そして秋も深まり木々の葉が落ち、冬の訪れを真近に感じる季節となっていた。そんなある日、日暮れ近くの木枯らしが吹き始めた頃である。

がたがたと身体を震わせ、今にも倒れそうにやって来くる働き蟻がいた。その蟻は俊介らの巣穴に入るなり、入口付近でがっくりと膝を折り倒れた。偶然居合わせた西田が、それをみつける。見知らぬ者が弱った身体で突然入り、この有様である。驚くのも無理はない。

警戒しつつ覗き込む。

「おい、如何した。お前は、何者だ!」

用心しながら声をかけた。するとその蟻は、顔を上げ乞う。

「助け、助けて下さい。お願いです。私を助けて下さい…」

弱々しく告げた。用心深く、その必死の様相を見かね手を差し伸べる。

「分かった。何処の者か知らぬが、このまま放っておけば、こいつは間違いなく死ぬ。大変だ。一刻も早く手当てをしなければ」

西田が慌てて叫ぶ。

「おおい、誰かいないか。大変だ!」

すると、その声を聞き国分がやって来た。

「如何した。西田、何かあったのか。あいや、何だそいつは!」

倒れている働き蟻を見つけ、目を丸くした。

「いや、如何もこうもない。我らの巣穴に入ってくるなり、突然倒れてしまったんだ。それに何処の者だか、見当もつかん」

そうこうしているうちに仲間の蟻たちが集まってきた。そこへ俊介がやって来る。

「如何したのだ、この騒ぎは。おや、何だその者は」

「はい、こ奴は。つい今しがた、行き倒れのようにここへ倒れ込んできた者です。しきりに助けてくれと懇願しておりました。今は少し落ち着いたようで眠っています。この寒い中、よくも外を歩いていたと感心しますが、何か訳有りのように見受けられ、少し暖めてやれば直に元気になると思います。それで、こいつが意識を取り戻した時に、如何いう理由で我らの巣穴へ来たか問い質すことにします」

「そうだな、それに越したことはない。だが、それにしてもよくこんな時期に外にいたもんだ。普通なら凍え死んでいるところだぞ」

「どこの誰やら、それにしても何者だか。いづれにしても用心しなければいけません」

西田が訝い告げた。

「うん、それに目を覚ましたら、何か温かくて軟らかいものを食べさせてやりなさい。この様子だと、相当腹を空かしているようだ。国分、とりあえずこの者が目を覚ますまで、注意しながら看病しなさい。さあ、皆、こんなところで騒いでいても仕方あるまい。持ち場に戻りなさい。早く!」

俊介が促すと、皆早々と戻って行った。

「それでは国分、頼んだぞ」

すると声掛けしている途中で、散った二人が何やら言いたげに戻って来た。俊介が尋ねる。

「如何したんだ?」

「実は…」

躊躇いながら説明する。

「どこかで見たような気がしていたんですが、思い出したので知らせに戻ったのです。この者ですが、確か菊地のところにいた奴です。間違いありません。私が奴らの巣穴を偵察している時、こいつが出入りしているのを見ました」

「ええっ、本当か!」

横から国分が目を丸くし問い直した。

「はい、確かに菊地のところの雑兵です。間違いありません!」

「そうか、菊地のところの者か…。しかし如何してこんな時期に、外界を歩き回わっているのか?それも自分の巣穴に戻ればいいものを。わざわざ我が巣穴に助けを求めるとは、一体如何いうことだ?」

国分が訝しげに自問したが、突然声を上げる。

「こりゃ、菊地の巣穴で何かあったな。如何いうことでこの者が、助けを求め飛び込んできたのか。如何ですか、俊介さん。思い当たることはありませんか?」

「うむ、何故だろうか。確かに、何か動きがあるに相違ない。内部分裂か、あるいは反乱か。もしかすると菊地の仲間が攻めてくるかもしれない。いずれにしても、ただごとではないような気がする。その時のために用心しなければな」

「そりゃ大変だ!一大事だ。戦になるかもしれない。至急、戦闘体制に入らなければならんぞ!」

国分が慌てふためくと、俊介が宥める。

「おい、そう焦るな。何も菊地らが、直ぐに攻めてくると決まったわけでもあるまい。落ち着け!それより冷静にならなければ駄目だ。無用な言動は慎め。皆が動揺するではないか!」

