受ける激しい息遣いに導かれ、身体が反応し始める。

久美子にとって、何もかもが初めてだった。満たされていく悦びが、小波のように打ち寄せ身体が浮いていた。

夢中だった。すべてのことを忘れ、本能の導くままに二人は一つになっていた。

久美子も初めてである。未知なる経験の中で、苦痛と快感をその複雑な気持ちのままに受け止めた。そして、結ばれたことへの余韻に酔いしれる。久美子にとって、大きな不安が拭い去れた証である。

俊介とて同様だ。異性との交わりは未経験の世界であり、無我夢中だった。すべては本能の導くままに、ぎこちなく済ませた。あらゆる心労の種が消え、今までにない何とも言えぬ思いだった。

彼女の耳元で告げる。

「久美子、お前が好きだ…」

肩をぎゅっと抱き締める。

「私だってあなたが好き。こうしているだけで、幸せです…」

そこまで言うのがやっとだった。後は言葉にならず、悦びの嗚咽に変わる。温かい腕の中で、このままいたいと願う。俊介の胸に泣き顔を埋めた。

「馬鹿だな。泣いたりする奴があるか…」

彼女を離し、目頭の涙をそっと拭いてやる。

互いに、今まで経験したことない悦びだった。ゆとりがあったわけではない。如何すればいいのか分からないし、教えられたわけでもない。ただ本能の導くままになしていたと言っていい。

それでも二人は満ちていた。今まで抱いていたわだかまりを拭い去り、得も知れぬ充実感を味わっていたのだ。

こと、ここに至るまで、それぞれの想いや悩み、そして葛藤が日に日に鬱積していたことは事実である。互いがその重圧に身を焦がし、気づけば他の思考を排除するまでになっていた。

自分たちが如何してそうなったのか。また、異性に対する想いや葛藤が果たして何なのか。無垢の二人には明確に分かろうはずもない。ただ一つ言えるのは、互いに気づかぬ本能に導かれたことである。異性を好きになるという恋愛感情は、この本能によって築かれ、肉体関係を導き実現するのだ。

言葉というのは、いくらでも後からついてくる。経験という道を辿れば、それが結果的に知識となる。すべては改革という名の下に、既成概念に囚われず自由に考え行動するという改革精神に端を発しているといえるのだ。まさに二人は、未知への冒険という大胆な行動が、互いに想い合う感情の高まりから、成すがまま求め合うことにより結ばれたのである。

なまじ男女の関係は、知恵を持ち合わせると本能が働く時の阻害要因になるかもしれない。その意味からすれば無知であった故に、本能の導くまま行動できたものである。いみじくも、二人には改革という名の下に突き進むという気概と同じものであった。

己自身の意思を持ち、その考えにより行動した結果それが実現できた。二人には、何とも言えない充足感が漂っていた。黙ったまま互いの瞳を見続ける。

「…」

「…」

言葉を交わすことなく、何時までも離れようとしなかった。いや、離れたくなかったのだ。あれだけ激しかった高ぶりは、今はない。ただあるのは身体に残る余韻だけだ。

久美子にとって、初めて経験した営みは衝撃的ものであったが、それでもその奥に沸き立つ未知なる悦びが嬉しかった。その余韻が下半身に疼く痛みとなり残っている。俊介にしてもそうだ。我を忘れ、狂おしく果てた。それはそれでよかった。一つになれたことが嬉しかった。

言葉を乗り越え、互いの想いを伝えられたことに満足する。契りを交わした後に言葉はいらない。同時に、悦びと充実感を直ぐに失いたくなかったし、少しでも長く持っていたかった。それ故黙ったまま、至福の時を逃すまいと抱き合っていたのだ。その両の肩を夕方の風が、優しく包み込む。

俊介が告げる。

「有り難う…」

久美子は、うんと頷いた。言葉など無用だと思った。それよりも、今しばらく余韻を抱き止めていたかった。言葉をかければ、その余韻が逃げるのではとさえ思えた。

だがしかし、時の経つのは無常である。

離れ難い気持ちが強かった。このまま居たい。満たされる感情をじっと抱いていたいと願う。俊介にしてもそうだが、女心とは違い叶うと征服感に満たされる。すると愛おしさが目覚め、それを守ろうとする。男心の本能かもしれない。

