木島は胸騒ぎがしていた。それは自信に満ちる高鳴りではない。時雄の話に圧倒され、不安が満ちてのものである。

「今まで外に一歩も出たことがないんだ。大丈夫かな?経験もなく出たら、外敵に捕まって殺されるんじゃないか。この身体を真っ二つに割られ、食われてしまうかもしれない。心配だな…」

隣にいる国分の顔色を覗い弱音を吐く。

「国分、お前は如何なんだ。心配じゃないのかよ」

すると、落ち着いた口調で応じる。

「ああ、俺だって時雄さんの話を聞いたら、ちょっと自信を欠くがそれは仕方ない。今までこの巣穴から出たことがないんだからな。だからちょうどいいと思っている。多少の危険は伴うだろうが、それも覚悟の上だ。俺は…、何としても野口らの仇を取らねばならない。木島、嫌だったらいいんだぞ。無理に誘わない。参加するか如何かは自分で決めろ」

「そんなこと言うなよ…。行くよ俺だって。一緒に参加するよ…」

語尾が弱くなった。

「そんなら、最初からそう言えばいいじゃないか、まったく。俺だってお前と同じ外界は未経験だ。不安だってある。そんなこと言ったらきりがない。要は決断だけだ。腹を括ればそれですむ。迷ったまま参加してみろ、時雄さんが言うように外敵に隙を見せることになる。必ず狙われるぞ。襲われたら殺されるかもしれない。それに誰も助けてはくれん。だから惰性で決めるな。明日の朝までによく考え決断しろ。それと、狙われるのは弱そうな奴だ。ひょっとしたら、お前が最初に食われるかも知れんぞ」

「ぎえっ、おい、そんなこと言うなよ、国分。気持ちが萎えるじゃねえか。ああ、如何したもんかな。参加すべきか、せぬべきか…」

木島は天井を見上げた。

「木島、もし自信がなく決断できない時は、待ち合わせの場所に来なくていい。明日は時間厳守だ。集合時間になって来なければ出発する。待ちはしない」

「木島、分かったな!」

「そんなこと言ったって…、う、うん。分かったよ。本当は俺だって皆と一緒に行きたいんだ。けどよ…」

「木島。今、結論出さなくていい。明日の朝までじっくり考えろ。それからでも遅くはないから」

「ああ、分かった。とにかく考えてみるから…」

「それじゃ今日のところは、これまでにするか。あっ、そうだ。時雄さんに言われたっけ。木島、下見のつもりで外に出てみないか?」

「少しでも見ておいた方がいい。行かないか?」

「…うん、行ってみようか」

「それじゃ、これから行こう」

巣穴の出口へと歩き出す。追いすがるように歩く木島が声をかける。

「国分、お前は何ともないのか。俺なんか心臓がばくばくだぜ。何せ、本格的に外界に出るのは始めてだからよ」

どんな按配なのかと国分の後につき、心細いのか話しかけていた。

「そうだな、俺だって想像もつかない。今まで仲間が獲物を持ってきた時、ほとんど彼らから聞いてないからな。まあ、自分の仕事以外は興味もなかったし、深く考えることもなかった。こんなことだったら、前もって外界の様子を聞いておくんだったよ。くそっ、今からそんなこと言っても遅いか…」

頷き木島が漏らす。

「うん、俺も奴らから情報を得ていれば、迷わずに直断したのに残念だな…。でも彼らの様子から推察すると、案外安全かもしれんぞ。何時も顔見知りの奴がくるじゃないか。顔を見なくなった仲間はほとんどいない。そう考えれば、結構楽しいところかもしれないな。それに、時雄さんは大袈裟に言っているんじゃないか。だって、俺らが暴走しては困るからな。だから多少脅かし慎重にさせようと仕向けているんだ。そう思わないか?」

