ちょうどその頃、一人悩み続ける乙女の働き蟻がいた。

今日もまた会いたさ一心でしいの木の下に行き、焦がれる人を待とうとした。募る想いが機械のように同じ行動をとらせる。こうして幾日も、木の下へとやって来ては待ち続けた。

久美子には、如何してこんな気持ちになるのか分からない。ただ気づいた時には、胸の内に棘のように刺さっていた。

私…、こんな気持ちになったのは初めてだわ。俊介さんだって仲間として認めるし尊敬もしている。むしろ人生の師のような存在であり、今私があるのも彼によってなし得たものだ。声を掛けられ粘り強く導かれていなければ、それこそ一生決められた役目を全うしていたに違いない。

それを自ら考え、闊達に行動出来るようにしてくれたのが俊介さんだ。その彼が、何時の間にか私の心に棲み、胸が締めつけられるような思いにさせる…。

何時もと同様に普段通り接すればいいのに、それが出来ない。俊介さんのことを想うと、途端に胸騒ぎがして、考えるほど深みに嵌まり如何にも止められなくなる。

会いたい。如何しても彼に会いたい…。

募る想いが、更に激しくなっていた。

獲物を取りに出掛ける時も、気づけば立ち止まっている。それが危険なことと分かっていても、ついと忘れてしまうのだ。そして、木の下に来ては想い悩む自分がいる。

果たして俊介さんは、私のことを如何思っているのか。こんな気持ちで、毎日いることを知ったら何と思うだろうか。脇目も振らず改革に邁進している時だ。会った時、焦がれる想いに気づかず、改革のことを尋ねるだろうか。確かに、彼にとってそれがすべてだし、私に求めるのはそのことではないのか。

やはり、気づいてくれないだろう。いや、たとえ私の気持ちを知っても、「そんなことを考えている時ではない」と、一喝するかもしれない。もしそうされたら…。そう告げられたなら、「はい、分かりました。申し訳ありません」と謝り、この熱き想いを躊躇せず断ち切ることが出来るのか…。

いや、そんなこと出来ない。だって彼のこと、これだけ想っているんだもの。それに、か弱い女です。諦めるなんて、そんな勇気は持っていない。

揺れ動くと、胸が詰まり如何にもならなかった。すると涙が溢れてくる。

「いや、絶対いや!彼に嫌われるなんで。そんなの絶対いや。もし、そんなことになったら…。お願い、私の気持ちを分かって欲しい」

激しく頭を振り、切なく呟くのだった。そしていたたまれなく、またしいの木の下へと出掛けていった。幹元に視線を落とし、じっと愛しい人を待つ。何時間でも待った。ふと顔を上げ思う。

今日で幾日になるだろうか…。はっきりと覚えていなわ。でも、ああ直ぐにでも会いたい。会って彼の胸にすがりたい。けれど、ここへ来てくれなかったら何とする。いや、そんなことはない。こんなに想っているのよ。必ず来てくれるはず。それを信じて待つしかないんだわ。

繰り返し念じた。周りの変わり行く様子など目に映らない。つらつら思いつつじっと俯いていると、頬に風が当たった。

はっと辺りを見回すが、風の悪戯だった。

ああ、俊介さんかと思ったわ。違うのね。ただの風か…。

落胆し、大きな溜め息をついて俯き、また考えだす。すると再び、彼のことで頭の中が埋っていた。

一日中そうしていた。ただひたすら、現れるのを祈り待ち続ける。朝早くから、夕方陽が落ちるまで、じっと待つ。陽が落ち出すと落胆し、後ろ髪を引かれるように、何度も振り返りながら家路へとつく。黒く変身した巨木が嘲り笑ってように見え悲しくなるのだ。

幾日経っても現れず、何度も絶望の淵に落とされ、打ち塞がれた気持ちで巣穴に帰る。戻ってからも彼の姿を探し、結局見つからぬまま失意のうちに寝床へつくが、なかなか寝つけず、思い悩んで涙を流すのだった。

