春が過ぎ夏が来ても、俊介はひたすら働いた。すれ違う仲間に、進む道筋を触角で教えて貰い、聞き及んで獲物を探し持ち帰る。巣穴の保管場所に届けたら、また出掛けて行く。一日中何度でも繰り返す。陽が落ちるまで続け、夜になると戻り決められた場所で寝る。陽が昇ると、また探しに出掛ける。そして、すべからく同様に繰り返す。昨日と違うのは、最初に出会った仲間がどこから帰ってきたかで、行く方向が異なることだ。それにより違う場所へと歩んで行く。

幾日も働き蟻としての役割を全うしていた。

探し求め歩いていると、つい考えまいとしたことが頭に浮かんでくる。もう関係ないと打ち消そうとした。だがそれは、強引に感情を押さえ込むに過ぎない。一度火の点いた種火が、消えることなく心の底でくすぶり続けていると言うことだ。

嘘という瘡蓋で覆っているに過ぎず、考えまいと努めても何時の間にか浮かび上がってくる。行動のすべてにである。押さえ込めば込むほど、反動のように思考がそちらの方へと向いて行った。

それでも、気づくと止む無く打ち消す。そのうち抑制されたジレンマが、マグマのように湧き出してくる。それすら強引にその回路を遮断した。だがそのうち如何にもならなくなり、そんな毎日がほとほと嫌になってきた。己の考えを無視して行動することに、もはや抑え切れぬほど限界を感じていた。

とうとう俊介は、また考え出し始めていたのである。

如何すれば、今の自分に素直になれるのか。如何にしたら、この気持ちを晴れやかにすることが出来るのか…。

幾日も考えた。獲物を探す時も、持ち帰る際にも懸命に考え続けた。

すると抑えられていたものが一気に噴き出し、一直線的にのめり込んでいた。そして数日後、ついに自らの道標を導き出したのである。

二度と失敗はしない。二度と既成概念に縛られない。もっと自由に己の意思で行動してみるべきだ。

素直な気持ちだった。卑屈した感情はなかった。むしろ、妙に澄んだ気持ちになっていた。

「そうだ、他人と比べるからいけないんだ!」

小さく発した。

俊介が気づく。

それは結局、他人を頼っている証拠じゃないか。時雄や将隆に頼ることで、同調して貰おうとしているだけじゃないか。知らぬまに他人に頼ろうとする。己の考えに自信がないから、同調者を募ろうとしているだけだ。そのこと自体、自身の甘えではないか。

己の生き様や進むべき道を他人に頼る。それは単なる、主体性のない意気地なしのすることだ。ましてや、そんなやり方で同調する者など現われるわけがない。それを過信し己のことしか考えず、周りの者を説うとしていた。ついてくるわけがない。理解してくれるわけがないじゃないか。

自身を卑下するかのように結論づけた。

そんな女々しいことで、己の信念など貫けるわけがない。よしっ、これからは一切他人には頼らんぞ。

そう決めた!

心の内で力強く発した。

今度時雄に会った時は、邪推を払い語りかけようとした。時雄が如何思うと、また前と同様に無反応であっても、それは関係なかった。そう心に決めると、以前と違って晴れやかな気持ちになった。そして、何となく自信めいたものが胸の奥に根づく気がし、歩く足取りも軽やかになっていた。すると、今まで気に止めなかった行く先々の風景が、はっきりと視野に広がってくるのだった。

何時ものように獲物を探していると、必ずすれ違う仲間と触角を合わせる。その度に断念したこと、すなわち何処に獲物があるか、どれくらいあるのかを具体的に尋ねるようにした。たとえ相手の反応が鈍くても続けることに決めた。そんな心境で、また時雄に会ったら尋ねてやろうと、清々しい気持ちになっていたのである。

無関心でいる頃は、そんな欲望など起きない。意識し直した今日は違った。ことさら時雄に会おうと歩くが会えなかったのだ。すると残念と言う気持ちが湧く。その思いが不思議だった。如何してそんな気持ちになるのかと考え始めるが、その日はそれで終わった。翌日、やはり会うことはなかった。そこで、何故会えないのかと考えるようになった。おかしいという疑問が湧いてくる。すると、巣穴でも見かけないことに気づく。

そういえば誰一人として、時雄のいないことに気遣う奴はいないし、意識する者もいない。

当然の如く、そのことに誰も関心を示さない。それを考えると、我が種族は何と不思議なものだと改めて思った。

すると、次から次へと疑問が湧いてくる。時雄の親父や久美子の母親など、身近にいた者を見かけないことに気づく。勿論、俊介の親に至っても、それすら今まで考えたことがなかった。