「うむ…。まあ、確かにそれも一理あるかもしれない。外界に出て暴走されても困るからな。ただ、いろんな外敵がいることは確かだ。さっき言われたように、最も注意が必要なのは人間だ。これ以上犠牲者を出すわけには行かないから、ああやって誇張してるんだ。分かるような気もするよ」

「そうだよ、絶対そうだ。だって野口らの件で、一番頭にきているのは俺らだからな。このまま出たら暴走しかねない。だからその辺を見越して、あんな風に言ってんだよ」

木島が虚勢を張り、国分の後についき嘘ぶいた。

そして出口近くにやってくる。するとしきりなしに働き蟻たちが出入りしており、獲物を持ち帰った者、これからまた出掛ける奴と活況を見せていた。二人は出口のところで一端足を止め、改めて眺めた。

見たことのない風景が目の前に広がっていた。強い日差しが燦燦と降り注ぐ様を見て、圧倒され生唾を呑む。木島が目を見張る。

「うへえっ、すげえな…!」

あまりの眩しさと広大さに手をかざし、触角をしごきながら仰ぎ見ていた。二人はただ唖然とし圧倒されるだけで次の言葉が出てこない。国分にしても木島と同様だ。改めて見る外界。何時もそれとなく眺めていたのとは違い、踏み出そうとする二人にとって、目に飛び込むものは想像の限界を遥かに超えていた。

「うむむむ…」

まるで別世界を窺うように、その場に立たずむ。そして国分がぽつんと呟く。

「外界とは、こういうものなのか。生きてこの方、まともに見たことがなかった。何とすごいところなんだろう。予想だにしなかったぞ。この外界で俊介さんや時雄さんたちが活躍しているのか。うむ、如何だ木島、早く出てみないか!」

「えっ!この巣穴から出るんか…?」

「いや、ほんの少しだ。遠くへは行かない」

「でも…」

「そうか、行かないか。それなら俺一人で行ってみる」

「ええっ、お前一人で行くのか。無茶するなよ!」

「いや、ほんの少しだ。ちょっと出てみるだけだ。巣穴が見える範囲内で歩くだけだ。嫌だったらいいぞ。お前は、そこで待っていろ」

「それじゃな!」

一人で歩き出す。

「国分、待てよ。俺も行くから、ちょっと待ってくれ!」

躊躇うが、慌てて後を追いかけてきた。

「何だ、お前も来るのか」

振り返りながら言った。罰が悪そうに頭を掻く。

「いや、まあな。俺も行くよ。しかし、すごいところだな。何だか力が湧いてくるよ」

国分は大股で歩く。そして、前方を見るや声を発した。

「あれっ、あの遠くに見えるのは俊介さんじゃないか?ほら、あちらの方から来るのは。木島、見てみろ!」

「ええっ、あっ、本当だ。俊介さんだ!」

遠方の俊介らしき働き蟻に、大声で国分が叫ぶ。

「俊介さん、俺ですよ。俺れ!」

目印となる周りの景観など確認することなく、獲物をくわえ引きずる働き蟻の後姿に向かって、全速力で走り出していた。

「わあっ、待ってくれ!国分、俺を置いていかないでくれ!」

慌て後を追った。急ぎ彼のところへ行こうと走った。息が上がるほど巣穴から離れていった。どれくらい走ったか定かでないが、獲物を引きずる後姿の働き蟻に、息を弾ませながら声を掛ける。

「俊介さん、国分ですよ!」

更に怒鳴る。

「俺です、国分です!」

しかし、懸命な呼びかけに振り向きもせず、むしろ無視するように後ろ向きに獲物を銜え歩んでいた。更に木島も加わり名前を呼んだ。それでも返事がない。脇目も振らず獲物を引きずり運んでいた。

