久美子は立ち止まっていた。暫らくぶりに俊介と逢い、今までの迷いが消えやる気がみなぎり始めた時だった。思わぬ悦びと難問にぶつかっていたのである。

確かに私は働き蟻。毎日獲物を捕るという役割を与えられ、それについて俊介さんから知恵を授かった。私たちの住む巣穴のために、如何に多くの獲物を効率よく確保するか、考えれば考えるほど難しいことが分かった。でも今では、小さなことでも解決した時の悦びは、何とも言えぬ得難いものになっている。一つ解決すると、次の問題を手掛けてみたくなる。そして、自分が経験したことを、他の仲間に教えたいと欲が出る。それによって、自然と仲間に広めて行ける。

辛いこともあったが、やり甲斐のあることだと思った。

「でも…」と躊躇う。

私にとって、他にやるべきことがあるのではないか?別に、今やっていることが嫌だとかそう言うことではない。このまま続けていくことも役割だが、そのこと自体を更に変えた方がいいのではなかろうか…。

つと考えるようになっていた。

如何して女王蟻だけが、子供を産むのか。私の親は女王蟻なのか。以前、疑問に思ったことがそれだったのか?

考え出すとたまらなく寂しくなり、強く心に引っかかっていた。

私だって女ですもの。好きな人と巡り会い家庭というものを築き、種族保存のために子供を産みたい。だって…、数多の動物や他の昆虫たちだって、それに人間だって皆そうして生きているじゃないか。

そう考え出したのだ。

如何して、こんなことを考えるに至ったか。久美子は感じていた。そう、あの時の彼の温もりが忘れられなくなっていたからだ。

もしあの時、俊介さんと出会い彼の胸に飛び込んでいなければ、それこそ考えることはなかったかもしれない…。あの時、あまりに嬉しくて抱き合っていた。それはただ悦びの表現として、何も考えず生じた行為にすぎない。多分、彼にしても性別の意識なくそうしたに違いない。結局、それでその場は何のわだかまりもなく別れた。

けれど身体の奥に残った俊介の温もりが、今だ忘れられずにいる久美子は、自覚はないがおぼろげに女としての本能が芽生え、考え始めたのではなかろうか。本人には、そんな意識はなかった。にも係わらず、胸の内で晴れないもやもやが湧いていた。その憂いた気持ちが、彼に会いたいという思いを駆り立てているのも事実だった。

そんな漠然とする思いで日々過ごしているのだが、何故こんな気持ちになるのかは理解できなかった。

ただ、今行っている改革にも悩みがある。確かにそのことで尋ねたいことはあるが、差し迫った問題ではないのだ。解決方法は彼に会わずも自分で考え試行錯誤すれば、自ずと新しいものへと変えられる。その進歩した結果の幾つかを知って貰いたいと望む気持ちは多々残る。

しかし、それらは急くものではない。いずれ会った時に纏めて話せば済むことだ。彼女の胸中にあるのは、上手く言い表わせない不思議なものだった。

樹木の木陰でぽつねんと立ち、一人考え込む。そんな時、不意に後ろからポンと肩を叩かれた。

「やあ、久美子。如何したの、身体の具合でも悪いの?」

美智子が声を掛けてきた。

「何だか難しい顔をして立っているんですもの。久美子ったら、さっきから呼んでいるのに気づかないで」

「あら、ご免。ちょっと考えごとしていたものだから、ちっとも気づかずにいたわ。本当にご免なさい!」

ぺこりと頭を下げ、逆に尋ねる。

「何か用かしら?」

「いいえ、別に用はないんだけれど、通りがかりにあなたを見つけた時、あまりに深刻な顔をしていたから、声を掛けただけなの」

「そう、それは有り難う。この通りどこも悪くないわ。至極元気よ。ところであなたは如何なの。私と同じ仕事についているのよね。効率よく確保する方法でも見つけた?」

「う、うん。まあ今じゃ私も、昔と違って決められたことだけやっているわけではないわ。ついこの前だって自分で考え、如何やったら人間が食べ残して捨てたお菓子を、多く集めることが出来るか試してみたの。それで意外なことが分かったわ」

「行き交う時の触角での情報だけでなく、こちらから具体的にそのようなものが何処にあるか質問していった。すると公園へ行けば親子が一緒に来て、そこでお菓子を食べるんだって。すると子供が溢す。それが沢山あるというのが分かったの」

「それで、そこが何処かを具体的に聞いたわ。そしたらお菓子の破片が沢山落ちていて、随分持ち帰った。そして帰り際会う仲間に、具体的に教えてあげながら帰ったの」

得意気に笑みを浮かべ続ける。

「久しぶりだわ。あんなに多く採れたのは。嬉しかった。自分で考え自ら情報を求めて行動し、大きな収穫を得る。そんな経験今までしたことがなかったもの。だから私、敏子に教えてあげたわ。敏子も何処かで俊介さんの噂を聞いていたのかしら、直ぐ興味有り気に尋ねられた。敏子ったら『私でも、あなたと同じように出来るかしら?』と問われた。だから言ってあげたの。こんなこと誰だって出来ると。そしたら目を輝かせていたわ」

