翌日から久美子は、今まで感じ得なかった何かが心の隅に生れる。それが何であるか、その時ははっきりと分からなかった。

何時ものように決められた時間に起き、そして定められた役割を、何の感情も持たずに始めようとした。が、明らかに何かが違っていた。昨日俊介に言われたことが、前にも増して頭の中にしっかりと残っていた。

以前から徐々に沸き起っていた思考という事象が、裏打ちされ確信へと変わり、それに基づき行動しようとしていた。

私の心の中に、生まれた変化の種ともいうべきもの。考えると云う新しい形。それが彼によって、閉じられていた扉を開いてくれた。その一言一言、自分のやっていることが何なのかを考える。そして次に何のために行動するのか…。また、他にいろいろなことを教わった。

確実に自身で考える力が働き出していた。俊介に話したことを思い起こし、ぼそっと呟く。

「そうだわ。そう、覚えている。この前彼に言われたこと」

更に別のことが蘇える。

父親だけではない。母親のことも。今、何処にいるのか?それも知りたい。

ただ、その他のことは余りにも多すぎたので忘れた。

それにしても、私自身何でここにいるのか?

素朴な疑問が新たに生じる。でも教育されていることもあった。我々の誕生は、男と女の結合から産まれるものだと。生まれた本人から見れば、それが親となる。すなわち、親であり母親なのだと。けれど、この巣穴社会では産まれると同時に離別し、一箇所に集められ育てられる。そして、その子供のなすべき役割が決められる。大人になってもその役割は変わらない。与えられた役目が一生続くのだと教えられた。

俊介さんから諭されるまで、それが当たり前だと考えていた。そう思っていたから、何の疑問も湧かなかった。しかし、今は明らかに違う。私の両親は、そう親の存在は如何なのかという疑問が再び湧いている。

今ではこの思考するという現象が、消すことの出来ないものとなった。

もう、今までとは違うんだ。己の考えを持たず、ただ教えられた通り行動すなんて。それでは何のために、この世に生を受けたのか分からない。もう、後戻りなど出来ない。いや、後戻りなど絶対にしたくない…。ここまできたら自分の意思で前に進みたい。

久美子はそう導いた。

昨日、あれだけ勇気づけられたんだ。最初から何でもやることは難しい。そうだ、まず今日は与えられた役割のことを考え過ごしてみよう。

心に決めた。

そのように決めると何やら期待と不安が入り交じり、胸がどきどきしてきた。それでもとにかく獲物を探しに行こうと巣穴を出た。すると不思議なものだ。何時ものように変わりなく、すれ違いざま触角で帰り来る仲間と獲物の在り処を教えて貰う。今まではそれで済んだ。何の疑問も興味も湧かずに教えられた通りに向った。

しかし今日は違う。触角で教えられたのは、ただ獲物が先にあるということだけであり、それでは納得できず直ぐに何があるか知りたくなった。そこで次に、勇気を持って尋ねる。

「ねえ、教えてくれない…。この先に行ったら何が有るのかしら?」

すると尋ねられた相手が応える。

「いや、分からん。俺は獲物があるとしか聞いていない」

久美子がさらに尋ねる。

「それであなたは、何も持たずに帰って来ているけど、如何してなのかしら?」

「ああ、行ったがなかった。だから巣穴に帰るところなんだ」

「だったら、何でこの先に獲物が有ると言うの?」

「だって、前の奴からあると聞いたから、そのように伝えるだけだ」

「それだったら、行ったけれどないと何故言わないの。これから帰り道にまた他の仲間と会うでしょ、その時そう伝えたら如何なの?」

「…」

不可解そうに久美子の顔を覗い、返事することなく無表情のままだった。

そうかも知れない、この働き蟻にはそれだけの教育しかされていないのだ。一連の行動で何ら不都合が生じるわけではない。久美子のいうこと自体が、認識できないのだ。結局、返事のないまま巣穴の方へと帰って行った。仕方なく歩き出す。次の戻り来る働き蟻と触角を合わせ、どんなものがあるのか同様に尋ねた。しかし返る答えは同じだった。また歩き出し、次の者に聞くも変わりない。すると今度は新たな疑問が湧く。

如何して皆、同じ返事しかしないんだろう…?