国分らは俊介の後ろに辿り着いた。そして立ち止まり、「俊介さん!」と大きな声で呼んだ。すると、他人事にように彼が振り向いた。

俊介ではなかった。

見知らぬ巣穴の働き蟻だった。国分らの顔をみたが言葉を交わすことなく、その働き蟻は、無表情のまま銜え直し歩き出していた。

それに驚いたのは、国分らである。

唖然とした。まさか人違いだとは気づかなかった。確かに後姿だけしか見ておらず、俊介と間違えたのだ。息を整えながら国分は、その過ぎ行く働き蟻に詫びる。

「ご免なさい!人違いをしました」

しかし、彼はそれをも無視した。国分はその様に不快になるが、その理由が直ぐに解けた。

「確かにあいつは、我らの仲間ではない。そうか、他人同士でも挨拶を交わすことに目覚めていないんだ。それじゃ仕方ない。俺らと違い、他の巣穴ではまだその程度なのか」

自身納得した。そんな国分らの様子など構いなく、その蟻は何事もなかったように、遠ざかって行った。

すると、不安気に木島が漏らす。

「国分よ、ここは一体どこなんだ…。急いで走ってきたから、俺らの居るところが分からなくなったぞ。確かあっちの方から来たと思うが、見当がつかなくなってしまったよ」

辺りをきょろきょろ見廻した。すると、はっとして国分が周りを眺める。

「こりゃいかん。夢中で走ってきたから、巣穴の入口が見えないぞ。ええと、確かあっちから来たんだが。いや、参ったな。まったく分からねえや。あっちの方からだと思うがな…」

諦め顔で呟いた。

「おい、如何する。俺たち巣穴へ戻れなくなっちまったんじゃないか?」

頼りなさに、木島が驚き叫ぶ。

「わああっ…。国分…、如何するんだ。このまま戻れなくなったら、外敵に襲われるぞ。俺、まだ死にたくねえよ」

「どこでもいいから。あっちの方から来たはずだ。とにかく急いで帰ろう!」

慌てふためき口走った。

「木島、落ち着け。うろたえて如何する。急いで帰るのはいいが、無茶に歩くことは危険だ。あまり動き回らない方がいい。むやみに動くと方向感覚がなくなり、間違いなく迷ってしまうぞ」

「そんなこと言ったって、こんな時に落ち着いていられるかよ。このまま突っ立っていたら、ますます外敵の的になってしまうじゃねえか。如何すりゃいいんだ!」

木島は動揺し、自分を見失っていた。

「うむ…」

錯綜する中落ち着こうと、国分は懸命に振り返える。

「あれだけ全速力で走ってきたんだ。周りの状況など目には入らなかった。戻るための目印を確認しておかなかった。嗅覚だけではあてにならん。こりゃ、迂闊だった。遠くから見た後姿がてっきり俊介さんだと思い込み、帰りのことなど考えず突っ走ってきてしまったんだ」

「これは困ったぞ。初めて外界へ出て、早とちりをした。それに、彼に頼ろうとする気持ちがあったからだ。先ほどあれだけ時雄さんに言われたのに失敗した。最初の難関だ。これは堪えるな。如何したらいい…」

思いがけない失態にほぞをかむ。

「そら、見たことか。お前がいけないんだ。ろくすっぽ確認もせず走り出すからだ。それに周りのことも見ず来たぞ。元を正せば、お前のせいだ。巣穴の外に出ようなんて言うから、こんな目に合ったんだ。見るだけにしておけばよかったのに、言うことも聞かず無茶するからこんな目にあった。国分、如何すんだ!」

木島が責任を押しつけた。

「それは悪かった。謝るよ」

そう言ったところで、如何にかなるわけではない。

「ああ、如何すればいいんだ。俺は死にたくねえよ。国分なんとかしろ…」

突然のこととはいえ、二人にとり初めての出来事である。軽率な行為となり、何ともしようがなかった。こんな状態の中如何対処してよいか判断できず、冷静に考えることすら難しかった。

でも、ここでじっとしていても時雄さんが来るわけでなし、誰も助けになど来てはくれない…。落ち着け、落ち着いて考えてみろ!

