久美子は今日もまた木の下へと来て、何時来るか分からぬ慕う人を待っていた。想いはただ一つ、秘めるこの気持ちをとにかく伝えることだ。その後のことは考えない。が、そう決心してもついと迷う。

俊介さんは、その時如何応えるだろうか。己の想いに反して諌められるか。もし、そうなったら何とする。言われるままに従うのか…。果たして、そんなことが出来るだろうか。

考え出すと、負の方へと引き込まれる。すると不安の渦が大きく口を開け呑まれそうになり、激しく動揺する。そのため、その思いから逃れようとプラス面を考えるが、そうは行かなかった。如何しても葛藤する気持ちが激しく揺れた。

彼女の心に宿る愛の天使が、知らぬ間に揺り動かしてしまうのだ。一度火の点いた本能は、己の意思とは関係なく動きまわる。小さな穴でも開けると塞げない、天使の射た燃える矢が心の襞に深く食い込んでいるのだ。

それ故片時も忘れられぬ状態になっていた。

思えば、寝ても醒めてもそのことで覆い尽くされていた。あの時の温もりが身体中を支配し、それを思い出す度に切なくなり胸が引き裂かれるように痛んだ。それではいけないと思いつつ、努めて仕事に身を入れるが、直ぐに胸が熱くなり如何にもならなかった。抑えようのない胸の高鳴りに、拭い去ることが出来ないほど苦しめられていた。今日に限ったことではない。幾度も足を運んだ。会いたい一心で、木の下へと通い続けた。

会える確証もなく、そのこと自体よくめげずに実行していると関心する。これは己の気持ちが揺るがぬことを裏付けているのである。それでも、時折り不安の芽が膨らんだ。

心の迷いであり、葛藤である。その度に思い悩む。

こんなに想っていても、俊介さんは巣穴社会の変革に忙しく、私の方など振り向いてくれないのではないか。この木の下で、もし会えた時何も言えず思い余って彼の胸に飛び込んだら如何なるだろう。面くらい拒むかもしれない。

私の気持ちなど構わず、「おい、何故そんなことをする。俺は忙しいんだ。だからそんなことしないでくれ!」と、告げられたら何とする。そのまま「ご免なさい」と謝り、諦めるしかないのか…。

いや、もっとひどく、「何やってんだ!」と、拒絶されるかもしれない…。にべもなくそうされたら如何する。更に「こんなことをしている場合か。未来永劫に繁栄するための改革に取り組んでいる時であろう。そんな時に、何だ!」と、罵倒されるかもしれない。もしそうなったら、私は如何したらいいの。

気持ちが高ぶるほど、次々に負の雑念が邪魔をした。

そうなったら、私…。でも諦められない。何を言われようと、胸の内を分かって貰いたい。諦めることなど出来ないわ。

交差する期待と不安のうねりに浮沈しながら、それでも毎日こうして木の下へやって来ては、一日中待ち続けた。そうすることがすべてだった。それ以外のことは持ち合わせていない。そう、彼女自身、他のことなど一切受け入れられなくなっていたのだ。

燃え上がった炎は沈静化するどころか、日を追うごとに熱くなっていた。本人にとって、業のものとしかいいようがない。しかし、異性をはっきりと認識し愛するということを理解したわけではないのだ。本能がそうさせるだけで久美子には苦しく、そして切ないばかりの胸焦がす何ものでもなかった。彼女の胸にある切ない想いは、会えぬ日々の重なりで益々強くなり、誰にも止められぬほど燃え上がっていた。

待つことの苦しさ、会えぬことへの不安、そして何時しか会えるという淡い望み。錯綜し打ち寄せる。

昨日は会えなかった。今日も会えぬまま日が沈もうとしている。 

今日もまた、会えないのか…。落胆する気持ちを抑え、明日になればと望みを託すと、揺れる胸の内にぽっと明かりが灯り、心が和んでくるのだった。そして、一途の望みへと繋げて行く。

幾日も会えぬ日が続いたが、諦めなかった。

こうして待っていれば、何時か会えるだろう。だから諦めない。こんな試練で諦めたら、一生悔いが残る。…そんなことにはなりたくない。だから何時までも待つ。今日、会えなくば明日。明日会えなければ翌々日。それが駄目ならその次の日と、会えるまでずっと続ける。

