第六章輪廻一



確かに、俊介は時雄から相談を受けていた。

いろいろ考えたが、この方法が一番いいと思い、勧めたのがこのペア作戦だった。俊介にしても、以前から菊地の傍若無人な行いが、これ以上拡大することを恐れていた。我が巣穴に住む者たちのことを考えれば、何としても阻止したかった。

自分本位でしか考えない者が、己の欲望を満たすため、我らの巣穴を攻め侵略されてはとんでもないことになる…。どれだけ犠牲者が出て、どれほど悲惨な目に合うか。それを思えば、何としても菊地らの攻撃を阻止せねばならない。

そう考えたていたのだ。

それでなくても、池田や野口が奴の毒牙にかかり命を落とした。奴らの粗暴をこのまま放置しておけば、更に多くの犠牲者が出るだろう。これ以上手を拱くわけには行かなかった。

そのことからも手立てを講じなければと考えていた時、時雄から相談を受けたのだ。俊介にとって、今まで寝食を忘れるほど巣穴社会の行く末について熟考し、自ら決めた策により改革を推し進めてきた。

時には挫折し思い悩んだが、針穴ほどの光明を頼りに邁進してきた。だが、まだ道半ばである。でもそれにより、同じ信念を持つ仲間が増えたことは、紛れもない事実である。同じ蟻一族である菊地の動きも気になるが、ただ、それ以上に他人には言えない、心惑わす悩むものを抱えていたのである。

そんな折、為吉の助けを乞う逃げ込みで菊地らの野望のすべてを知った。その内容は、放置すれば我ら巣穴にとって由々しきものとなるのだ。そして、それが現実となる事件が起きた。いよいよもって、このままでいることが許されぬ事態となったことを、俊介は悟った。

国分や木島らが動転し、一発触発の状態に陥った。そこで時雄や将隆と相談して国分らを動員し、菊地軍に対する陽動作戦に打って出たのである。それにより、ひとまず菊地らの動きを止めることが出来た。

そして、俊介らの巣穴も平穏さを取り戻していた。國分らも菊地軍への陽動作戦に参加することで、戦いの駆け引きを体験し、よりたくましく成長して行った。

俊介は安堵した。

すると、ひととき心の奥に仕舞い込んでいたものが、またぞろ目を覚まし動き出す。久美子への想いである。また悩み出していた。すると、直ぐそのことで頭の中が一杯になった。

巣穴最大の危機に直面し、その対応のため一時的に追いやられていたものが、その危機を乗り越えることで呼び起こされたのである。再び火が点くと、反動という熱き炎で、俊介の心が激しく燃え上がり焦がされていた。

如何にも止めようがない。平穏さが続くと、それに比例するが如く高揚し悶々とする日々が続いた。生物の本能とでも言うべきものか。

意識してそうなったのではない。何時の間にか気がつくと、如何にもならぬ激しいものとなっていた。思い出すと、他のことが手につかなくなる。考えるほど泥沼に足を取られ抜けなくなるのと同じで、その想いから脱しようともがくほど深みに嵌って行く。挙句の果て、如何にも身動きが出来なくなるのだ。

俊介にとって、他のことならいざ知らず、このことに関してはただ想い悩みジレンマに陥るばかりだった。最近ではそのことばかりが、頭の中を支配した。考えまいと意識的に避けても、何時の間にか目の前に浮かんでくる。すると、身を焦がすように胸が痛み出し、鼓動が高鳴る有様だった。

ああ、如何したらいいんだ。今やらねばならぬ巣穴社会の改革を早急に確立していかなければならない時なのに、久美子への想いが邪魔をする。如何しても駄目だ。考えられない…。一体如何すれば、この熱き想いを伝えることが出来るのか。

うむ、いや、それどころではないはずだ。確かにこの前の奇襲作戦は功を奏した。だが、これで終わったわけではない。何時また菊地らが攻めてくるかも知れない。油断などしていられない。それなのに、何ともし難いこの想い。これは単に俺自身の問題だし、他の仲間には関係ないことだ。それを…、遅々と進まず、そのことばかりに気を取られている。果たして、これでいいのか。