結局、触角で伝承し受け継いた場所には何もなかった。仕方なくそれ以上のことはせず引き返した。くる者とすれ違い、何時ものようにあそこにあると伝え巣穴へと帰る。何となく腑に落ちない。

自身で疑問に思い、何も持たずに帰ってくる者に問うているのに、いざ収穫なく帰える際、仲間にあそこに行ったが何もないと言わないのか。いや、言えなかったのは何故なのだろう?

それでも、その疑問はそれで終わった。今までは一休みして、また獲物を探しに出掛ける。何の疑問も持たず繰り返すだけだ。しかし今日は違う。草臥れたというより、がっかりしていた。少なくとも先ほど出掛け、今戻ってきた獲物探しでは何も得るものがなかったからだ。

如何してこんなことをするのか…?という矛盾が、胸の内で芽生える。

とにかく、これで終わらせるわけにはいかない。

しかし、如何にすればいいのか迷った。俊介を探すが見つからず、仕方なくまた獲物探しに出掛けた。同じようにすれ違いざま触角で情報を得て前へ進む。その際に同じ質問をしたが、返ってくる返事は同じである。次の日もその次の日も変わりなかった。

如何して皆、同じ答えしか持っていないのか。言われた通りに行って獲物が見つかればいいが、ない時に何故仲間にあそこにはないと言い改めないのだろう…?自身とて、如何してそう言わないのだ。

久美子は俊介ジレンマに陥っていた。

いくらそのように教育を受けたからとて、誤りを伝えることに疑問を持たないのか。ないところに行くこと自体、無駄な行為ではないか。それだったら違うところに探しに行く方がいい。何故そうしないのか?確かに、私だってそうかもしれない。教えられたところに行き獲物がないなら、別のところへ探しに行こうとしただろうか?…行っていないじゃないか。自分がしないことを、他人に押しつける行為が正しいのか?

矛盾が湧き出していた。己が出来ないこと、そして他の仲間が疑問に思わないこと。考えれば考えるほど複雑に絡まった糸は容易に解けずにいた。そして疑問が積もる中、朝出かける時間になったが容易に出ようとしなかった。彼と会い、この鬱積した難題を解決することが、今やらねばならぬことのように思えていた。

如何したらいいのかしら。分からない…。

そして複雑な心境のまま、再び巣穴の中で俊介を探した。こんな気持ちになるのは初めてである。今まで経験したことのない不安が胸を覆っていた。

彼に会えさえすれば、何とかなるのでは…。解決の糸口を見つけられるかもしれない。

それしか思いつかなかった。

俊介さん、何処にいるの?

不安という胸騒ぎを、懸命に抑えながら探した。食料保管係の国分や木島にも尋ねたが見つからなかった。仕方なく出口まできて、現れるのを待った。

もし、彼に会えなかったら如何しよう。会えずにいたら、この胸のもやもやを如何解決したらいいの…?

その思いだけが大きく膨らみ、久美子を覆い尽くしていた。他の解決方法を探す余裕などない。一日中おろおろするだけで、その日は結局出掛けず俊介とも会えず終わり、久美子は何ともし難くじっと待ち続けるだけだった。翌日も巣穴の前で待つ。数日待ったが、会うことが出来なかった。それからというもの、獲物を捕りにいくついでに探すが叶わず、益々落ち込み暗澹とした気持ちで、ただ混迷するばかりとなった。

「如何したらいいの…」

迷い嘆く。それから数週間が過ぎ、結局解決することなく今までのような生活に戻っていた。決められた役割、すなわち帰り来る働き蟻と触角を合わせ、相変わらず獲物の在り処を聞きその通り前へ進む。あってもなくても同じことを仲間に繰り返す。そんな今までと変わらぬことをやりながら、「それでも如何して?」という疑問が消えたわけでなく、胸の奥でわだかまりとなり燻ぶり続けていた。そして、その鬱積する行動の中で、別の思考が閃く。

待てよ。俊介さんに会えなければ、答えがみつからないの…。そうだ!仲間の幸子に問うたら如何だろう?