「は、はい。私としたことが失礼致しました。それにしても俊介さん、えらいことになりましたね」

「そうだな、とにかく時雄や将隆らと、如何対処するか至急打ち合わせねばならぬ。国分、この雑兵をよく見張っていろ。目を覚ましたら食事を与え、如何いうことか事情を聞くことにする」

「それじゃ頼んだぞ」

言い残し、巣穴の奥に消えた。残された国分は気がきでなかった。

「この男、もしかしたら仮病かもしれんぞ。俺らの隙を狙って攻撃するかもしれない。いや、菊地の命令で大胆にも偵察に来たのか。先兵隊として来たことも考えられる。いずれにしても用心せねば…」

洩らしつつ、じっと男の様子を覗っていた。暫らく見ていた国分だが、昼間の訓練の疲れから何時の間にか寝入ってしまった。夢を見る。菊地軍に捕らえられ鞭打ちを受けていた。菊地の恐ろしい目が睨み、俊介を連れて来いと怒鳴り、足が跳び肩を蹴った。どすんと強い衝撃を受け思わず仰け反った。その時目が覚めた。寝ていると思っていた雑兵が、国分の肩を揺すったのだ。驚いた。

「ひゃあっ!」

飛び退いた。

「お、お前っ、何にするんだ!」

目を丸くし身構えた。が、その男は何もせずすまなそうにした。それどころか、直ぐに国分の前で正座し頭を下げる。

「有り難うございます。命を救って頂き、本当に有り難うございます」

男の口から感謝の言葉が発せられた。国分はきょとんとする。命が狙われるかと咄嗟に身構えただけに、的が外れ戸惑っていた。が、その男は構わず続ける。

「有り難うございます。突然参りまして、ここにおいて貰い看病までして頂き、何とか命を取り留めることが出来ました。有り難うございます…」

額を地面に擦りつけ何度も礼を言った。身構える国分もようやく状況を把握し、敵意がないことを知る。

「お前、その様子だと俺を襲おうとしたわけではないな」

「滅、滅相もございません。そのようなことは絶対致しません。命を救って頂いたのですから」

「そうか、分かった。分かったよ。それじゃ、まずはゆっくり休んで元気にならねばな。話はそれからだ。その時、ここへ来た理由を聞かせてくれ」

「有り難うございます。命を救って貰っただけでなく、そこまで親切にして頂くとは、何と感謝してよいやら…。あなた様の親切には、深く感謝致します。でも、これだけで充分でございます。これ以上、皆様にご迷惑をおかけするわけには参りません。直ぐに退散させて頂きます」