最も身近な存在の親ですら、この社会では関心の存在とはならない。そのような関係は、この巣穴社会に生きる者らにとり、すべてが個としての関係でしかなく、親子関係や兄弟姉妹という繋がりは、まったく意識されないのだ。すなわち役目を負った者が亡くなれば、誰かがそれを引き継ぐ。居なくなっても探しはしない。居ても居なくても無反応であり無関心なのだ。今思えば、久美子の親父の時ですらそうだ。

あれはもう、二年も前の夏の盛りだった…。

振り返って思う。

俺が何時ものように、獲物を探しに出ていた時だ。蟷螂の権助が近くを横切って行ったっけ。一瞬身構え見送った。その時、久美子の親父を銜えているのを見たが、それだけだった。何の抑揚も湧かないし、仲間の危機という感情すら生じず、更に一刻も早く仲間、特に久美子へ知らせるべく取って返すこともしなかった。

己の危機が去ると、そのまま何事もなかったように帰り来る仲間から情報を貰い、目的地へと向かっていた。勿論、触角での情報交換で、今起きた事件ともいうべき事柄を知らせることなどなかったし、役割上の交換だけを行っていたに過ぎない。

これもこの社会での常識であり決まりごとなのだ。余計なことは一切行なわず、無関心でいる。行動面でもそうだし、情報交換でもそうだ。すべての者にとって、そのように教育されているのである。

今考えると、何とおかしなことか?こんなことがあっていいのか。如何して仲間同士、助け合わないのか。世の中が大きく変っていると云うのに。我らの住む環境だって激変している。こんな時こそ、互いに助け合うべきではなかろうか?

つくづく、そう思う。

そうでなければ、同じ種族の仲間とはいえない。共存共栄の巣穴社会を築く上で、一番大切なことではないのか。いくら役割が決まっているとはいえ、それが出来ていない。これでいいのか…?

そうだ。久美子に聞いてみよう。賛同してくれるかもしれない。いや、待てよ。時雄らと同じように、無反応に終わるかも知れん。まあ、それでも話してみよう。

躊躇いも生じるが、決心した。

だがしかし、また一つ疑問が湧く。

そう言えば…。仲間同志、そう、すれ違い触角を合わせた時何故挨拶をしないのか?

つぶさに感じた。

我ら社会では、仲間同士での挨拶がないじゃないか?

勿論、それすら今気づいたに過ぎない。だが、これまで自分の取ってきた行動を振り返ると、思い当たる節が幾つも浮かんできた。

そうだ、獲物を探している途中で見たんだ。他の生き物が仲間同志で、互いに出会いがしら声を掛け合っているのを。あれが挨拶というものなんだ…。それなのに俺ら仲間は、ただ機械的に教えられたことのみ伝達しているだけ。それも感情や感心を抜きにしてだ。

幾多の疑問が、興味を持った瞬間から気になるようになった。他の社会では、そんなことをするのかと。そして、そういう目で周りをよく観るにつれ、人間社会など当たり前のように行われているのに気づいた。いや、それは。人間社会だけではなかった。

あらゆる世界で行われているではないか。それでいろいろ考えた。挨拶というのは、情報交換の原点ではないのか。と。

されば我らだって、触角を合わせた際にすればいいんだ。

そんな結論を改めて出した。そして挫折した時のことを思い起す。

あの時は、確かに失敗した。一番いけないかったのは、己の意思に沿わぬと簡単に結論付け、止めてしまったことだ。ならば、同じ過ちを繰り返さぬには、如何したらいい。如何すれば上手く行くのか。いや、同調して貰えるのか…?

思い悩んだ末、一つの結論を導く。これを久美子に確かめようとした。

とにかく会って尋ねてみよう。彼女も同じ働き蟻だ。話してみる価値はあろう。

そう思い、巣穴から外界へと探し回った。なかなか出会えなかったが、狩りの途中でやっと見つけた。けれど、俺が探したからといって、彼女が感心を示すわけではない。互いに触角を合わせ、行こうとしたところで俊介が声を掛ける。

「ちょっと待ってくれ!」

声掛けられた久美子は、無反応のまま立ち去ろうとした。それではいけないと、追いかけ前に出た。それでも避けて行うとする。それはならじと行く手を塞いだ。すると立ち止まり俺を見た。訝しげな顔をする。