国分は懸命に己に言い聞かせた。

大きく息をつく。

そして目測で走った速さと時間で検算し、おおよその距離を弾き出した。隣でそわそわし不安気に見ていた木島が、耐えかね口走る。

「おい、国分。何、ごちゃごちゃ言ってんだ。いい考えでも浮かんだのか。ああ、お前なんかについて来なけりゃよかった…。まったく、如何すりゃいい。ぐずぐずしていたら外敵に襲われるぞ。国分、早く何とかしろよ!」

「まったく、お前がいけないんだ。あの時お前の誘いに乗るんじゃなかった」

そんな愚痴を漏らす木島を無視し、考え込んでいた。貶す言動に迷わされぬように、心の中で叫ぶ。

落ち着け!挑発に乗るな。国分、落ち着け!

その場で、暫らく考えていた。そして熟考の末、結論めいたものを導き出す。

よし!ここを中心に円を描き歩いてみよう。あくまで、今いる場所を基点として巣穴を探してみる。そうしないと戻れない。

そうしようと思った。確信は持てないが、それ以外に方法が見つからなかった。国分は、この方法で巣穴を探すことに決める。

そうすれば、今いる場所は分かっている。従って、この基点を絶対忘れてはいけない。ここを中心にして帰路を探すことだ。

更に、念を押し繰り返す。

この場所を中心にして円を広げながら探す。最初は小さな輪を設定し歩く。見つからなければ、また元のところへ戻り、そこから次の大きくした円に沿って探す。これを繰り返し、目測の距離のところを通過するよう歩んでいけば、巣穴近くを通るはずだ。そうすれば、間違いなく帰れる。そうだ、待てよ。円の拡大をどのようにすれば正確に描けるかだ。さて如何するか…。そうか、目印だ。円を描き歩いたところに印をつける。そうすればいい。されば、正確に円を拡大することが出来る…。

これでいい、これしかない。とにかく落ち着いて、これを繰り返せばいい。

自分に言い聞かせ、空ろな木島に告げる。

「おい、木島。焦ったところで如何にもならない。とにかく落ち着いて俺の話を聞け」

「何だ、何だ。帰り方が分かったのか。それだったら、こんなところでぐずぐずせず行こう。何時、外敵が襲ってくるか分からんぞ。さあ早く!」

動揺し口走る木島を宥める。

「木島、焦るな。今言ったばかりだろ。むやみに歩いては帰ることが出来ない。闇雲に方向違いの方へ行ったら駄目だ。そうだろ。お前だって、帰る道標を確認しなかっただろう」

「そんなことしてないよ。何せ、お前の後についていくのかやっとだったんだからよ。そんなの…、全速力で走るお前を追うだけで精一杯だったんだ」

己の行動を正当化し、また愚痴り出す。

「ああ、参ったな。こんなことになるんだったら、巣穴から出なければよかったんだ。それを強引に連れ出されこんな羽目になり、とんだことになっている…」

「まあ、そう言うな。愚痴ったところで、今さら如何にもならんだろ。それより、まずは巣穴に帰ることが先決だ。ところで木島、俺に考えがあるが。聞くか?」

「ええ、何だよ。考えって。帰れる算段でも出来たのか?」

「ああ、そうだ。聞くか!」

その言葉に、急に元気づき身を乗り出す。

「えっ、本当か。帰れるのか、俺たち!」

「そんならそうと言ってくれ。それだったら聞くよ。帰れるんだったら何でも聞くよ。国分、早く話してくれ!」

「まあ、そう焦るな。まだ確証はないが、俺の考えが正しければ必ず帰れると思うよ。但し…」

慎重な視線で止める。その言い回しに不満顔となる。

「何だよ。但しって。何か企んでいるんじゃねえのか。俺を見放すとかよ。放っぽり出し、一人で逃げ帰ろうって魂胆じゃねえだろうな」

木島が悪態をついた。それでも不安になるのか、今度は猫なで声になる。

「国分、それだけは勘弁してくれよな。確かに、多少なりとも愚痴を言ったと思う。それで、もしお前が許さないなら謝るからよ。帰れる妙案が浮かんだんだろ、見殺しにしないでくれ。ここで、見放されたら如何にもならなくなる。とにかく、こんなところで一人野垂れ死にするのは嫌だからよ」