立ち上がろうとしたが、足元がふらつきその場に崩れてしまった。

「申し訳ございません。今暫らく、少しだけ休ませて頂けませんでしょうか…」

申し訳なさそうに国分を覗った。

「ううん、無理するな。充分休養してからでも遅くはない。今、食べ物を用意するからそれを食べて元気になりなさい」

「有り難うございます…」

すると感謝の気持ちからか、涙を流し始めた。

「如何したんだ?」

国分が尋ねると、その者が言う。

「久しぶりなんです。こんな温かいところで休むのは。有り難く存じます。あなた様のお心遣いに感謝のしようがありません…」

後は言葉にならなかった。

国分はこの者の言ったことが、直ぐに理解できなかった。そして、その働き蟻の様子を覗いながら尋ねる。

「おい、先ほど我が巣穴に来るなり、助けてくれと言っていたが如何いうわけだ。話してくれるか?」

「は、はい。如何か命だけは助けて下さい。私は決して皆様に危害を加えるために来たのではありません。嘘ではありません。信じて下さい」

改めて懇願の眼差しで訴えた。だが、信じ難く警戒する。

「それでは何のためにここへ来た。お前が何処の者か分かっている。何故、菊地らの巣穴へ帰らない。場合によっては、取り押さえ処刑せねばならない。答えてみろ」

「お、お助けを。お願いです。このまま放り出されたら戻るところがありません。お願いです。助けて下さい」

「何を言う。お前の巣穴に戻ればよいではないか!」

「いいえ、とんでもありません。このまま手ぶらで帰れば、間違いなく殺されます。ですから戻れないのです。私を助けて下さい…」

「何だと。殺されるとは如何いうことだ。そして手ぶらで帰れないとは…。ははん。もしかして我らの命を奪い、備蓄食料を奪おうという魂胆だな」

国分が身構えた。すると、慌てきっぱり否定する。

「滅相もございません。そ、そんなことを申しておりません。決して戦うなど考えてはいません。ましてや、皆様の命を奪うなど滅相もないことです」

「では、何故そんなことを言うのか!」

怒鳴り気味に攻め立てた。するとそこに、俊介らがやって来る。

「何を騒いでいる。国分、如何したというのだ!」

と同時に、時雄が男を覗いながら国分に尋ねる。

「おお、その者か。先ほど我が巣穴に助けを乞うように入ってきたのは」

「はい、そうです。用心して下さい。こいつは我らの命を奪いに来たのです。そうしなければ、菊地のところに帰れないと白状しています」

国分は男を睨みつけた。すると、弱々しい声で訴える。

「いいえ、そのようなことは決して、決して…ございません。信じて下さい」

すると、俊介が制する。

「まあ、国分。落ち着け!」

「ところで国分。この者に何か食わせたのか?」

「いいえ、こんな奴に食わせるなんて、とんでもない!」

拒絶し言い放った。すると俊介が宥め促す。

「そうか、だいぶ衰弱しているではないか。こんな弱った身体で、我々を倒せるとでも思っているのか、国分!」

「落ち着いて冷静になれ。この者の言うことを端から否定せず、よく聞いてからでも遅くはないぞ。木島、何か食い物を持ってきてやれ。食わせてからゆっくり話を聞こうじゃないか」

すると直ぐに、木島が何処からかイナゴの腹を持ってきて、その男に与えた。男は何故か手を出さなかった。

それを見て時雄が促す。

「心配するな。それを食っても死にはしない。早く食え。食って元気になれ」

男はその言葉を聞き、感極まったのか急に泣き伏してしまった。

「有り難うございます。有り難うございます…」

それでもおずおずと手を出し、そっと口に運んだ。その途端、がむしゃらに食い出した。その様子を国分も含め、皆唖然と見守った。いっぺんにたいらげた男は、落ち着きを取り戻す。

「皆様は命の恩人です。助けて頂き、お礼の申しようがございません。本当に有り難うございます」

深々と頭を下げた。そしてすくっと正面を見て言う。

「皆様もご存知の通り、私は菊地軍の者です。警戒されるのも無理ありません。命を助けて頂き、更に食料まで分け与えて下さり、お礼の申しようがございません。このご恩、口では言い尽くせぬほど感謝しております。されど、そのお礼と言っては失礼かもしれませんが、洗いざらい話させて頂きます。私の話すことを、信じて頂けるか如何か分かりませんがお話させて頂きます」

働き蟻が語り始めた。

「何故、今頃の季節に野原を歩き回り、命乞いをし皆様の巣穴へ助けを求めたかと申しますと。我が巣穴の君主である菊地の絶対命令により、越冬用の獲物の狩に出されたからでございます。と言うのも、仲間の噂ですが。我が巣穴では今の時期になっても、越冬用の備蓄食料が少なく、このままでは全員がこの厳冬期を乗り越えられない状況にあるということでした。…赫々云々。おそらくそのために、私らが人減らし選抜されたものと思われます」

仔細を話した。

俊介は勿論、皆目を丸くして聞き入った。

この者の名前は為吉といい、働き蟻の下級戦士であることが分かった。そして更に、分隊長の平松の下、にわか作りの部隊に席を置くが、名ばかりで強引に入隊させられたとのことで、日頃は獲物を捜し歩く毎日だった。時折平松によって集められ訓練らしきものをしたが、いわば名目だけの軍隊で実質的には寄り合い所帯の集団であったという。

そして、菊地の行状について聞かされた。

それによると、凄まじいばかりのものだった。絶対服従の中で、たとえ理不尽な命令でも反論は許されず、また少しでも阻喪すれば、それは即死を意味したという。激しい拷問を受け、ほとんどの者が無抵抗のまま死んでいった。周りの者が一人つづ消え、次は己かと恐怖心に苛まれ、それに耐えられず自ら命を絶つ者も数知れない。更に菊地本人はやりたい放題、好き勝手なことをやっていた。その行動は権力という暴君がもたらす悪魔のような行状だったという。