今までにない新しい考えが浮かんできた。

でも、幸子は同じ仕事だけど行動を伴にしているわけではない。たまにしか会えないが何とか探して確かめてみなければ、この胸のもやもやは晴れない。彼ばかり頼っていては駄目だ。

自分に言い聞かせた。

そうだ、俊介さんと幸子の二人を探せばいい。そして先に会えた方に相談してみよう。

そう思った瞬間、胸の靄月が消え明るく燃える何かが生まれていた。

はて、この温かく感じるものは何なのかしら?

この感情も、今まで味わったことのないものであり、清々しささえ感じていた。と同時に目の前がぱっと明るくなり、何とも言えない勇気が湧いてくる。

よし、もう大丈夫。俊介さん、早く私の前に現れてちょうだい。会えるのが楽しみだわ。だってもう私、怖くなんかないもん。そうだ、むしろ不安の解消を助け舟のように、頼っていたのがいけなかったんだわ。他人に依存するから不安になるし、怯えにも繋がる。失敗してもいいじゃない。己の意思で石橋を叩きながら進んでみれば。そして得た結果を、今度彼に会えるまで、どれだけ集められるか考えればいいんだ。

そうよね。その方が話すことが多くなるし楽しみだわ。

想像するだけで顔がほころんだ。

よし、それじゃ獲物を探しにいこう。いずれ会えるだろう。その時までにいろいろなことをやってみなきゃ。これから誰にでも聞こう。それも触角を合わせた時、獲物がどこにあるのか、そしてどんなものがどれだけあるかを…。

固い決意を心に描く。

何度でも聞く。抽象的でなく具体的に尋ねる。それを焦らず仲間に繰り返す。そうだ、前に俊介さんから諭されたようにやればいいんだ。そうすれば、いずれ具体的に教えてくれるようになる。私が目覚めたようにね…。同じルートで何時も会う仲間に、根気よく続けていけば必ず理解してくれる日がくる。それまで辛抱強くやってみよう。皆、私と同じなんだから!

次の日から久美子は、懸命に触角を合わせた者に聞いた。当初の頃は案の定、前と同じ反応だった。それでもめげず時雄や将隆、そして何時も会う仲間に臆することなく続けた。幾日も尋ねた。すると俊介が後押しするかのように、徐々に変化が生じてきた。まず一人、二人の働き蟻と情報交換するごとに、何があるのか分かるようになってきた。そして更に続ける。

具体的に何処にあるのかも懲りずに聞いた。こちらの方も、少しずつ教えてくれるようになった。

やっぱりそうか。私たちの社会では与えられた役割を何も考えず、ただ忠実にやればいい。それで生活は保障されるし、安寧に暮らすことが出来る。また、他のことを考えなくてもいい組織になっていたんだ。私の生まれるずっと昔から、そのように営まれてきたに過ぎない。それを仲間の皆が、何の疑いもなく忠実にやってきただけだ。けれど、このことが間違っているわけではない。間違ってはいないが、己の意思で改善しもっと良くすることは必要なことだ。そのために、皆に分かって貰いたい。

触角で伝承し反応が出てきて、自身つくづく感じていた。

やれば出来るじゃないか。私だけではなく、皆出来るんだ!