「そんなことはしない。ただ、俺の案は粘り強くやらなければ帰れないものだ」

「おお、帰れるんだったら何でもする。苦労はいとわない。だから一緒に連れて行ってくれ。お前に従うから頼む!」

木島が急かした。

「そうか、それじゃ話すからよく聞け。その代わり計画通りに行動しなけりゃ駄目だ。途中で止めるわけにいかないし、面倒だとか疲れたといっていい加減になり、手を抜けば帰れなくなる。これは脅かしではない。だから、それだけは肝に銘じてくれ」

釘を刺し、話し出す。

「俺の考えはこうだ。この場所を基点として円を描きながら歩く。その円の輪を徐々に広げて行き、巣穴を探すのだ。そのためには辛抱強く円を拡大し歩かねばならない。それも何度もだ。途中で歩く輪を崩したら、帰れる目途は絶たれる。だから木島、いいな。約束だぞ。俺の考えでは、このようにして歩けば必ず戻ることが出来ると思う。ただ、絶対と言うことじゃないからな。如何だ、木島。分かったか」

「…」

返事をしなかった。不安が募る。

「本当に帰れるのだろうか。苦労し歩いたが、結局辿り着けなかった。ということも有り得る…」

判断に迷っていた。

国分の計画に従うべきか。それとて絶対に帰れるという保証はない。動き回り徒労に終わった挙句、野垂れ死んで行く。そうなる可能性だってあるのだ。また、途中で外敵に襲われたら、如何にもならんじゃないだろうか…。

眉間に皺を寄せ、黙り込んでいた。

「おい、木島。如何する。賛成するのか。俺だって始めての経験だ。不安でならないが、ここでじっとしていても帰れる見込みはない。それだったら、自分で切り開いて行くしかないだろ。木島。それとも俺の策より、もっと確実に帰れる方法でも考えているのか?」

そう問われても、返事のしようがない。とても考える余裕などなく、恐怖心が先立ち、猜疑の渦巻く中焦るばかりで冷静でいれなかったのだ。

「俺、俺…、とても考えられねえよ。怖くて仕方ないんだ。国分、助けてくれ。一人では如何にもならない。お前の考えに反論などあるわけないだろ。一緒に連れて行ってくれ。とにかく帰りたいんだ。こんなところで死にたかねえよ。外敵に襲われ、食われてしまうなんてまっぴらだ!」

激しく首を振る。

「そうか、心配するな。俺だって同じ気持ちだ。だから一緒に帰ろう」

「う、うん…」

「それじゃ木島、いいか。まずこの位置をしっかり頭に叩き込め。そしたら説明した方法で歩いて行くから」

「おい、国分。この位置を頭に叩き込めって言われたって、如何すりゃいいんだ。分からねえよ」

「そうか、位置といっても分からないか。それはな周りの景色だ。そして、そうだ。今いるところに印を付けておこう。目印になるものを置き、そこを基点としよう。お前、ここでじっとしてろ。何か目印になるものを探してくる。二人で同時に動いたら、基点がずれてしまう。いいか、絶対にここを動くな。もし動きようものなら、基点が狂うからじっとしていろよ」