そうすることが久美子には、最善のことのように思えた。

想いは今日も変わらない。これからも決して変わりはしない。

彼女の彼に対する想いは、それほど強い決意により成り立つ。

もし、俊介さんに会えたら、何も言わず温かい胸に飛び込みたい。そして強く抱きしめて貰いたい。その後のことは考えない。それだけでいいの。それが、私にとって最大の願いだから…。

女心というものは、辛抱強いものだ。異性に対する想いがどんな形にせよ、募れば募るほど大胆な行動に出る。今の久美子はまさにそうだった。得も知れぬ胸の時めきは、強い決意により行動に移させる。何時かは通るだろう俊介を、ただひたすら待ち続ける。普通なら忍耐力が要る。彼女の熱い想いがそうさせているのだ。しいの木の下で辛抱強く待ちながら考えていた。こんなことは初めての経験である。

今までに感じたことのない熱い想い。何故、こうなったのか?

自分でも理解出来なかった。

如何してなのか、分からない…。

ただ、思い当たることがあった。

あの日からだ。そう、あの時は…。

ただ、嬉しさのあまりだった。その時の温もり、そして力強い腕。あの時、男としての彼の匂いを感じた。ただその時は意識せずにいたが、心に染み込んでいた。それが時が経つにつれ、身体全体に呼び戻されてきた。今まで感じもしなかったことだ。確かに彼の胸に飛び込んだのも、結果として自然の成り行きだ。それが後になって、その温もりを思い出すと胸が熱くなった。

それからだ…。俊介さんの匂いが、私を包み込んでしまったのは。あの温もりを忘れられない。

こんな気持ちになるのか、考えるほど息苦しくなり切なくなってゆく。

もう一度会いたい。会って俊介さんの胸に埋もれたい…。

久美子にとって、そのことがどんなことなのか、はっきりと理解できぬまま無中で考えていたが、これが異性に対する恋愛感情であることを、明確に認識出来ていないのだ。ただ本能の導くままに、時めいているに過ぎない。それでも今までのことを思えば、大きな進歩に他ならない。

雄であろうと雌であろうと、この蟻社会では有り得ないことだ。自分の意思を持つことにより、始めて起きた事象といっていい。そういう意味で彼女には、初の経験である。しかし、この受けるブローは苦しくそして切なかった。

つい最近まで働き蟻として、役割以外は知ることがなかったのだから。それ故俊介との出会いから、大きく変化していた。

己の意思で考え行動する。

そのことを教えてくれた。まずは仕事のことからだ。それがきっかけにすべてのことに、自ら考え行動するようになった。火が点くと若い久美子にとって、見るものやることがすぐに身に付く。それがまた起爆剤となり次のことへとチャレンジしていった。そんなダイナミックな動きの中で、まだ自身では気づかぬ恋愛感情というものが芽吹いていたのだ。

何事も経験が知識を深くする。まさに今の彼女は、そういう状態にあった。ただ、胸の時めきは本人にとり切なく、そして苦しく感じていたはずである。それも異性に対する苦しみは仕事と違い、そう簡単に解決出来るものではなかった。ただ一つ言えるのは、募る想いが日に強くなり、益々胸が痛むことである。それが会いたいという望みになり、毎日しいの木の下に来るという行動に移していた。

無意識の中で本能に目覚める。気づかぬまま進行して行く。

異性を求めるという本能は、この巣穴社会の中にあって、掘り起こされていないものである。だからと言って、禁じられるものではない。何万年もの間受け継がれてきた掟、すなわち生き行くための各自の役割に、組み込まれていなかっただけである。それがある日、ある一人の若者の悩みから発展し、ひょんなことで目覚めた結果、久美子そして俊介にしても思い悩ませる原因となっていたのだ。

これも、巣穴社会での改革の一つとして、位置づけてもいいのではないか。本人らは気づいていないが、まさしく生あるものが生きて行くための種族保存に対する、大きな改革であることに違いないのだから。

