第四章息吹一
抑えようのない熱き想いを抱いたまま、見えない何かを求め歩き回っていた。巣穴社会を改革し、未来永劫の繁栄を築いていかねばならぬ大切な時期だというのに、頭の中に霧がかかり何ともし難い思いに苛まれた。
俊介は悩んでいた。
ううう…。如何したらいいんだ。如何にもこうにも仕事が手につかない。この胸を締め付けるような、やるせない苦しさが拭えない。
改革どころではなかった。久美子のことばかりが頭を支配していたのだ。
何故、こんなことになったのか…。
はっきりした原因を、自身掴むことが出来ないでいた。何時の間にか頭の中に入り込み、アメーバーのように覆い尽くす。気づいた時はすでに遅かった。拭い去ろうと懸命にもがき考え焦るほど、、楔を打たれたように深く食い込んでいた。
俺は一体、如何しようとしているのか…。
自問自答しても解決策は容易に出てこない。それどころか、他のことがまったく手につかなくなっていた。
今、成さねばならなぬこと。それは自ら考え決めた我が巣穴社会に、新風を吹き込むことだ。我らの慣習に風穴を開け、行動することによる巣穴改革。それを遂行しようと、今まで行動してきたではないか。
他のことなど考える余地などないはずだ。それこそ、この改革は我が種族が営々と引き継いてきたことに、革新という楔を打つ。そう、新風を入れることは大変な出来事であり、もはや一人で出来ることではない。そのために、この改革に目覚めた仲間を増やしてきたのではないのか。これからも、より以上に力を傾注し加速させていかなければならない時なのに。如何して、こんなことになってしまったのか…?
考えてみれば、今まで経験したことのないことなのだ。いや、確かに他のことでもそうだ。今まで進めてきた改革だって、未経験の中で試行錯誤しやってきた。これとて胸躍ることだ。次から次へと新しい発見がある。勿論、戸惑うことだって数限りない。胸が高鳴り緊張することも多い。今まで経験のないものへの挑戦ということでは同じなのに。
如何して、彼女のことを考え出すとこうも変わのか。他のことと違い冷静さを失い、自制が効かなくなる。拭い去ろうとしても、自身如何にもならなくなってしまう。
今までとは明らかに違う胸騒ぎ。他のことすべてが駆逐され、彼女のことだけが大きな嵐となり頭の中を荒れ狂う。
ああ、分からない。分からないが、切なさだけが俺を苦しめる。俺が男だからか。美智子や他の者らに会ってもこんな気持ちが湧かないのに、彼女だけは違うんだ。
そうか。もしかして、心に棲む本能が導く異性だからなのか…。いや、分からない。けれど無性に会いたい。今だって、己の意思で制御できないほど気持ちが揺れている。しかし、会って如何なる。この頭のもやつきが消えるのか。いや、分からない。けど、とにかく会いたい。
悶々とした思いが、胸の内で渦巻いていた。
気がつくと何時もこうなっている。自分ではコントロール出来ない何かに導かれているのか。自制心では如何にもならぬこの熱き魔物に、身動きが取れなくなるほど凌駕されてしまうのだ。
つい先日、偶然会うことが出来た。これとて見えぬ糸で繰り寄せられたせいなのか。では今度、どこへ行けば会えるのか?