「久美子、お前を守る。だから、何時までも傍にいてくれ…」

彼女の肩に絡めた腕に力を込めた。

「嬉しい。私だってやっと会えたんですもの、もう離れるのはいや。こうして腕の中にいたい…」

俊介の厚い胸に顔を埋め甘える。

「そして、私をしっかり抱きとめ、どこへも行かないと約束して」

「ああ、勿論さ。絶対君を離さない。何があろうと一緒だ。そうだ、そのために巣穴に二人の部屋を作くろう。如何だ、いい案だろう?」

「ええ、今まであなたになかなか会えなかったもの。一緒に暮らせるなら、そんな悲しい思いしなくてすむ。そうなれば、私嬉しい」

「うん、そうだ。そうすれば、何時だって君を抱いてあげられる」

「まあ、嫌ね。そんなこと言って、馬鹿…」

恥ずかしそうに目を落とす。

「だって、そうだろ。今日、始めて分かったんだ。君が必要だって。俺は今まで君のことを考え出すと他のことが手につかず、如何してこんな気持ちになるのか分からなかった。でも、君と一つになれたことで、心の迷いやわだかまりが消えた。これだと思った。俺が今まで求めていたものは。とね」

「まあ、俊介さんったら。自分のことしか考えないで。私だって、あなたに会いたくて、幾日もそのことばかり考えていたわ。すると必ず胸が痛くなった。毎日、この木の下に来ては、一日中来るのを待ち続けた。陽が沈む頃になると寂しくて涙にくれていたの。それが今日、すべてのわだかまりが消えた…」

「それに、ちょっと恥ずかしいけれど、あなたに悦びを教えて貰ったような気がする。でも、少し辛かったけどね。それでも嬉しい。だから、むしろお礼を言うのは私の方かもしれないわ」

「俊介さん、有り難う。けれど、私怖かった。あなたが私に好意を持っていず、ただの仲間としての認識しかなく。それなのに付き纏っていたら、それこそ嫌われるんじゃないかと…」

すると遮り、きっぱりと否定する。

「何を言う、俺は決めたんだ。君を嫌いになるなんて、そんなこと絶対にない。誓うよ。君を離さないと。そして俺が守る」

その言葉を聞き安堵したのか、俊介の胸に寄り添い上目遣いで甘える。

「本当…?」

「ああ、本当さ」

「嬉しい…」

「約束よ。私を嫌いになんか、絶対にならないでね。そして何があっても、私のことを守ってね」

「うん、約束する!」

頷き強く抱き締め、証に熱い口づけをあげた。俊介の深層にあったわだかまりが朝霧の如く消えた。すると、甘い香りのする久美子に愛おしさが沸き、無性に抱き締めたい衝動に駆られる。

俊介は思わず力を込める。久美子はなすがままに任せた。気持ちは同じだ。二人とも高ぶり出す。先ほどの余韻が醒めぬまま、再び燃え上がり激しく絡み合い上り詰めていた。

「久美子…俺、俺は、お前を離さない…」

「ああ、俊介。もっと、もっと、強く抱いて…」

絶え間ない悦楽の小波が、幾重にも押し寄せていた。

何時までも抱き合ったまま、その場を動こうとしなかった。

秋冷近くの柔らかな風がそよぐ。

女神の優しい息遣いが、しいの木の残り少ない葉を揺らし、後押しするように包み込んでいた。

互いが発する悦びの声が、大きく木霊し響き渡っていた。俊介も久美子も、今真に、一つになれたことの悦びをを感じ合っていた。

しいの木の下で抱き会う二人の働き蟻は、何千万年も続いてきた既成概念を打ち破り、かつてない自由意思による男女の営みへと発展して行くことになり、巣穴社会の改革という名の下に、新しい生き方を吸収して行ったのである。




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