そんな日々の中でしばしば迷う。思い余って、行くのを止めようとする時もあった。そう思ったところで、頭から彼が消えるわけではない。他のことを考えようとしても、心に巣喰った彼が這い出し、勝手に動き回るのだ。するとたちまち胸が締めつけられ、息苦しさのあまり溜息をつく。

ああ、如何しても忘れられない。私には、この胸にいる彼を追い払うことなど、とても出来ない。

揺れる気持ちが胸を激しく揺すっていた。まるで、心を焼き尽くすように。

俊介さん、お願い。私を早く見つけて。決してあなたの邪魔はしない。傍に置いてくれればいい。後は何もいらない。だから私を見捨てないで…。

久美子にとり、一人ぼっちの夜が長く辛かった。今までそんなことはなかった。俊介のことを考えるようになり、熟睡することが出来なくなっていた。考え疲れ寝入っても、直ぐに目が覚める。するとまた、切なくなり考え込んでしまう。うとうとしては起き、悶々としているうち朝になった。

だからと言って、遅くまで寝ていられない。今日こそ丘の向こうの木の下に行けば、会えるのではと心が急き、またいそいそと出掛けていった。

そんな刹那は、簡単に断ち切ることが出来ない。

それ故苦しみ、ほんの小さな光明が射せば、それに向かって突き進む。周りが見えなくなった久美子には、わずかな情報でよかった。彼に会えるなら、どんな些細なことでも教えて欲しいと願う。陽が落ち巣穴に戻っても、懸命に居場所を知ろうと尋ね回る。他人が何と言おうと臆することはない。ひたすら会いたいと願うことが、唯一心の支えとなっているのだ。かと言って、尋ねて反応があるのは限られる。一部の感化された働き蟻を除いてはほとんど無関心で、返る返事は味気ないものばかりだった。結局、有力な情報のないまま、毎日しいの木の下で待つしかなかった。

幾日も会えずにいると、時として自身が信じられなくなる。すると勝手に思いを巡らし悪しき方へと傾斜する。今の久美子はまさにそのような状況に追い込まれていた。

弱気の虫は気持ちまで蝕んで行き暗く沈む。するとやがて、熱くたぎる想いとは別に醒めた己が生じ、葛藤の坩堝へと落ちて行くのだ。強気の時は楽天的となり、よい方向へと思考が向くが、弱気の虫に支配されれば、閉塞感へと転がり込む。こうして木の下にきている時でも、葛藤の波は幾重にもなり彼女を襲う。その度に期待と不安が押し寄せ、涙を流したり目を輝かせていたのだ。

「こんなこと、何時までやる心算なの。もういい加減に止めたら。今まで何時間、いや、何日続けて来たの…」

もう一人の彼女に、貶されることが多くなっていた。時には、罵声のような声が響く。

「お前には、俊介に会う資格などはない。とっとと諦めろ。いくら自由とはいえ改革もろくに進めず、役目の獲物探しもせず現を抜かしている。そんなことだから、いくら待っても来ないんだ!」

だが、内にある奇相の自身に罵られても、諦めず辛抱強く待ち続けた。

異性に対する欲望に点火され燃え盛る今、消え細るどころか益々激しく燃え上がっていた。久美子にとって、それが如何いうものか、何故そうなるのか。心焦がすばかりで、分からぬまま女としての本能が織り成す様に操られ、悶え苦しんでいたのだ。

そんな切な日々が続く。

諦められず今日も朝早くからしいの木の下へと来ては、現れるのをじっと待つ。朝から時が流れ、何時しか昼が過ぎていた。

今日も、何度風の悪戯に裏切られたことか。その都度束の間の悦びと、深い落胆が私を襲って行っただろうか。昨日だって、その前だって、冷酷な神様は試練の淵に落とし込む。そして、私から体温を奪い、諦めという冷血な身体にしようとしている。

ああ、寒い…。気持ちも身体も、こんなに冷たくなっている。

そんな苦しみ揺れ動く彼女を、時があざ笑うように過ぎて行く。木の葉が色づく季節になった。陽の光が西の空へと傾きかけていた。赤く染まった風が、また久美子を包んで行く。