そんなことばかり考えていた。
蟻社会では、本来起き得ないことなのだ。元来我ら働き蟻は、餌を捜し巣穴に運び込む。これを一生涯続ける。毎日そればかりやる。他に考えることはしない。それだから疑問も不満も湧かない。
雌雄関係があっても、そこに恋愛感情は発生しない。子孫を増やす仕組みは、女王蟻がその役目を果たす。これも決まりごとだ。女王蟻は一生卵を産み続ける。そこには当然、働き蟻と同じで恋愛感情は生まれない。この巣穴社会では、すべての者が役割を持つ。変えることの出来ないその役割。それが破られない限り、幾代にも渡って続けられるのだ。そこに俊介が立ち上がり、己の意思というものを持ち込んだ。
これが改革という名の新風となっている。
この考え方に目覚めれば、当然自分がやっていることに、己らの意思で改革しようと何かの変化を持ち込む。ここに現体制への不満や異論が発生したとしても不思議ではない。それは俊介だけでなく、他の働き蟻とて同じである。それが善であれば、巣穴社会にとり有意義な変化をもたらす。一つ風穴を開けることで、既成概念が崩れる。いろいろなことに気づいてくるのだ。意識的に変化させて行くものもあり、無意識のうちに変化することも多々生じ、目に見えぬところで激しく変わってゆく。
それらすべての先駆けとなるのが、俊介の心の動きであった。
あまた社会の動向を観察し知り得るにつれ、蟻社会にない異性との交わりを観ていた。今まで知り得る環境にありながら、蟻社会の仕組みにより意識しなかった。
だが、いったん風穴が開くと怒涛の如く他社会の仕組みが知識の中に入り込んできた。人間社会、動物の世界、すべてに共通する異性との交わり。これこそが、我が蟻族にない本能に基づく子孫繁栄の原点であることを。だが、己自身がそのことによって明確に裏付けされ、心の中に火が点いたとは言い難い。
おそらくいろいろな改革という、その変化の重なるうねりの中の一つとして、目に見えぬ何かに背押しされるまま久美子に対し異性を感じ、心の片隅に風穴が開き恋愛感情へと発展したものであろう。
そのきっかけを生じせしめたのが、偶然にも出会い頭彼女を抱きとめた一瞬の、あの豊かな胸の感触であり甘い髪の匂いであったことは間違いない。俊介には、それが異性に目覚める原因であることを認識したわけでなく、本能の導くままに目覚めていたのである。
確かに、巣穴改革に係わることでは疑問が湧き、自問自答と試行錯誤によりはっきりと意識し、仲間へと伝承していった。しかしこの熱き想いは気づかなかったし、俊介自身には意識の領域を超えた未知の経験だったのである。
それは、生き物が持つ本能が目覚めたといっても過言でない。
ただ会いたい。
そのことばかりが心を埋め尽くし、すべてとなっていた。すると本人の思惑とは関係なく、そのことが中心になり回りだす。
久美子に会いたくて、何日も捜し回った。すでに、他のことをする気が起きなかった。否、自分のやるべきことをやらなければならない。そう思っても、何時の間にか彼女のことに入れ替わっていた。結局、手につかないのだ。それで、いたたまれずそのことばかりを考え、朝から晩まで彼女の影を求めそこらじゅうを歩き廻る。当然、行動範囲が広がり定期的に訪れていたしいの木の下には、一度寄ったきりで二度、三度は行かなかった。そして熱き想いとは裏腹に、彼女とはすれ違ったまま会えずにいたのだ。
幾日も捜し求める俊介は、会いたさ故に改革そっちのけで捜し回っていた。会えずにいると、想いが薄れるわけではない。余計愛おしさが胸を突く。そして、更に苦しくなりやり場のない憤りとなって、自身を追い込み苦しめるのだ。
それでもめげず捜し求めた。ある時、巣穴に戻る美智子と出会う。
「あら、俊介さん。如何したの。身体の具合でも悪いの?それとも改革の方、上手く行ってないの?」
心配そうに声を掛けてきた。立ち止まり唇を噛み俯いている時である。ふいだった。苦悩する顔色を見られたかと、咄嗟にはぐらかす。
「いいや、どこも悪くないよ」
それでも心配そうに顔を覗く。
「何言っているの。何時ものあなたと違うわ。背筋をぴんと張り、正面を向き堂々としているわよ。それに背中を丸め眉間に皺を寄せて、思い悩むように俯いているじゃないの。それに落ち着きなくきょろきょろしちゃってさ」
「そんなことないよ。たまたまそんな風に見えただけだろ!」