「分かったよ。動かないよ。じっとしていればいいんだろ。…うんにゃ?待てよ。もしかして、俺を一人ぼっちにする気か。一人で、帰ってしまうんじゃないだろうな!」

「そんなことするか。お前を残して、何の得がある。もっと冷静になれ!」

「そんなこと言われたってよ…。分かったよ。言う通りにするから、絶対に見捨てないでくれ。頼む…」

「心配するな。置き去りになんかしないから安心しろ。それより、まずは基点になるものを探してこなければ始まらんだろ」

「それなら、絶対に俺を置き去りにするなよ」

「ああ、そんなことするか」

「分かったよ。ここでじっとしていればいいんだな…」

「そうだ。それじゃ探してくる」

言い残し、国分はその場から印をつけながら歩き出していた。

一人になった木島は耐えられなかった。と同時に、急速に恐怖心が湧き出す。足ががたがたと震え目が廻っていた。とうとう立っていられず、その場にしゃがみこんだ。目を開けていられなくなる。今にも外敵が襲ってくるのではとさえ思えた。周りを見ることが怖くて如何にもならなくなり、うずくまり両手で顔を覆っていた。それでも震えながらじっと耐える。恐ろしさが先に立ち、心臓がバクバクど高鳴る。

「ううう…。国分の野郎、遅いな。何時まで待たせるんだ。こんなところで待っている間に、外敵に襲われたら如何する。もしかして…、俺を置き去りにして、帰ったんじゃないだろうな。ああ、遅い、遅いぞ」

耐えられなかった。気が狂うほど、怯えと疑念が渦巻く。

そうか、これだけ待っても戻らないということは、さっきはあんなことを言ったが、やはり愛想をつかし、見放されてしまったのか。くそっ、もしそうだとしたら如何やって帰る。一人では如何にもならん。ああ、怖いよ…。

恐怖心に支配されていた。震えが止まらず、心臓が口から飛び出しそうになっていた。怯える気持ちが弱気にさせる。

國、国分、見捨てないでくれ。見放されたら如何にもならないんだ。帰ることも出来なくなる。後生だから助けてくれ。もし、お前に辛く当たってたら謝るからよ…。

すがる思いでいた。硬く目を閉じたままじとしていた。身体の震えは一向に止る気配がない。それどころか激しさを増し、更なる恐怖心が募り限界に近づいていた。抑えられぬほど気が狂いそうになり、今にも暴走しようとしていた。

そんな時に、国分が戻ってきた。目印を持ち帰ったのだ。

「木島如何した。気分でも悪いのか?」

うずくまる背中に尋ねた。その声に弾かれ顔を上げる。恐怖のあまり顔が歪んでいた。国分を見るなり、安堵したのか火が点いたようにまくし立てる。

「国分、遅いじゃないか!こんなに待たせて、外敵に狙われるところだったんだぞ。それでもう駄目かと思った。お前がもう少し遅ければ、身を守るためこの場を離れてしまうところだった。それを我慢し待ってあげたんだ!」

「そうか、それは心配をかけて悪かった。目印になるものを探すついでに、考えた方法を少し試してみたんだ。上手く行ったよ。この方法でやれば、間違いなく帰れるぞ。だから安心しろ!」

「本当か、国分。本当に帰れるのか!」

飛び上がり顔を崩した。

「それじゃ木島、この大きな目印をここに置こう。これを基点として行動する。いいか、よく覚えておけ」

「ああ、分かった。国分、それより早く行こう!」

「そう焦るな。沈着冷静にやらなければ駄目なんだ。失敗するわけには行かないだろ」

「そうだ、そうだったな。帰れると思うと嬉しくて、つい急いてしまったよ」

「浮かれる気持ちは分からぬでもないが、冷静になり落ち着いて行動しろ。それとな、木島。一つ約束してくれないか?」

「えっ、何をだ。今さら何を約束しろと言うんだ…」

国分の顔色を覗い、またとんでもないことを告げられるのではと、警戒心を募らせる木島を諭す。

「ああ、出発する前にこれは重要なことだし、改めてお前には分かって貰いたいことなんだ」

すると、怪訝そうに弱腰になる。

「だから、何だよ。もったいぶらずに早く言えよ。帰れるんだったら、何でも約束するから…」

「そうか、それなら言うぞ。これから俺の言う通りに動け。お前の考えや、閃きがあっても、この際俺の考えた方法で帰路に着く。そこでお前も言いたいことがあろうが、意見が違った場合、俺の考えを優先させて貰う。このことを約束してくれないか」