「…」

緊張気味に告げる。

「久美子、ちょっと話しがあるんだ」

突然の呼び止めに目を丸くする。

今まで、このようにされたことがない。真剣な眼差しで話をしたいと言うが、意味が分からない。如何してそんなことをするのか?と。

行く手を塞がれ、立ち止まっていた。俊介が真顔で問う。

「久美子、呼び止めていることが分かるか?」

そう唐突に尋ねられても、如何いうことなのか分からない。

「…」

分かるはずもない。今まで問われもしないし、行く手を塞がれるのも初めてなのだ。戸惑う様子に俊介はただ止めるだけでなく、思い直し推測する。

そうか、こんな風に呼び止められたことがないんだ。初めての経験だから戸惑っているのだろう。そうだ、久美子は今まで考えることすらないんだ。急に立ち塞がれ行く先を阻まれれば、何とも不思議に思うよな。だから、返事のしようがない。それならば、一から始めればいい。最初のうちは戸惑うだろうが、何度も繰り返せば徐々に理解してくれるだろう…。

そう思った。そして告げる。

「久美子、俺の言うことをよく聞きけ。それで、何を言っているか考えろ。いや、今すぐでなくてもいい。まずは、如何いうことなのか理解することから始めてみろ。お前は、何故獲物を取りに行くのか。また、すれ違う仲間と如何して触角を合わせ情報を貰うのかをだ!」

告げられるまま受け流し、抑揚のない目で視ていた。その様を覗い更に促す。

「久美子、心配するな。何もしない。始めて唐突ことを言われ、驚いているだろうが安心しろ。俺が何故こんなことをしているのか、今は分からないだろうが、毎日行っていることに、少しでも興味を持つことが出来たら、考え方ががらりと変わる」

「なあ、そう思わないか…」

「…」

久美子は訳けが分からず、ただ黙っていた。それでも俊介が、懸命に何かを訴えていることは肌で感じた。

「勿論、急ぐ必要はない。今言ったことは、君にとって唐突なことかもしれない。そりゃそうだよな。こんなこと初めてだもんな。そうだよ、当然だ。俺だって、最近までお前と同じだった。戸惑うのも無理はない。何がなんだか分からないのも当たり前だ」

「…」

それでも久美子は理解しようとせず、いや、出来なかったのかもしれない。ただ、ぽかんとする彼女を観てそれはそうだと思った。急に何の前触れもなく理解しろと言われても、立場を変えたらそれは無理な話だ。仕方なく言う。

「お前は、今迄だって今だって、それにこれからもずっと同じことをしている。朝起きたら何も考えず、決められた役割に従い獲物を探しに行くだろう。そして、仲間と擦れ違う度に獲物の在り処を尋ねるだろう。それで教えられた通りに行くだけだ。そこへ辿り着き獲物がなくても、疑問を抱かずそのまま帰るだろう。もしあれば、持って帰るに過ぎない。そうだよな。分かるか久美子!」

俊介が念押しすると、戸惑いつつ応える。

「…ええ、毎日そうしているわ。それが如何かしたの?それだけのことだわ。それが私に与えられた役割だし、今までずっと続けてきたことだもの」

すると、久美子の抑揚のなさに反論する。

「お前、何も感じないか。嫌になったりしないか?毎日同じことの繰り返しで、嫌になったりしないか!」

「別にそんなこと考えないわ。だって、今までそうしているもの。それに、私そのように役割が決まっているから…」

するとそこで、俊介が説教気味に促す。

「それだったら、考えてみろよ!」

「いいえ、何もそんなことすることない。今まで考えたことないんですもの…」

言葉を濁し俯いた。

「待てよ、だったら考えてみろと言いたいんだ!」

俊介が身を乗り出す。

「ほんの少しでいいからさ。多くは望まない。少しでいいんだ。例えばお前の親のこととか、自分の役割だとかさ?」

「…」

一方的な問いに、戸惑うばかりだった。

「よしっ!それなら一つだけ頼みがある。毎日獲物を探しに出掛けるよな」

「ええ、何時もそうにしているわ。私の役目だもの」

ようやくまともな返事をする。

「そうか、それならそこで何を探してきたか、俺に教えてくれないか?言っていることが分かるだろ?」

「ええ、それなら分かるわ。有った時に持って帰るから」

「うん、それでいい。これから毎日、持ち帰るものを教えて欲しいんだ」

「ふうん。分かったわ。持って帰った物を、伝えればいいのね」

すると、久美子の応えに納得する。

「そうだ。それでいい。まずは、そこから始めよう。最初はそこからだ」

そう言い、落ち着きを取り戻し改めて彼女に向かう。

「約束だぞ、守れるか?」

「うん…」

生返事をするも、理解しかねていた。

「とにかく、今日から始めよう」と告げ、塞いでいた道を開けると、途端に何事もなかったように歩き出していた。そんな素振りを見て、心もとなかった。本当に久美子が、約束したことを守ってくれるのかと心配しながら周りを見渡す。