苦し紛れに言いわけした。
「だって、顔色だって何時もと違うわ。青白い顔してさ。さては改革のことで行き詰っているのね?」
気づかれずほっとし、感心を逸らすように言い訳する。
「うむ、それもあるかな。何せ始めてやっていることだから、諸事万端難しいことばかりなんだよ…」
美智子はじろっと見疑う。
「俊介さん、本当は違うんじゃないの。改革のことで悩んでいる顔ではないな。別のことじゃないかしら?」
更に鎌をかける。
「は、はん。さては、恋の病でも患っているのかな?私なんか、こうして他の生物の世界を観ていると、自然に感化してしまうもの。それで、ぴんとくるのよね」
心の中を見透かされ、慌てて否定する。
「いいや、そんなことはない。そんなことあるもんか!」
「恋だなんてとんでもない。だいたい、今はそんな悠長なこと言ってられる状況ではないよ。進めている改革のことで、頭が一杯なんだから」
手を振り懸命に打ち消し、見破られまいと乱れた心を隠すように弁解した。その様子を見て頷く。
「ああ、そうなの…。そうだよね。俊介さんには恋だの愛だのといっている暇はないものね」
「ああ、それどころじゃないんだ」
「そうね、あなたは私たちみたいに自分のことだけ考えているわけじゃないから、異性を感じている時間なんかないわよね」
納得したのか話題を変える。
「そう言えば、確かこの前久美子に会った時、あなたのこと聞かれたわよ」
さりげなく告げた。俊介は一瞬ドキッとする。名前を聞いただけで、急に胸が高鳴り出してきた。
「ええっ、本当かよ。それで何て言ってたんだ?」
気負い尋ね返した。すると、
「確か、『俊介さんは何時も何処にいるの』って。尋ねられた覚えがある。だから言ってやったの。『丘の向こうのしいの木の下にいることが多いわよ』って。でも、『何時もいるとは限らないけどね』とも、伝えておいた」
「けれど、彼女が何でそんなこと聞いたか、あまり詮索しなかったの。てっきり改革のことでも相談するんだろうと思っていたからね。そうでしょ彼女、今はそれしか頭にないみたいだもの。それに、改革のことで何だか悩んでいるようだったわ。あなたに相談したいことがあるんじゃないの?」
思い起し告げた。
「おお、そうか。相談したいことがあるのか…、それで俺を探しているんだな」
さもあろうと思った。
「そう言えば、この前会った時も、夢中で改革のことを語っていたものな…。きっと俺のことなんか、その範疇でしか考えていないさ」
熱き想いを断ち切るが如く合せる。
「いやあ、実は。忙しくて最近あそこには行っていない。だから会えていないんだ。ううん…」
心にもなく言い、内心僅かな光明を掴んだような悦びに満ちつい頷いていた。そんな様子を、美智子は不可解そうに窺い何か思い出す。
「ああ、そうだったわ。今度あなたに会ったら伝えようと思っていたんだけれど、野口残念だったわね」
「えっ、野口が何が?」
「…」
「何が残念だったんだ。美智子?」
聞き直すと、訝る。
「何がって、知らないの?」
「ううん、野口が如何かしたのか?」
「あら、あなたまだ知らないの。彼、この前死んだのよ」
「ええっ、何だって。野口が死んだ?」
目の色を変えた。
思いもよらなかった。今の今まで知らずにいた。
つい先日、理不尽にも菊地の暴行を受け、不本意な要求を受け相談に乗ってやった。それで備蓄食料を奴のところへ持って行ったはずだ。それっきりになっていた。その後のことは、何も聞いていない。また、相談に来るものと思っていた…。
「俊介さん、何も知らないのね。やっぱりあなた、最如何かしているわ。こんな大事なこと知らないなんて」
うむ、野口が死んだとは。ああ、何と言うことだ。俺が怠慢だった。彼女のことで頭の中が一杯になっていた。そこまで考えが及ばなかった…。
胸の内で頭を下げた。
「実は、私も野口が死んだというか、殺された理由を聞いてびっくりしたの。だって、あんな哀れな死に方したんだもの…。あの非道な菊地に、なぶり殺されたっていうじゃない。ひどい、ひどすぎるわ。こんなことあっていいの!」
うむむ、なぶり殺されたというのか。あの菊地に。そんなことになっていようとは。それも知らなかった…。こんな大切なことを。そうだろう、我々の仲間だ。その野口がなぶり殺され死んだという。迂闊だった。久美子への想いに熱くなり、周りが見えなくなっていた。
くそっ…!