俊介は如何にもならず、追い詰められていた。焦がす心は、考えまいと焦せるほど燃え上がり、如何にもならないものとなって行く。

「久美子…」

小さく呟く。

お前のことが…、忘れられない。久美のことが、一日中頭の中を離れずにいる。そのことばかりが、身体中に楔のように突き刺さっているんだ。

切ない思いが思考を緩慢にさせ、改革への取り組みを妨げた。それでも苦汁を飲み込み、悶々として一人悩む。

俺は、あの時の温もりが忘れられない。豊満な乳房の感触。ああ、駄目だ。消すことが出来ない…。

脳裏に蘇ると、ただそれのみしか考えられなくなり、思考回路のすべてに映り出されてしまうのだ。久美子のあの甘い髪の匂いに、完全に虜となっていた。

ただ俊介にとって、はっきりと異性を認識し恋愛というものへの理解ではない。初めて体験した彼女への想いは、異性として認識しそのようになったとは考えも及ばなかった。ただ本能的に捉え醸成されたもので、巣穴社会の改革という取り組みと異なり、心の迷いが理解できぬ不思議な魔力となり襲いかかっていた。毎日苦しんだ。それでも悩み抜いた末、出した結論は明快だった。

何時までうじうじしても先へは進めない。この際、思い切って会うしかないんだ。

そうしようと決めた。けれど直ぐにという決断が出来ない。するとまた迷いが生じる。

果たして、その時如何反応するだろうか。待てよ、会って何を話せばいい?改革の進捗状況や巣穴社会の将来について語り合うわけではない。俺の、今の気持ちを伝えたいのだ。果たして、素直に受け入れてくれるだろうか?

そこでまた悩み出すと、会うことに躊躇する。すると悩むのだ。会うという結論は出るが、いざその後如何したらいいかを考えると、足の動きが鈍った。

俊介は更に悩む。

道半ばの改革を全力で推進せねばならぬ時期なのに、思考が直ぐに久美子の方に向いてしまう。それではいけないのだ。つい先日も時雄から、野口らの弔い合戦について相談を受けた。これとて、我が巣穴に大きな影響をもたらす問題だ。仕返しに、ことを起こすには疑問も生じる。がしかし、粗暴な力で巣穴が危険に晒されるなら、何として防がねばならない。

それ故時雄の要請を受け、共に戦うことを誓った。これも仲間たちのためであり、自身のことより、最優先で取組まねばならぬものである。結果、菊地が改心したわけではない。奇襲により一時的に混乱させ、戦意を消失させただけだ。また何時の日か、態勢を立て直し攻めてくるやも知れない。そんな危機迫る時に、一女性のことで悩むなんて如何いうことだ。

それを、菊地軍と対峙したひと時、胸の奥に封じ込めていただけだ。こんなことでいいのか。心が乱れ、浮ついた気持ちでいるなんて…。

自らを責めていた。

巣穴の皆のことを思うと、自責の念に駆られることが続く。かと言って、心の深層に巣食った彼女への想いは、そう簡単に払拭出来ない。

如何しても駄目なんだ。忘れられないし、消し去ることだって出来ない。だから、如何しても行かなければならない。丘の向こうのしいの木の下で本意を伝えたい…。ああ、如何してもそうしたい。なれど、巣穴改革という大問題を考えれば、ほんのちっぽけな自身のことではないか。本当にそれでいいのか。いや、けれど…、如何すればいいんだ。

己の意志を貫くか。もしくはそれを諦め、自身を犠牲にしてでも巣穴の防衛、そして改革に身を投じるべきか。己自身が情けなくなるほど気持ちが揺らぎ、毎日悩み続けた。しかし、悩むほど深みに嵌まり、想いが更に募るのだった。

「せっかく会うと決めたのに、何故行動しない。お前らしくないぞ。今までだって、どんな困難だろうが冷静に考え素直に行動していたではないか。それを、如何して躊躇う。俊介、何をやっている!」