美智子は一気に喋った。すると久美子が返す。

「そうだったの、美智子。あなたがそこまでやっているとは思わなかった。すごいわね、そんなに進んでいるなんて!」

感心し、彼女をまじまじと見た。すると美智子が尋ねる。

「久美子は如何なの。私ばかり話しているけれど、何かためになる成功例はないの?」

すると久美子が目を落とし、ぼそっと呟く。

「私ね。最近おかしいの。何となく考えてばかりでさ。さっきもそうだったの。仕事のことだけじゃないの。何か私の中でもやもやするものがあってさ。そのことを考え出すと胸が締めつけられ、如何しようもなくなるわ。こんな悩み、誰にも相談できず、一人悩んでいたの…」

今までこんなことはなかった。そうよ、俊介さんに諭されるまでは。自分自身で考えることがなかったからね」

苦しい胸の内をさらけた。聞きつつ美智子が相槌を打つ。

「私、何となく分かるような気がするわ。はっきりとは言えないけど、聞いたことがある。それは私たち女だけではなく、男にもあるんだって。異性というものらしいの。大人になると互いを意識し出す。男は女を、女は男を好きになる。何故そうなるかというと、如何も本能らしいわ」

「すなわち種族保存という、最も原始的で神秘なもの。この本能により、相手として相応しいか見極めるために恋愛という感情が生まれ、それぞれ相手をより深く知ろうとする。肉体的にも精神的にも、互いが自分にとって一番好ましい相手かを確認し合うことなんだって」

「そう言うことらしんだけど。何だか難しくてよく分からない。だって、そんな気持ち起きないもの」

「ふうん、そうなの。初めて知ったわ。私の胸の内にあるもやもやしたものがそうなのかしら。はっきりと自覚できないけど」

「そうね。あなたの場合、今、私が言ったことに当てはまるかは、もっと詳しく聞かなけば何とも言えないわ。だって私自身経験したわけじゃないし、単にそういう話を聞いただけだもの。久美子、もう少し詳しく聞かせてくれない?そしたら一緒に考えてあげられるわ」

美智子が興味深そうに目を輝かせた。

「そうね、相談に乗ってくれるの。有り難う。でもまだ、はっきりと如何してこんな気持ちになるのか分からないの。だからもう少し整理してみるわ。ある程度纏まってから、あなたに相談する。それまで待ってくれる?」

「あっそう、分かったわ。久美子、悩んでばかりいては駄目よ。何時でも相談に乗ってあげるから遠慮せず言ってちょうだい」

美智子の助言に感謝する。

「ええ、有り難う。でも今日は、あなたに会えてよかった。何だか、少しすっきりした気がするわ」

「ところで美智子。最近、俊介さんとは会っていないの?」

久美子がそれとなく尋ねた。

「ううん、会っていないわ。でもこの前巣穴に帰る途中で、敏子に会った時言ってたわ。丘の向こうの大きなしいの木のところに行けば、彼が立ち寄っているってね。まあ、直ぐに会えるか分からないけど行ってみたら」

「そうなんだ…。俊介さんったら、あそこにいることがあるのね…」

そんな会話をしていると、久美子は知らぬ間に鼓動が高鳴ってくる。

しいの木の下に行けば、彼に会える。そして再び、あの温もりを味わうことが出来るかもしれない…。

そう思うと、息苦しささえ覚えるのだった。

「あれ、如何したの。久美子?」

不可解そうに顔を覗き込まれ。はっとして、気づかれまいと赤らむ顔を背ける。

「いいえ、何でもないの。この前、俊介さんに報告しろって言われていたものだから。結構話さなければならないことが溜まっているんだ。報告しないと心配するから」

話題を変えようと焦っていた。

「あらそうなの。そんなことだったの。がっかりしたわ。さっきの話、もしかしたら彼のこと好きになり打ち明けられず、悩んでいるのかと思ったわ。それだったら私が、橋渡ししてもいいと思っていたのよ。そうじゃないの、久美子?」

「いえ、そんなんじゃないわ…」

「何だ、それは残念ね」

湧き出す興味を削がれた様子の美智子に気を使う。

「ご免ね。せっかく相談相手になってくれるのに、はぐらかすようなことになって。本当にご免なさい」

ぺこりと頭を下げた。

「いいのよ、別に気にしなくも。たまたま彼とは顔馴染みだし、いろいろ相談に乗って貰っているから、そう思って聞いただけなの」

「ううん、本当にご免なさい。頭の中が整理出来たら、いの一番で相談するわ。その時はよきアドバイザーになってね」

「ええ、いいわよ。あなたもこれから獲物を捕りに行くんでしょ。その途中だものね。それじゃ久美子、行くわね」

「ええ、そうね」

彼女が離れて行った。後に残された久美子が大きく息をする。

あまり余計なことを言って、噂にでもなったら困るしな。

ほっとしていた。が、直ぐに美智子の何気なく言った言葉が蘇える。

丘の向こうの大きなしいの木の下に行けば、彼に会えるんだ…。

何時の間にか俊介のことを考えていた。

会いたい。直ぐにでも行きたい…。とせつに思った。すると再び呼び起こされるように、胸が高鳴り出していた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る