この魔の城は一度入ったら抜けられず、奴隷のように働かされる。夢の楽園で豊かな生活が送れるなどと誘われ、仲間入りしたら最後、まったく別世界だった。

特に、菊地の女好きは際立っていた。それも毎晩色事に熱を上げ、どこからか拉致してきた若い娘を甚振り犯わかす。相手となる娘は日替わりのように違っていた。この者のような下級の働き蟻に対する締めつけは、日を追うごとに激しさを増した。食料の分配でも平等感はなく、菊地を中心とした幹部が最優先で配分され、下級層にはろくすっぽ廻ってこなかった。なかにはあまりのもひもじさから、保管食料を盗もうとして捕らえられ、見せしめとなり皆のいる前で菊地自身により殺された者もいた。如何いうわけか、この食料を盗む者に対する制裁は異常なほど凄惨だった。それを見る度に、皆震え上がり恐怖心を募らせたという。

では何故この男、為吉がこの時期に、我が巣穴に倒れ込んで来たかだが。その話をしようとした時、今まで聞いていた西田がぽつりと溢す。

「ひでえところだな…」

国分も続く。

「それはまさしく、性格の悪い独裁者のいる世界ではないか。如何してそんな奴をのさばらせておくんだ。とっととやっつけてしまえばいいのに」

野口らを殺されたこととだぶらせ、許せないのか呟いた。それに反応し、木島が何時もの大声で放つ。

「尤もだ!それは蟻の皮を被った狼だ。偽善者の何者でもない、許せん。この俺が成敗してやる!」

「まあ、待てよ。話は終わってない。お前らがここで息巻いて如何する。この後の話を聞かねば、為吉がここに来た理由が分からないじゃないか!」

時雄が制した。すると、皆の目が一斉に男の次の言葉を覗う。

その強い視線に促され、為吉はまた話し始めた。それは菊地による平松を介しての、我らに対する宣戦布告だった。とにかくこのまま越冬するには食料が足りない。働き蟻の使命として、至急食料の確保を成せとの厳令だった」

「本来であればこの時期は、越冬に必要な量が確保されていなければならない。それが当然のことで、我々は懸命に働いた。決して少なくない獲物を集めてきたと自負している。それがこの時期になって足りないと言われ、直に捕って来いというが、反論する者はいない。いようはずがない」

「平松の命令は、菊地の下知だと言われれば逆らえないのだ。厳しい寒さの中、選抜された私ら雑兵は止む無く獲物を探しに出掛けた。どのような策略が画策されているかは、知らされていない。ただ、巣穴内の噂で聞いたことですが、冬季を越せるだけの備蓄がなく人減らしをしなければならない。その手段として獲物探しを命ぜられている。とのことだったようです」

「この時期に理不尽なことと思います。この厳しい寒さの中獲物を確保しなければ戻れず、しかして獲物が確保出来るわけもない。すなわちそれは、我らに死の宣告をしているようなものですから。でも、あの恐ろしい将軍の罵声を聞くと、とても逆らうことが出来なかったのです。ほんの少し不満顔でも見せれば、それこそその場で殴る蹴るの虐待を受けることになる。そうです、虫けらのように殺されるのです」

と為吉が吐露した。そんな悲惨な現状を聞き、俊介や時雄、国分らには耳を疑うものだった。信じられない実態が、この雑兵から出たのだ。そして更に、意外なことが耳を突く。

「獲物一人当たり十日分を集めろ。確保出来るまで巣穴に戻るな!」

と言うものである。夏の時期なら野宿して探すことも有り得るが、この時期にそんなこと出来る奴はいない。蟻族にとって常識では考えられないことだ。むしろ巣穴に帰れないということは、百歩譲ったとしても寒さを凌ぐところを確保せねばならない。一日や二日なら耐えるとしても、この寒さでの野宿は過酷であり、更に無謀な量の捕獲など到底無理である。