これから更に激しく燃え、切なく胸を焦がして行くことが間近に迫っていることを久美子は知る由もなかった。それ故深い澱みに嵌まっていたのである。

俊介さんに会いたい想いが、如何してこんなに苦しいの。ああ、何で溜息ばかり出てくるのかしら…。

苦しい胸の内を吐露する。

でも、会いたい。一刻も早く会いたい…。

如何してだろう。こんな気持ちになるのは。分からない。でも、とにかく会いたい。

本能に弄ばれるが如く、心焦がしていた。

俊介さん、早く来て。私、あなたが来るのをずっと待っているのよ。だから早く来て欲しい。あなたに会えないと、この胸が張り裂けるように苦しいの…。

立っていられず、木の根元に座り込んでいた。出るのは深い溜息ばかりだ。俯き地面をずっと見ていた。正視し彼を探すことなど出来ない。大きな声で叫びたかった。名前を呼んでみたかった。でも、そんな勇気は足元から消えていた。募る想いだけが、胸の高鳴りと共鳴し合っていた。

一陣の風が吹く。彼女の頬に伝う涙に触れた。そっと指先で拭い取る。

その時だった。

得も知れぬ期待が胸の奥で突き上げてきた。俊介が現われたような気がした。

直ぐに顔を上げ、遠くを窺がう。何も変わっていなかった。

「…」

顔に落胆色が広がっていた。

そして、ぼそっと呟く。

「ああ、今日も会えないのか。これから何日待っても、会えないかもしれない…」

遅々と会えぬことに、寂しさだけが無常にも久美子を覆っていた。

もしかして俊介さんは、私を避けているのではないか。こんなに毎日、待っているというのに。あなたは来てくれない。ああ、そうだとしたら、私のこの想いは果たせぬまま終わってしまうのかしら…。

自身の殻に閉じこもり、勝手に想いを馳せているとしたら、それは独りよがりの妄想でしかない。それでも、俊介さんにこの想いを正直に伝え、彼が如何思うか問うてみようと思う。でも、もし私を避けているとしたら何とする。これだけ待っても現れないのは、それでなのか。やはり、このしいの木の下には来ぬと言うことか。いや、美智子の言うことが嘘なのか。いや、そんなことないと思う…。

それなれば、何故幾日も来ないのか。意図的なれば。もし、そうだとしたら。如何する。

嫌だ。そんなの嫌だ。何時も親身になって相談に乗ってくれたではないか。それが急に避ける理由がどこにあるの?

私には分からない。俊介さんが私を避ける訳があるなら、教えて欲しい。だって、私この想いを断ち切ることが出来ないんだもの。諦めたり終止符を打つことなど、絶対に出来ない。

木の下で思い悩んでいた。そしてぽつりと呟く。

「俊介さん、私を嫌いにならないで…」

やるせなく、激しく揺れ動く。周りが見えなくなるほど切なく、そして苦しくなるばかりだった。

その時、また柔らかい風が包み込んできた。

はっと我に返る。

頭にこびり付く彼の匂いが、その風と共に鼻腔をくすぐった。思わず、顔を上げる。すると更に、その匂いが全体に広がってきた。

胸騒ぎがした。

すると共鳴するように、鼓動が激しくなり何かを感じた。そしてそっと立ち上がり、触角で周りの空気を探る。

会えるのではないか。俊介さんに…。

そう思うと、更に鼓動が高鳴る。慕う気持ちが増し、幻覚となって浮かび上がらせる。緊張が頂点に達するが、その匂いも間もなく消えた。思いがけず期待するが、空しく徒労に終わった。気落ちし、全身の力が抜けていた。

今の匂いは、一体何だったのかしら。胸騒ぎして一瞬会えるのではと思ったのに。私を困らせる風の悪戯だったの?

しょんぼりと視線を落とした。それでも未練がましく辺りを見廻すが、彼の姿はどこにもなかった。それでもまだ諦められず触角を大きく広げ、研ぎ澄まし匂いを追うが、まったく感知することが出来なかった。そして触角を下ろすと同時に、目から大粒の涙が溢れ出ていた。嗚咽が久美子を襲う。たまらなく悲しかった。

「俊介さんとは、もう会えないのかしら…。やはり私を避けているんだわ」

それだけ呟くのが精一杯だった。後は言葉にならず涙が溢れた。彼女の嗚咽が誰もいない木の下で、悲しみを伝えるように響き渡っていた。




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