他のことなど目に入らなかった。否、知ろうとしなかった。お粗末といっていい。激しく悔いる。
巣穴の改革や、直面している問題に自ら蓋をし見ようとしなかった。俊介は己の行為に恥じた。だが、彼にとって如何にもならない本能の疼きであり、避けて通れぬものであることに気づかなかった。
「それで美智子。菊地に何故殺されたんだ。どんな訳があったんだ」と慌て聞くと、困惑気味に説明する。
「そこまで、はっきり知らない。何故、殺されたのかまで私には分からない。でも、噂ではとてもひどかったらしいわ」
「そうか、分からないか。しかし、何でだろうか…。それにしても、大切な仲間を失ってしまった。非常に残念だ」
「しかし、あの菊地という男、我が巣穴を出て己の城を築いたという。ただ者ではないと思っていたが、噂によると自らの巣穴勢力を拡大するため、極悪非道なことを平気でやっているらしい。俺としても、我が巣穴を改革する上で奴の指触が及ぶとすれば、この辺りに原因がある気がするんだが…」
推測していると、美智子が尋ねる。
「それって、如何いうことなの?確かに菊地のことは、どこへ行ってもいい話は聞かないし、むしろ酷い噂ばかりが伝わってくるもの。だって、そうでしょ。野口の前に、池田が殺されているわ。野口で二人目よ。これからもまた、あいつに殺られる仲間が出るんじゃない?」
「な、なんだって!」
「だから、野口の前に、池田が殺されたって言ったのよ」
「ええっ、池田まで奴に殺られたのか…」
「俊介、何言っているのよ!池田のことも知らなかったの。彼が死んだのは、野口より前よ。あなた、巣穴の改革だのと大きなこと掲げているけれど、こんな大切なこと耳に入いらないなんて如何かしているわよ!」
「さっきの顔つきといい。何だかおかしいわ」
「…」
「私だって、あなたは恩人よ。あなたに導かれなければ、今の私など有り得なかったんだから。だけど俊介さん、あなた変よ」
「…」
「先ほどといい、今の話といい如何もおかしいわ。改革って、そんなに大変なことなの。身近な仲間の噂が入らないほど、周りが見えなくなるとでも言うの!」
厳しく諌めた。
俊介は反論出来なかった。指摘さたことは真実だ。事実、野口のことも池田の死もまったく知らなかった。それどころか、改革するための行動すら出来ていないのが、今の己の姿だった。悩む久美子のことだけで頭が一杯になり、完全に周りが見えなくなっていたのだ。心の内でぼそっと呟く。
その原因が、彼女への想いであるとは…。
美智子には、とても言えなかった。自分にとって、気が狂うほど心惑わすものなれど、他の者らには単なる恋愛ごとと片づけられる。平穏な時には問題ないが、重大なことと隣り合わせにいる時に異性に現を抜かしていては、何をやっているのかと卑下される。
美智子にしてみれば、「こんな時に重大なことも知らず、何を血迷っているの。もう少ししゃきっとしなさい!」と、窘めるように俊介を覗っていた。巣穴社会の将来にかかる大切な改革を放ったらかし、異性に熱を上げていれば憤慨されることになろう。
立場が逆であったなら…。
俊介もそう思う。
美智子が、そんな考え込む様に訝る。
「俊介、如何したの?」
「…」
返事のしようがなかった。そして、
うむ…。俺がだらしないから、こんなことになるんだ。野口や池田を死なせてしまった。もっと積極的に相談に乗ってやれば、こんなことにはならなかったんだ。
がっくりと肩を落とした。そして嘆く。