この傍若無人な斯業は何を意味するのか。国分ら皆、固唾を呑んだ。あまりにも過酷な話に唖然とし、言葉を忘れるほど驚嘆していたのである。

「私には耐えられませんでした。二日目までは懸命に獲物を探し歩きました。この寒さの中、ほとんど見つかりませんでした。そうかといって十日分という膨大な量、何も食わず働くことは不可能です。捕った獲物を少しずつ食いました。腹を満たすほど食ったのでは十日分など溜まりません。懸命に探し求めても一日分が精一杯だったのです。それでもこの寒さに耐え歩き回りました。大勢の仲間が、そのうち一人、また一人と離脱して行きました」

「そうです。衰弱し死んで行ったのです…。私もそのうち、そうなると覚悟しました。でも、命の続く限り自分に与えられた天命を全うしようと、心に誓っていました。しかし、もう限界でした。懸命に身体を動かそうとしても言うことを聞いてくれません。そのうち意識も朦朧としてきたのです。もうこれまでかと思った時、前方に明かりが見えました。その輝きに吸い寄せられるように足が動いていました。そして皆様のいる巣穴へと入ってしまったのです」

「ご迷惑をおかけし、食べ物まで頂き有り難うございました。深く感謝しております。このご恩は、決して忘れません。私の話は以上です。これで、ここにいる理由がなくなりました。大変お世話になり有り難うございました。失礼致します…」

頭を深々と下げ、一歩、二歩と歩き立ち去ろうとした。

その時である。俊介が発した。

「おい、行く宛があるのか!」

立ち止まった為吉は、振り向きざま寂しそうに顔を横に振った。そしてまた頭を下げ、再び歩き出す。すると今度は時雄が怒鳴った。

「待てっ、まだ話が終わってはおらん。逃げるきか!」

男は一瞬、びくっとし動きを止めた。時雄がまた叫ぶ。

「そんな悔しい思いをして、証拠にもなく菊地の下へと、命乞いをするために戻るというのか!」

すると、男は背中をぴんと張り、観念するように黙って首を横に振り、そしてすたすたと出口に向かった。すると、俊介の声が天命のように響く。

「おい、為吉。何故急ぐ。己の命を、何故急いで絶とうとする。限りある命を何故、無駄にしようとするのだ。もっと己の命を愛おしめ。今時雄が言った通り、まだ話を聞き終えたわけではない。自分の言いたいことだけ話せばそれですむのか。そうではなかろう。恩返しが、それですむものではないだろう。分かるか、為吉!」

足が止ったまま動かなかった。説く言葉に制され動けずにいた。今まで味わったことのない、何と不思議な力。「急ぐな」という。「無駄にするな」、「もっと己の命を愛おしめ」という。たまらなかった。為吉は立っていられなかった。同時に目頭が熱くなり、決意していたものが揺らぎ始める。この場を去るということは、自ら命を絶つことを意味し心が揺らいだ。俊介の言葉の温かさに大粒の涙が溢れていた。男は泣きながら崩れ落ちた。再び俊介の優しい声が耳に届く。

「泣くな為吉、男らしくないぞ。それでもお前は戦士か。我らと同じ働き蟻なのか!」

何とも言えない、生きる勇気を与えてくれる言葉だった。ただ、ただ泣くばかりだった。溢れる涙は、皆に対する感謝の印である。為吉の泣きじゃくる声が巣穴に響く。木島や西田も、何も言うことが出来なかった。あまりにも凄惨なこの者の話に、改めてこの巣穴にいられることに感謝し、安らぎさえ覚えていたのだ。

それでもぐっと涙を堪え木島が促す。

「為吉、戻って来い。ここに戻って来いよ。こんな寒い時に外に出たら凍えちまうじゃねえか。そんなことするな。いや、そんなことする必要がないんだ」

すると、皆が口を揃えて叫んだ。

「戻って来い!」

為吉は嬉しかった。何故こんなに違うのだろうかと思う。この恩は決して忘れまいと心に誓う。そして、すごすごと皆のところへ戻って行ったのだ。為吉には一つの部屋に寝床を与えられた。温かかった。今まで味わったことのない温かさだった。

西田が声を掛ける。

「為吉、如何だ。我らの仲間に入らんか。お前が居た菊地軍に比べて如何だ。居心地がいいだろう」

「はい、夢のようです。西田さん、有り難うございます。声を掛けて頂き感謝しています。それにしても、皆様は立派な方ばかりですね。特に俊介さんは素晴らしいリーダーのような気が致します。その方の下で生きて行けるなんて幸せですね」