久美子は確信した。幾日が過ぎただろう。少し前まで不安でいたことが、今では嘘のように思えるし、疑問になることは解明していこうとより強く思うようになっていた。

私の両親は、何処にいるのだろうか…。

再び忘れかけていた思いが、浮かび上がってきた。

それに俊介さんは、如何しているだろうか。今の自分の変わり様や、他の仲間の変化の様子を話し聞かせたい…。

強く心の中で、そんな気持ちが湧いてきた。そんな夢膨らむ思いで、何時ものように獲物を探しに出る。何人もの仲間と触角を合わせ、具体的に会話をするまでになった。そこで今度は俊介の情報を知りたいと、すれ違う度に問いかけた。すると、直ぐに反応があった。

「丘の向こうでよく見かけるよ」

と言うものだった。そこへ行けば会える。小躍りするほど嬉しかった。と同時に、進化した仲間の情報の大切さを認識することが出来た。

「よし、会いに行こう!」

そう漏らし、走り出そうと一歩踏み出した時、前方の岩影に一瞬俊介らしき人影を見たような気がした。瞬きをする。

「久美子!」

遠方から呼ぶ声を聞いた。俊介だった。見る見る姿が大きくなり、直ぐに久美子の前に現われた。息を弾ませ走り寄ってきたのだ。

「おおっ、久美子。探したぞ!」

荒い息を整えながら、驚く彼女に一方的に告げた。

「何処にいたんだ!」

俊介の勢いに押される。

「…」

何も言うことが出来ずにいた。するとあの頃の不安が急に胸の内で膨らみ、それと比例し頼る気持ちが満ち張り詰めていた思いが揺るぎ、目前の彼が溢れ出る涙で霞んでいた。

「俊介さん…」

精一杯の思いで、感極まるように呼んだ。

それだけ言うのがやっとだった。言葉が後に続かず涙ぐむ。本当は今まであった出来事や疑問なことを、話したかったし尋ねたかった。がそれが出来なかった。恥らいつつ、そっと目頭に指をやり涙を拭い取る。

おやっと俊介は、彼女の様子がおかしいのに気づき息を詰め尋ねる。

「如何したんだ。泣いたりして、何かあったのか?」

「俊介さん!」

耐え切れず、彼の胸に飛び込んでいた。

「一体如何したんだ!」

驚き、戸惑いつつ両腕で受け止めた。俊介にとり、久美子の行為は予期せぬ出来事である。確かに、彼女とは久しく会っていない。あの時いろいろ話したことが気になっていたが、こんなに切羽詰っているとは思いもよらなかったのだ。久美子は心の支えを失ったように、抱かれたまま嗚咽を繰り返す。

「俊介さんの馬鹿、あなたを探していたのに。私、一生懸命考えたわ。あなたの言われたことを真剣にね。でも、考えれば考えるほど迷い道にはまり込んでいたの。辛かったわ…」

俊介に会えたことで、張り詰めていた緊張が緩んだのかはたまた安堵したのか、つい最近まで己の変わりようを、胸を張って話そうと意気込んていたが、そんな強い気持ちとは裏腹に弱き女になっていた。

「怖かった。それで…」

溢れる涙が止まらず。話す言葉も遮られ、途切れ途切れになりがちだった。

やっと会えた、俊介さんだもの…。

そう思うと、久美子はなお弱気になるのだった。そんな様子に俊介は、先ほどの勢いなど失せ、懸命に彼女の気持ちを心内で探ろうとした。

俺の考えを理解して貰い、伴に新しき道を切り開こううと話していたことが、こんなに辛い思いをさせていたとは。それが負担になっていたのか…。

そう憶測し、出来る限り慰めようと気遣い尋ねる。

「如何したんだ。急に泣いたりして、話してくれなきゃ分からないじゃないか」

抱きとめた手で肩を包んだ。妙な感じだった。俊介にしてみれば初めての体験である。今まで如何いう形であれ、異性に触れたことなどない。自然の成り行きでそうなったのだが、そうすることで嗚咽する彼女の胸のふくらみが、ついと己の胸に感じ取っていた。それが嗚咽する度に、ふくよかさが伝わってくる。更に、甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐった。荒い息が静まりはしたが、別の意味で胸の高鳴りへと変わっていた。

「久・美・子…」

小さく呟き、ぐっと腕に力を入れた。すると、彼女の嗚咽が急に停まる。と同時にピンと跳ねた。突然だった。俊介もそれに合わせ身体を離していた。しかし、高鳴る鼓動を静めることが出来ず、ただ唖然とするばかりだった。