あの時…。そうだあの時、野口から相談があった際、時間を稼げと進言してやった。その後のことで俺は、そこまでだ。その結果如何なったかを、報告しろと言わなかった。迂闊だった。頭が廻らなかった。いや、久美子のことで一杯だったから…。そこまで立ち入ろうとしなかったのだ。
要は避けていたに過ぎない。心の中で詫びた。それ故彼女への想いを、口が裂けても言えなかった。胸に押し込め、申し訳なさそうに懺悔する。
「美智子、如何しよう。俺がいけないんだ。もっと真剣に取り組んでいれば、二人を死なさずにすんだ。それを奴の毒牙にかからせてしまったんだ」
「如何詫びたらいい…」
「俊介、あなたの気持ちは分かったわ。だからと言って、自分ばかり責めても如何にもならないわ。だって、原因を掴んでいるわけじゃないでしょ。だったら悔やんでいる時ではないんじゃない。先にやることがあるでしょ」
「う、うん…、そうだよな。俺が悪いんだったら、まず原因を究明しなければな。それが分かったら、次に如何すべきかを考えねば。それでなければ、二人は浮かばれないよな。美智子有り難う。俺、如何していたんだ。よし、こうなったら徹底的に調べるぞ。悔やんでいても戻ってこない。時雄らだって同じ気持ちでいるだろう。何としても仇を取ってやる。まずは原因を究明し、それからだ。彼らに対する罪滅ぼしに、今やらねば俺は一生後悔する」
決意し、久美子への想いを断ち切ろうとした。
「そうよ、俊介さん。改革も大切だけど、二人の死を無駄に出来ない。何故殺されたのか、究明することが先決よ。それでないと皆が納得しないわ」
涙ぐみ訴える。
「だって、あまりにもむごいじゃない。もしかしたら菊地の謀略に嵌まって、なぶり殺されたんじゃないかしら。もしそうだとしたら、このまま見過ごすわけにはいかない。そうでしょ、俊介さん!」
「そうだ、美智子。その通りだとしたら、奴を放っておけん。これ以上犠牲者を出すわけにはいかないからな。ともかく何故死んだか、皆に聞いてみよう。とりあえず国分辺りに聞けば分かるだろう。それに君も手伝ってくれ。出来る限り情報を集めて欲しい」
「分かったわ。私だって彼らが死んだ原因、あいつに殺されたとなれば許せないもの。もし、そうだとしたら仇を取らないと。それじゃ集めた情報を、何時どこで交換するか教えて。あなた、なかなか捕まらないから」
「そうだな。それじゃ一週間後に巣穴の入り口で落ち合おう。他の奴らにも声をかけ協力して貰ってくれ。俺も出来る限りの情報を集めるから。野口らもさぞかし無念に思って死んだのだ。その思いを晴らしてやらなきゃならん」
聞いていた美智子が、つと洩らす。
「そう言えばさっき、言い忘れていたことがあるわ。久美子のことだけど、彼女にも協力して貰おうと思うの。どう?丘の向こうのしいの木の下で、あなたを待っているかもしれないわ。ついででいいから、もし会えらそうさせて。一人でも多い方がいいでしょ。でも、何だか悩んでいるみたいだったし、お互い様だから、もし行けるんだったら行ってあげて。多分、改革のことで悩みがあるんじゃない」
「ああ、そうだな。そうするよ」
さりげなく返したが、その瞬間封じ込めたものが這い出し、胸が熱くなる。その想いが、今自分でも理不尽だと分かっていても、如何にもならなかった。
そうか、あそこに行けば会えるのか…。
そう思うと、いても立ってもいられなくなっていた。
「それじゃ美智子、宜しく頼むよ」
「ええ、分かったわ。あなたも頑張ってね」
そう言い、立ち去った。残った俊介は、更に鼓動が激しくなっていた。美智子と別れると、たちまち野口らのことが頭から一掃され、彼女への想いで埋め尽くされていた。他の仲間に理不尽と蔑まれるだろうが、自分では如何にもならず、美智子の漏らした言葉が耳にこびりついて離れなかった。