「そうだ、我々には幾多の夢がある。その夢を一つずつ実現して行く。そのために俊介さんがいるんだ。お前にも夢があろう。その夢を我らと一緒に叶えて行かないか」

「ええ、有り難うございます…」

「まあ、今日のところは疲れているだろうから、ゆっくり休んで考えてみな。絶対に損はないから」

「はい、そうさせて頂きます。今日は本当に有り難うございました」

為吉の瞳は、俊介の話を聞き、皆と話し満足気に澄み切っていた。しかし、為吉が話をしたのは西田が最後だった。翌朝、木島が為吉を起こそうと部屋へ行った。ところがもぬけの殻で、そこに姿はなかった。

「あいや、居ないぞ。あの野郎、昨日はあれだけ泣きやがって嘘だったのか、あいつの言ったことは嘘っぱちだったのか。とんでもない奴だ。逃げやがったな。やっぱりスパイだったんだ。何だかんだと御託を並べやがって、同情を買わせ油断させたところで我が巣穴の内部を偵察に来ていたんだ」

「おおい、時雄さん。為吉がいませんよ。逃げやがったんです!」

大声を出しながら飛ぶように走っていた。

「何だ、何だ。朝っぱらから、大騒ぎして!」

「いや、居ないんです。もぬけの殻です。あの野郎、とんでもない奴です。昨日あれだけ泣き言をいいやがり、俺らを安心させておいて、とんずらだ。スパイだったんだ。我らの巣穴の偵察に来たに違いない。まんまと騙されちまった。あの野郎、今頃菊地のところへ帰って、報告しているに決まっていますよ!」

まくし立てた。時雄が制する。

「木島、落ち着け。必ずしもそうとは限らんぞ!」

「いいえ、そんなことはありません。現に奴はいないんですから」

「まあ、とにかく冷静になれ。もしお前の言う通りであれば、それはそれでいいじゃないか。為吉の話が嘘であっても、我らにとってどれだけのマイナスになる。よく考えてみろ。たとえ探りに来たとしても、すべてを知られたわけでもあるまい。とにかくこの巣穴の中が荒らされていないか調べることが先だ。被害があれば如何対処するか、それから考えればいいじゃないか」

「ええ、そうですけれど。それにしても許せん。俺らの涙を誘うような下手な芝居して騙すなんて、とんでもない奴だ。あいつは…」

悔しそうに吐いた。

「まあ、仕方ない。どんな理由にせよ、奴も必死にやっていることだし、だいいち話半分と考えても、奴らの生活は相当厳しいようだな」

推測し時雄が漏らした。その時だった。意外な情報がもたらされる。西田が血相を変え走ってきたのだ。

「大変だ。俊介さんはいるか!」

「おい、如何した。何慌てふためいているんだ。菊地の奴らが、為吉の先導で攻めて来たのか!」

「いや、そうじゃない。大変なものを見たんだ!」

「だから、何だと言っている!」

動転する西田に木島が叫んだ。すると時雄が問い質す。

「今俊介さんはいないが、大事なことなのか?」

すると、息を弾ませ伝える。

「時雄さん、えらいことです。為吉を見たんです。私もちょっと用があって巣穴の外に出たところ、先の木の下でうずくまっているのを見つけたんです。何をしているのかと近づき声を掛けたのですが返事がなく、おかしいと思い、「おい、為吉」と肩を揺すったらそのまま崩れ倒れたんです。慌てて肩を支えようとしたら、冷たくなって死んでいました。驚いて、何がなんだか分かなくなり、急いで戻ってきた次第です…」

「な、なにっ、為吉が死んでいるって。如何してだ。そんなことあるはずがない…。それ本当かよ!」

木島が割って入った。すると、毅然と西田が言う。

「嘘じゃない。はっきりと見たんだ。それでこうやって、皆に知らせようと飛んで来たんじゃないか」

木島が目を白黒させる。

「まさかあいつが死ぬなんて、信じられない。てっきり逃げ出して菊地のところへ戻ったと思っていたのに、間違っていたのか…」

「そうか、為吉が死んだか。それは残念なことをした。あれだけ俊介さんが、己の命は大切にしろと言っていたのに。やり直しは幾らでも出来る。それを為吉の奴、自ら命を絶つなんて…」