「俊介さん、久しぶりね。元気でいたの?」

けろっとした顔で、何事もなかったように明るく尋ねた。そして、平常心を装うが如く振舞う。

「ところでさ、あれからいろんなことに出会ったけれど、分からないことばかりで困ったわ。でも勇気を出して言われた通り、その都度尋ねることにしたの。すると不思議なものね。最初はまるで昔の私を見ているようだったわ。だって、皆私の尋ねることに無関心なんだもの。それでも諦めず幾度も繰り返した。すると、そのうち少しずつ反応が出てきた。私だけじゃなくて、誰でもやれば出来るのよ。ただ、そのように教育されていなかっただけなのね。経験し初めて分かったわ」

食い入るように見つめ、一気呵成に話す。

「そうでしょ、俊介さん。あなたが私に教えてくれたことは、このことだったんでしょ」

久美子の問いに、上の空で頷く。

「ううん、そうだ。その通りだ…」

聞き入るものの、俊介にとって今しがた触れた温もりが、この両腕に脈々と残りそのことに気がとられていた。今までに経験したことのない異性の匂い、高鳴る胸は一向に収まる気配がない。むしろ久美子を異性として捉えた如く、心揺らぐのだった。勿論、はっきりと認識したわけではない。本能がそうさせており、俊介には初めての何とも言い難い体験だった。 

上の空の彼の様子を視て、久美子が小首を傾げる。

「俊介さん、如何かしたの。何だか、何時ものあなたと違う。何かあったの?」

問い掛けると、はにかむような仕草をし、

「いいや、別に何でもないんだ…」

曖昧に返した。すると更に訝る。

「何もなかったら、そんなおかしな素振りしなくったっていいじゃない?」

「何もないよ、別に…。何も変わってない。君が如何しているかと、少し心配していただけだ」

「ふうん、そうなの…」

「元気な君を見たら安心したよ」

俊介は己の気持ちを悟られぬように返した。すると、久美子が蒸し返えす。

「でも…。私、辛かったのよ。だって、初めの頃は分からないことばかりで、右往左往し心細くて仕方なかった。そうでしょ。あなたに言われるまで考えたことなかったし、定められたことしかやってこなかったんだもの。だから、戸惑うことばかりだった。それで、どれだけあなたを探したことか…。でも、今日会えて嬉しい。安心したわ」

「おおそうか、それはよかったな。ところで久美子、結構上手くやっているみたいだな。俺の出る幕はない感じだ」

「いいえ、そんなことないわ。今まで、それは無我夢中でやってきた。でも、私一人で出来ることじゃない気がするの。だから見つからない時、幸子を探したの。相談に乗って貰おうと思って…」

少し顔を曇らせ続ける。

「でも、幸子とは会うことが出来なかった。けれど、もういいの。こうして俊介さんに会えたんだもの…」

「それで首尾の方は如何なんだ?」

俊介は変わらぬ高鳴りを抑え尋ねた。すると待ってましたとばかりに話し出す。

「獲物の在り処やどのくらいあるのが、如何行けば獲得できるかが、やっと分かったわ。それに、それを具体的に触角で伝えて行けば、徐々に皆が反応することも分かった。これからだってもっと続ければ、今度は皆の方からいろいろ情報をくれるかも知れない。それに私の両親のことだって、同じようにやれば何処にいるか、また何をしているかも分かるに違いないと思うの…」

話しつつもしゅんとなりかけたが、気持ちを奮い立たせる。

「そうでしょ、俊介さん!一つひとつ飽きらめずにやっていけば、そのうち大きなうねりが出来るのよね。そして、意思の通い合う仲間の大きな輪が出来るんだわ。だって、私と同じように、時雄や将隆らに変化の兆しが出ているみたいだし、これで仲間が増えると更にやり甲斐が出てくるわ」