「今のお前は、自分を見失ってはないか。頭を冷やして、よく考えてみろ!」

心の内で、叱咤するもう一人の自分がいた。けれど一方で、阻止する怒鳴り声が響く。

「お前は、今ここで立ち止まっていていいのか。菊地らの思惑を回避したからと現を抜かし、進めてきた改革を頓挫させて納得できるのか!それに、現実を見ろ。菊地らが何時攻めてくるかもしれないのだぞ。その防衛策は考えているのか。如何なんだ、俊介!」

「それを、己ごときのことで悩んでいる。それがお前の取るべき行動なのか。優柔不断な姿ではないか。己の行いをよく見ろ!」

次々に罵声が飛んできた。

「ううう…」

呻き、反発すら出来ずにいた。叱責されるままにいる。ただ頭を下げるしかなかった。

だがしかし、すべて時が解決してくれる。

悩む日々の中で、懸命に己と戦っていた。今まで歩んできたことを、走馬灯のように思い起こしていた。この半年何があったのか。己の心の変化を如何受け止め、どのように行動してきたのか。自分の取ってきた行動が間違っていなかったか。遡り反芻していた。

今までの行動がそうであったように、突き当たる難問にも解決方法を見い出してきた。そして、既成概念を打ち破る精神こそ、己の生き方であることに気づく。

うむむ…。時雄や将隆との出会い。そして国分や西田、それに木島らとの出会い。無念だが、野口らの死。さらに、菊地軍との衝突。と、いろいろあったじゃないか。それと…、久美子との出会い。改革に着手したあの頃は夢中だった。胸が弾んだ。俺も懸命だった。振り返ることなく、前へ前へと進んだ。

そこで、はたと閃く。

そうか、今がそうなんだ。一度くらい、振り返ってもいいじゃないか。

きりりと先を見据える。

そして、もう一度新たな気持ちで現実を直視し、未来に向かって進めばいいんだ。後ろ向きになるのはよそう。何時でもそうしてきたではないか。それなのに、久美子のことだけは、前進することを心のどこかで躊躇っている。負の結果を恐れている。だから、悩むんだ。だから、辛くなるのだ。

よく考えて見ろ。改革の精神がそうであるように、躊躇うことなく何事もやってみなければ結果は生まれない。そうだ、やろうと決めたら愚直に行動に移す。これが必要なんだ。このことを忘れていた。

そう結論づけた。すると、心の中がぱっと明るくなり妙に澄む。そして改めて思う。

何だ、そうじゃないか。如何にも追い詰められ気づかなかったが、今までの改革のことだって、そのようにやってきたではないか。悩んだことも一杯あった。他人に蔑まれたことだって、それに落ち込んだことも幾多ある。数え切れないほどの難題だって、立ち向かい乗り越えてきたではないか。

そうだ、改革精神だ。悩みごとは別に悩むことではない。行動に移すことだ。そこから新たな発見がある。だから彼女に対する想いだって躊躇うことはない。堂々と会えばいい。そして素直に気持ちを伝えればいい。そうすれば、また新しい境地が開けるではないか。「如何して、そのことに気づかなかった!」凛として呟いた。

軽く頭を叩き苦笑する。

馬鹿だな俺って。ちょっと心が乱れただけで卑屈になっているんだから。一方通行でしか見ていず、心が狭かったんだ。

そう思った。すると、本来の自分を取り戻した気持ちになる。もう迷いはなかった。すると、心の内で叱咤する奇相の顔が柔和な福顔に変わっていた。

「俊介、よく気がついたな。それでいいんだ。素直な気持ちで行動すればいい。結果を恐れるな。己の殻に閉じ籠り狭い視野でいるな。相手のことを思え。彼女の気持ちを愚直に受け止めろ…」

一筋の光明が、射られた矢の如く輝いた。

「うむ…、そうか。俺自身が決めたことだからな」

短い声を発し、すくっと立ち上がる。乱れていた心が晴れ、平常心に戻っていた。そして、ゆっくりと歩き出す。もはや心の乱れはなく、軽やかな歩みに変わっていた。




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