時雄が残念そうに洩らした。

木島は早とちりを悔やみ、がっくりとうな垂れた。そして、悔しそうに呟く。

「何故、死んだんだ」

「畜生、菊地め、あいつのせいだ。為吉は奴に殺されたようなもんだ。何人殺せば気がすむのか。…許せない。いくら雑兵だって魂はあるんだ。それを、虫けらのように命を奪う。野口や池田だって殺された。俺は絶対に奴を許せん」

悔しそうに声を震わせた。

「菊地という奴は鬼畜だ。どれだけ為吉が苦しみ死んで行ったか。自分さえよければそれでいいのか。為吉の死など、何とも思わないだろう。とんでもない野郎だ」

西田が続けて、握り拳を振り怒りを爆発させていた。

「こんなことでいいんですか。このまま為吉の死を無駄にするんですか。時雄さん教えて下さい。俺には分からない。命の大切さや尊さ、それを菊地は冷酷無比に片づける。そんな奴が、何故のさばっているんですか。如何してなんですか…」

それ以上、言葉にならなかった。木島は悔しさのあまり顔が引きつっていた。

「うむ…、木島。お前の気持ちは分かる。西田もそうだ。ただ二人に注意しておく。つい頭に血が上って、身勝手な行動をしてはならぬ。そんなことをすれば奴の思う壺だ。分かったな。くれぐれも暴走だけはするな」

「は、はい、分かりますが…」

気持ちを抑えようと、二人は口籠りながら応えた。

「とりあえず、至急俊介さんに報告しなければならん。くれぐれも自嘲しろ!」

制止し、時雄は巣穴の奥へと入って行った。

時雄から為吉の話を聞き、俊介は決意する。

「いよいよ近くなったな。奴らは必ず我らのところへ攻めてくる。食料を確保せねば、これから訪れる厳寒の越冬は出来ないからな」

「やはりそうですか。私もそうなるのではと思っておりました。いずれにしても用心するにこしたことがありませんね」

腕組みし案ずる。

「うむ、それがいいな。でも心配なことがあるんだ。木島や西田たちだは血の気が多い、何をしでかすか分からん。彼らが冷静さを失い暴走すと大変だ。強かな菊地らだ。必ず返り討ちに遭うだろう。犠牲者が出る。そんなことになったら一大事だ」

「特に菊地軍の分隊長を務める平松という男。なかなか、やり手らしい。場数を踏んだ奴に遭えば、木島らがいくら訓練を積んだからと言って間違いなく負ける。それが分るから、時雄頼んだぞ。決して無謀なことはさせないでくれ」

「はい、分かっております。充分注意しておきました。それに、比較的冷静な国分にも、木島らを抑えろと厳命してあります」

「そうか、そこまでしてくれれば安心だ。時雄、有り難う」

「いいえ、如何致しまして、これも我ら巣穴の安泰のためですから」

時雄の報告を聞いて、為吉を救ってやれなかったことに悲しみを覚えたが、ひとまず安堵する。

「それにしても、菊地をそのままにしておくのも実に危険だな。為吉が死をもって訴えたいことが分かったよ。ここはよく考えて手を打たなければならんぞ」

時雄に告げた。そして、更に促す。

「ここは安閑としていられなくなったと言うことだ。時雄、将隆を呼んで来てくれないか。一刻も早く対策を立てねばならん」

「はい、承知しました。探し連れて参ります。それでは」

会釈をし将隆を探しに、その場を離れて行った。俊介が優える。

「菊地と話し合い、平和的な解決が図れればと思ったがやはり無理だったか。それにしても残念だ。争いは必ず犠牲者を出す。勝っても負けても犠牲者の大小だけで、いずれも尊い命が失われるのだ。それだけは避けたかったのに。その時間的猶予もなくなったみたいだ…」

陰る気持ちを奮い立たせるように呟く。

「何としても、この巣穴仲間から犠牲者を出したくない。そのためには絶対負けられないんだ。万が一敗れるようなことあらば、それこそ皆が悲惨な目に合う。俺の命など欲しくはない。この仲間が助かるなら…」

本当にそう思った。愛おしさの募る久美子を考えても同様だった。

「何としても守る。守ってやらなければならないのだ」

俊介は決意を新たにしていた。




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