「うむ…。よくそこまで考えるようになったな。これは大したもんだ!」

目を見開き、大袈裟に褒めた。

「嫌ね。茶化さないで!」

「いいや別に、茶化しているわけじゃない。本当に感心しているんだ」

「そうならいいんだけれど、褒められると勇気が湧いてくるわ。今までの苦労がすっ飛んでいくみたい」

「ああ俺だって、頼もしいパートナーが出来て心強いよ」

別の意味も込め、彼女の顔をまじまじと見た。すると、訝しそうに振舞う。

「何よ。私をじろじろ見て。何か顔についている?」

すると、胸の内を悟られぬよう、慌てて手を振り否定する。

「いや、何でもないんだ。ただ感心しているだけだ」

それにしてもと、俊介は思う。

何だろう、この気持ちは…。

彼女を受け止めた時の胸の高まりが、妙に気になっていた。

肩を強く抱いた時、如何して嗚咽を止め急に離れたんだろうか…。

胸中で考えていた。更に、

この胸のざわめきは、果たして何なのだろう?

そう思うと余計胸騒ぎがし、鎮まりかけた高鳴りが再び激しくなるのだった。同時に久美子にしても、あの時、つい会えた悦びから思わず抱きついた。その際肩を強く抱かれて、と考える。

何か得体の知れないものが、私を包み込むような思いになり、つい怖くなって飛びのいたの。心にずきんと来た得体の知れない胸騒ぎ。それって、何なのかしら…?

身体が痺れるような、小さな衝撃となって伝わってきた。

今まで味わったことのない、力強い何かが私を包み込んできたんだわ。あまりにも突然だったから、驚いて離れてしまったの。けれどたくましい彼の力が、私の両肩に余韻として残っている…。

何とも言えない胸が苦しくなるような、言葉に表せない愛しさが久美子を包み込んでいた。それでも懸命に悟られまいと振舞うが、如何しようもなく胸が高鳴る。けれど平常心を装い、今までの出来事やそれに纏わる考え方の変化を話をしていたが、胸の奥では今一度彼の胸に飛び込みたいと思うが、とてもそうする勇気が湧いてこなかった。

何なのだろうか。この憂う気持ちは…?

そう胸の内で戸惑っていた。

久美子が心空ろう。

考えても見なかったことが、次々に新しい驚きとなりこの身に降りかかる。その都度、胸を時めかし吸収していった。何でこんなことを知らなかと、今では思える。俊介さんとの出会いが私の運命を変え、それがきっかけとなりあらゆるものに興味を持つようになった。もしあの時来諭されなければ、今の自分はないとつくづく思う。今回もまた時めいているのだ。このことが何であるか、はっきりとは分からない。が、言いようのない甘酸っぱい胸騒ぎ、そして再び求める気持ちが生じるなんて…。

久美子にとって、まったく経験のない不思議なものだった。

それはともかくとして、そんな想いを無理矢理胸に押し込め、今まで経験したことを堰を切ったように話した。いや、改革の話になるとむしろ本来の彼女に戻り、話したくてしょうがなかったのだ。頷く俊介が、満足気に告げる。

「そうだ、その調子でいいんだ。分かっただろう、今まで言っていたことが!何も考えず、ただ教えられたことに従うだけでは無駄が多いことがよ。それに俺にも経験あるが、他人に頼ろうとする気持ちだけでは容易に前には進めない。自ら打開し進む勇気が必要なことに気づかねば、とんだ回り道をしてしまう。如何せ獲物を探すなら、今までのやり方では駄目だということと、迷っても自分で考え実行してみることが大切なんだ。それによって、乗り切ることが出来ればより自信に繋がる。俺だって実際に経験して、やっと分かった。久美子、お前も疑問が湧き迷いが生じることは、それを感じているということなんだ。そう思わないか?