「何だ、そんなことか。そんなの約束するよ。分かったから、早いところ帰えろうぜ」

「本当だな、本当に約束するな。守れるんだったら俺を信用しろ。それで、すべて任せてくれ!」

「ああ、任せるよ。任せるってば!」

「そうか、それじゃ、ここを基点としこの棒で円を描きながら歩き、印を付けたとこに戻って来たら、また円を拡大し輪を広げて行く。巣穴が見つかるまで、その方法を崩さない。途中で崩したら、一巻の終わりだ。だから単純なやり方だが、確実に戻れる方法だと思う」

「木島、それじゃ、行くぞ!」

「おお、出発だ!」

声を掛け合い、国分が先頭に立ち、棒で円を描きながら歩き出した。

帰れると思うと、木島が急に元気になる。

「よかったな、本当に帰れるんだ。国分、しっかり先導してくれ。それでないと心配だからよ」

「ああ、分かった。後について来い」

「おお、分かった。それにしても、いい経験になったな。初めて外界に出て、こんなことが出来るんだからよ。まあ、明日からの訓練に大いに役立つよ」

國分の後に付き、がらっと変り嘯いた。

はたらか見ると、この二人の行動は奇妙な行動に映るかもしれない。しかし、初めて巣穴を出た者にとって、確実に帰れる方法であったといえる。国分を先頭に、にやけた木島が後に付いてゆく。國分が真剣な顔で輪を描きながら進む。そんな動きを遠くで見守る者がいた。これで戻れるだろうと確信し頷いていた。

時雄である。

夕方近くになり、幸いにも外敵に襲われることなく、疲れた顔をして巣穴へと辿り着いた。先回りした時雄が出迎える。二人は見つけるなり、その場にへたり込んた。嬉しさと疲れから安堵の顔をみせるが、声が出なかった。時雄が労う。

「お疲れ様。いい経験をしたようだな。明日の朝、この場で待っているからな」

満足気な顔を残し、その場を去った。よほど疲れたのか、暫らくの間放心状態でいた国分が落ち着いたのか、ぽつりと漏らす。

「ああ、命拾いしたな、木島。でも、戻って来られてよかった。ひと安心だ」

本音だった。

「ううん、よかった…」

木島が応じた。

そして、泣き出しそうな顔の木島を見つつ、国分が励ます。

「さあ、明日から時雄さんにしごかれなければな。それでないと野口や池田の弔い合戦に勝てないからよ。何とか無事に帰えれたし、なあ木島。互いに頑張ろうや」

「ああ、そうだな。今日はいい経験したよ。俺も一時は戻れないかと覚悟したが、戻れたんだ。まあ、表面的には国分に頼るような行動を取ったが、無事帰れた。これなら何となく、明日からの訓練にも耐えられそうだ」

「さあ、明日から頑張らなくっちゃ!」

木島がつい先ほどまで動揺していたわりには、そんなこと微塵もない口ぶりで告げた。

国分が頷く。

「そうだな、木島。明日は互いに頑張ろうぜ」

国分は今一度、帰り着いた外界を見渡し、突然降ってわいた災難に苦しんだが、悋気王変に対処できたことに少なからず安堵し、いい経験が出来たと反省しつつ触角をしごいていた。

「それにしても疲れた。ああ、早いとこ飯でも食って寝るか。明日から訓練だ。朝も早いしな」

つと洩らし、安堵顔で巣穴の中へ入って行った。

ところで、犬の帰巣本能はよく知られている。円を描いて走り出し次第に輪を広げて、自分の飼い主の元へと帰ってゆく。円周回説というものだ。他にも渡り鳥の方位測定には、太陽コンパスと地磁気を用いると言う説がある。すべて生きる者の本能に帰するものであるが、国分らが熟考し取った行動がこの説によるものだとは、勿論本人自身、考えも及ばなかったし、気づくものでもなかった。いずれにせよ、苦労の末巣穴に無事辿り着いたのだ。




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