あそこに行けば、会えるのか。でも、如何しよう。会って、何を話せばいいんだ。この気持ちを率直に伝えるべきか。
待てよ、急にそんなことをしては…。
心の内で葛藤が生じた。
おい、それどころではないんじゃないか。美智子に言われたばかりだろ。野口や池田が殺された原因を、早急に調べなければならない時なんだぞ。
それに…。久美子が探しているのは、俺の想いとは違うんだ。改革のことで相談したいと望んでいるのに、「お前が好きだ」などと打ち明けられるか。それに野口らのことを解決しなければならないのに、好きだのと言ってられる場合か。
悩み出し、視線を落として考え出す。
これは困ったぞ。如何したらいい。…かと言って、久美子への気持ちを後回しにして、野口らの原因を調べることと、彼女の悩みごとを優先して取り組まなければならないのに。果たしてそんなことが割り切って出来るのか。
俊介は深く悩んだ。
否、たった今美智子に諭され。久美子への想いを断ち切り、決断したばかりじゃないか。
それが如何だ。また、気持ちが揺らいでいる。こんなことでいいのか。
己を叱責した。
だがしかし、自信がなかった。気持ちでは分かっているし、最優先でやらなければならない。そう思うが、それが空回りするだけで混沌とするばかりだ。頭では分かっている。改革途中に起きた事件を思えば、今決断したように「野口らの死に至った原因を調べ、次の手を講じなければならない」ことを。
そして、「次にやらねばならぬことは、仲間に周知し結束を固め改革を進めていくことではないか」と。そうと頭で分かっていても、しいの木の下に行けば会えると思うと、葛藤が生じ心の揺れに押し流されていた。
結局、一歩も足が動かなかったのである。それどころか、益々久美子への想いが募り、如何にもならないところへと堕ちていった。
「この意気地なし。きっぱりと諦めろ。じくじくしている場合ではなかろう。仲間が殺されたんだぞ。それを何だ。女のことばかり考えていて!」
もう一人の俊介が激しく戒めた。
出口のないトンネルに入ったように、立ち止ったままでいた。苦しげに溜息をつき熟考の末、ようやく気持ちの整理が出来る。
それは久美子への想いを断ち切り、諦めることではなかった。
そうだ、自分に正直になろう。今何をすべきか考えれば、とても偽善者にはなれない。そんな中途半端な気持ちで原因究明にあたったところで、上手く行くはずがないだろう。そうであるなら、やらねばならないことを最優先でやるべきなのだ。その結果が如何であれ、己自身に結論が出る。そのことをきちんと成してから、野口らのことに全力で向えばいいじゃないか。それでも遅くないはずだ。
このことが後で皆に如何思われようと、そして卑下されても、今の気持ちに正直でありたい。それしか俺には出来ない…。
結論を導き、ゆっくりと歩き出した。久美子が待つというしいの木の下へと。
もう迷うことはないんだ。そうしなければ次へと進めない。己の気持ちに正直たれ、今の想いを伝えよう。如何応じるか分からない。驚き拒否されるかもしれないが、それはそれで仕方ない。この気持ちが、如何なものか分からぬが伝えてみよう。
そう決意すると迷いはいなかった。
どのような結論が出ようと会わねばならぬと思った。すると不思議にも、気持ちが澄んでいた。まっすぐ前を見、背筋をぴんと伸ばし大股で歩いていた。その姿はまさしく、以前の改革に突き進む時の様そのものだった。
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