頷く久美子に熱弁を振るう。

「それでな、同じような考えを持つ者を仲間としてもっと増やしたい。それでお前を探していたんだ。やっと今日、会えてよかった。君の目の輝きを見れば、随分苦労しただろうが、大きく成長していると分かるよ。さっきもそうだ。会えた時の何ともいえない輝きを。だからつい君を抱き止めてしまった。びっくりしただろ、驚かしてご免な」

詫びて頭を下げた。

久美子にしても、俊介の思いと違いはない。思惑は違っても、自然に彼の胸に飛び込んだのは紛れもない事実だからだ。それ自体何の躊躇いもなかった。ただ、会えたことが嬉しくて涙が溢れたことは予定外だった。今思えば、如何して涙なんか流したのか思うが、胸の時めきは何ともいえぬ悦びだった。互いに相手を意識することは初めての経験だが、それが如何いうものかその時まだ理解できずにいた。

「久美子、如何なんだ。君が経験してきたことを、誰かに伝えないか?いや待てよ、もう仲間を増やしているのかい?」

俊介が尋ねた。すると首を振る。

「とにかくあなたに会い話すことが先だったので、そんなことはしていないわ。でも、なかなか見つからなかったから、幸子を探し話そうと思ったけれど、それもあなたに会えたのでもういいの」

「そうか、それは残念だ」

腕組みし応じた。その様子を窺い、今度は逆に尋ねる。

「それじゃ、俊介さんは如何なの?」

「俺か、俺は今積極的に進めているぞ!」

胸を張った。

「じゃあ、誰と話したの?」

更に久美子が尋ねた。

「よく聞いてくれた。以前、久美子に話してから、君の時と同様に説いている仲間が大勢いるんだ」

指で頭数を数える。

「ええと、あいつとあいつ、それに吉田、村岡と…」

「ええっ、そんなに沢山の仲間に話しているの!」

数の多さに感心する。

「まあな、でも全員が君と同じようになっているとは限らない。やっぱり育った境遇は、なかなか変えられない。でも吉田と村岡は、まあ君と比べると若干理解度は落ちるが、目が開いたみたいだよ。それに、時雄や将隆にも話しているんだ」

「ええっ、そうなの。通りで時雄や将隆のい言うことが違うと思ったわ。あなたが裏で糸を引いていたわけね」

「別にそんなことしないさ。君と同じやり方で目覚めさせているだけだよ。まあ多少、久美子より出来がいいけどな」

「何よ、その言い方。失礼ね!俊介さんったら、馬鹿にしないで欲しいわ。私だってまあまあでしょ」

「まあな」

互いに顔を見合わせ笑い出した。そして、俊介が改めて告げる。

「俺はもっと多くの仲間を作りたいんだ。だから、君もどんどん進めてくれ。後々にはこの巣穴社会全体を変えて行きたいから」

久美子には目を輝かす彼が眩しかった。というより、頼もしささえ感じていた。己の思うことや考えたことを、自分なりに方向性を定めどんどん進めてゆく。その姿に胸打つ何かが衝撃となり伝わってきた。

だからこそ、今の自分があるのだと思う。

無反応な私に、何度も話かけ導いてくれたことに今は感謝している。そして更に、新たな構想を打ち立て、推し進めようとしているではないか。その仲間にならないかと誘われた。昔の私なら、そんな話は何も考えず受け流していたに違いない。何度言われようと、何時ものように決められたことしかやらなかっただろう。それが私たちの社会では当然だったから。

次々と胸中に浮かんでくる。

おまけに、やるべき役目をしなくても、咎める者がいなかったから何も分からなかった。やるべきこと、すなわち定めだから、それで何の疑問も湧かないのが自身の常識となっていたんだ。俊介さんはその殻を破り捨てた。そして大きな夢に向かって、羽ばたく姿が輝いて見える。胸を張る姿が、何だか眩しく直視していられないほどだ。その彼に、己の将来という命の源を授けて貰ったような気がするわ。

更に思い立つ。

私だって待っていられない。彼に比べればまだまだ始めたばかりだけれど、以前に比べ百八十度生き方が変わったように思う。自分自身の行動を振り返っても、今ままでとはほんの少し変わっている。だから俊介さんに会いたい。会って自分の変わり様を話したい。

と考えていた。

「着実に進歩しているのを見て貰いたい…」

心の奥で望み、そして捜し求めた。

今日やっと叶えられた。そして誉めて貰った。更に伴に行動しようと告げられた。自分としてもこれ以上の幸せはないと思う。しかし目の前にいる彼を見ていると、あまり悦んではいられない。だって一歩二歩どころか、随分先に進んでいるんですもの。だからといって、これでいいとは思っていない。むしろ、これくらいの悦びで満足していてはいけないのだ。