俯いたまま小さな声で呟く。

「ああ、今日もまた駄目か…」

肩を落とした。

でも、また明日がある。あるけれど、本当に明日が私に来るのかしら…。

そう諦めの境地に入り込む。すると、時がまた容赦なく、一日の終わりを告げる冷風を投げてきた。冷酷なその冷たい風が頬を撫ぜる。久美子は悲しかった。

如何して私ばかり、神様は辛くあたるのですか。これだけ待ち望んでいるのに、何故俊介さんに逢わせてくれないのですか…。

私が何をしたと言うのですか。ほんの小さな欲する気持ちを、何故持ってはいけないの。それとも…、それとて諦めろと言うのですか。もし私に悪いところがあるのなら、教えて下さい。すぐに直しますから。

…如何して、黙っているのですか。神様、後生ですから教えて欲しいのです。

涙を一杯溜めていた。すがる眼差しで必死に祈っていた。

神様、私は如何しても彼に会いたいのです。あと何日待てとおっしゃるのですか。教えて下されば、その日まで待ちます。どんなに辛いことがあろうとも、ひたすら待ちます。如何かそうさせて下さい。

…神様、私の願いを叶えて下さい。

切ない気持ちで一心に願った。

もうこれ以上、待ち続けることが耐えられなかった。救いもなく冷たい風が頬を叩き、吹き抜けるだけだった。一段と寒さが胸に染み、冷酷な風に肩を落としていた。

叶わぬことなの。私がこんなに想っていても、神様は許してくれないの…。

絶望感に支配され、何とも言えぬ思いが去来し立っていられぬほど足が重くなる。「諦め」という鎖に繋がれた気がして、全身の力が抜ける思いでいた。

悲しかった。

耐えられぬほど辛かった。

目頭から大粒の涙が溢れる。

失意の思いを胸に抱き、巣穴へと帰ろうとして、ふと前を見た。ぼんやりと霞んでいた。が、何かが見えた。

目を擦る。

一瞬、また風の悪戯と思った。

前方の離れたところで、働き蟻がこちらを見ていた。

俊介が立っていた。

久美子は目を疑う。

いるはずがない。今まで何日も待って現れなかったのに、いるわけがないじゃないか。神様だって、私を見放しているのに…。

それでもじっと目を凝らす。

彼だった。

「嘘っ!」

呟き、視線を足元に落としていた。

そうだわ。幻だわ。幻覚に違いない。だって、今まで何度も冷たい風に悪戯され、その度悲しい思いをしてきたんだもの。そう、強く待ち望む気持ちが幻覚となり、いないはずの俊介さんを映し出しているんだ。よく見てみたら木の古株だったりして、がっかりするだけだ。

そうに違いない。また神様が意地悪して幻覚を見せているんだ。でも、もしかしたら木の古株なんかではなく、本当に俊介さんかもしれない…。

胸の鼓動が激しくなっていた。立っていられぬほど気持ちが揺れていた。

本当に俊介さんがいるのなら、早く傍に行き厚い胸に縋りたい。でも、もしかして違うかもしれない。いや、私は見た。確かに、あそこに立っているのを。でも、幻かもしれない。ああ、如何しよう。早く行かないと、悪戯風に消されてしまう…。

気持ちばかり焦り、足が動かない。もう一度、目を擦り覗った。黒い影がぼんやりと映し出されるが、激しく胸が高鳴り思わず視線を落とした。そして、心の中で懸命に叫ぶ。

確かに、あそこにいる。間違いなく立っている。早く行かなければ。ああ、足が動かない。あんな近くにいるのに。

如何して、如何して歩けないの…。しっかりと俊介さんを見て、大きな声で「会いたかった!」と叫んで、彼の胸に飛び込めないの。こんな時に、身体が動かないなんて。如何して…。ああ、足元ばかり見ていてはいけないわ。真っ直ぐ彼を見なければ。ぐずぐずしていると夢と消え、居なくなってしまうじゃない。ああ、私って、何と意気地なしなのか。俯いているばかりで、顔を上げられないでいる…。

あれほど待ちわびた彼が、今そこにいるのに、素直に見ることが出来ないでいる。ああ、如何したらいいの。

久美子は、ただ懸命に溢れる涙を抑え、立ち尽くしたまま小刻みに震えていた。




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