背中を押されるような気がした。

よしっ、私だって負けられない。これからもっと自身で考え、これでいいと思ったら迷わず行動に移して行こう。それが、彼の恩に報いることになるから…。

心の内でつらつらと思い巡っていた。すると、

「おい、久美子。話を聞いているのか?」

俊介が肩を小突いた。ふいに我に返る。

「あっ、ご免なさい。つい余計なことを考えていたわ。余りにスケールが大きいんで圧倒され、自分が今まで何をしてきたのかとつい考え込んでしまったの。ご免なさい」

平謝りする彼女に口を尖らせるが、投げるその視線は、明らかに成長した様子を感じ取っていた。

「そんならもう一度話すから、よく聞いてくれ!」

満足気な顔で、また説明し出す。一句一句頷き、改めて夢の全貌を知ることが出来た気がした。それで、久美子は思う。

今までやってきた自分の行動に、更に何をやらねばならぬのかがそれとなく分かってきたわ。それは固定概念を打ち破り、新しい社会を築く。定められた役割に縛らてはいけないし、自由に考え行動するの。但し、勝手気ままに行うのではない。そこには必ず目的を設ける。それに皆が共鳴し、統一の目標として定める。自由に考えるということは、その目標を実現させるために、どのようにやるかということであり、自由に行動することは総意に基づき最大の成果が得られるよう行うことなの。だからそこには、自分本位になってはならないわ。結果、私たちの巣穴社会に貢献させるものとするの」

俊介が説く如く、久美子自身もそう解釈したのだ。そして二人から三人、三人から四人と理解し合える仲間を増やし、その輪を広げて行く。

そうすれば…。と、思う。

いや、無性にそうしたい。と切望した。

それが如何なるか分からないが、今までの生き方を変えることがどんなに胸膨らむものか、身をもって経験した。

これも彼が教えてくれたものだ。きっかけを与えてくれなければ、こんな経験することなく、決まった定めを疑うことなく遂行し何時かは朽ち果てる。それが当たり前としていたに違いない。思えば今まで疑わずやってきたことが、まったくナンセンスのような気持ちにすらなる。だからと言って、後ろ向きなものでは決してない。そうならないためにも、今行動しなければならないのだ!

そして更に、

私だけではない。彼は更に何かを考えているらしいけれど、私はまだそこまで届かないが、教えられたことそれに基づき知り得ることをより吸収していきたい。

硬く決意した。二人は顔を見合わせる。

「俊介さん、私やる。仲間をもっと増やすわ」

「俺だって、君には負けないくらい作るぞ」

「そうね。私も頑張るから。今日は俊介さんと会えてよかった、今までの不安が吹き飛んだみたいだわ。これから何のわだかまりもなく、行動することが出来る気がするの。今度会う時は、どれだけ仲間を増やせたか報告する。だから楽しみに待っていてね。約束よ。それにその時、あなたの成果も聞きたいわ」

「よしっ、久美子やるぞ!何だか勇気貰ったような気がするな。そうだ、こんなところでぐずぐずしていられないや。のんびりしていたら君に負けてしまうからな。久美子、頑張れよ!」

「ええ、頑張るわ。あなたもね!」

そう約束し、二人は別れた。

別れ行く二人の気持ちは同じだった。明るい未来へどのように歩むのか。そのためには今何をしなければならないか。そのことで頭の中が一杯になっていた。勿論、互いの胸に残るわだかまりは奥に仕舞い込んでのことだ。

そうだ。如何すればいいか、よく考えてみよう。久美子には負けれいられないぞ。

何やら心に響くものがあった。

こんな気持ちになったのは初めてだわ。それにしても不思議ね。私たちが変えて行くのね。私たちの巣穴も、これからどのように変っていくのかしら。

久美子にしても、考えると胸が沸き立つのだった。



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