「おっといけねえ。俺だって、獲物を探しに行かなきゃならないんだ」

改めて別の方向へと歩んでいた。俊介は行きすがら、何時ものように帰り来る仲間と触角を合わせ、行き先を探り出しそちらの方向へと向う。

「大分来たな。聞いた情報によれば、この辺りにあるはずだが…」

呟き周りを見渡すが、それらしきものはない。今までならこのまま疑問も抱かず帰路に着き、巣穴に戻り再び探しに出掛ける。それを何も考えず繰り返す。でも、今日は違った。胸を張って前方を窺い輝く瞳で行く先を見定める。

よしっ、この先へ行ってみよう。何かが有るかも知れない!

強く決意した。

今までにないことだし、考えられない行動である。己が続けてきた行いを打ち破ること。すなわち、与えられた役割を今越えようとしている。何千、いや何十万年もの間、この巣穴社会の仲間が続けてきたことを止め新たな行動を始めるのだ。

俊介にしてみれば一大決心となるし、勇気ある行動となる。けれど、そのことが切羽詰って起きたことではなく、むしろ必然的に湧き上がり自然な成り行きとして生じたに過ぎない。何も驚くべきことではなかった。自身が外界の他の生き物たちの行動を観て、決まった行動しかしていない我らの生き様に、少しばかり疑問を持ったことから生じたことだ。当然の結果であった。俊介は思う。

そうすれば、未知の世界を知ることが出来るではないか…。

暫らくその場に立ち止まるが、大きく深呼吸をし腹に力を込め気合を入れる。

「よしっ!」

そしてゆっくりと、一歩前へ踏み出した。

かくたる情報もなく、自らの意思で歩み出す。この行為が既存巣穴社会から脱皮の第一歩になろうとは、彼自身分かっていなかった。仲間の力を借りずに前へ進む。何の道標もなく獲物を探して歩く。今までと大きな違いは、歴然としている。自らの考えで、そして意思で行動することは絶対ないことだったからだ。

誰も試みたことのないことを始めているんだ。それがいいことか、あるいは間違っていることなのか。それは、分からない。けれど自分で決めたことだ。結果が如何なろうと悔いはない。

とにかく懸命に歩いた。すると、いろいろなものが見えてきた。

こんな素晴らしいものだとは思わなかった。如何してもっと早く気づかなかったんだ。もっと早く行動していれば、更に多くを知り得たのに…。

そう思うと、胸が躍り悔しさが滲み出ていた。それでも気持ちが明るくなり、足取りも軽くなっていた。

一度殻を破り歩み始めると、行動が明らかに違いを見せてくる。

よし、これからもっといろんなところへ行ってみよう。

それからというもの、巣穴を出た時から仲間を頼らず行動し、獲物を探すようになった。

一人歩きに慣れてくると、知らぬまに行動も大胆となり、遠くへと足を延ばすようになる。それでも満足せず、更により遠くへと向う。

「おお、見つけた。人間が残した食い物を発見したぞ!」

嬉しさのあまり、手を挙げて喜んだ。

「やったぞ。とうとう俺は自分の意思で行動し、獲物を捜すことが出来たんだ!」

俊介は声を張り上げ悦びを表わした。口一杯に銜え、もと来た道を戻りだす。一刻も早く巣穴に戻って、このことを仲間に知らせねばと急いだ。しかし歩けど、誰一人としてすれ違わない。

おや、おかしいな?

不思議に思ったが、直ぐに解ける。

そうだ。そうだったんだ。悦びが先立ち、ついと忘れていた。今、俺は巣穴社会の常識を打ち破ったばかりじゃないか。誰とも出会わない俺自身で選んだ道を歩いてきたばかりなんだ。

それに気づき、苦笑する。

とにかく早く持ち帰ろう。帰って久美子に伝え、時雄や将隆にも話してやろう。

そう思うと心が騒いだ。

そのうち彼らだって、俺のやっていることに興味を持つに違いない。それに久美子とも約束したんだ。早く帰り話を聞かなければ…。

更に思いを膨らませ、浮き立つ気持ちが湧いていた。

そんな面持ちで巣穴に戻り会う者に伝えたが、話を聞こうとする者はいず、また感心を示す者もいなかった。期待を裏切られたような心持ちになるが、己の思いだけが先走っていることに気つき、仕方がないと思った。結局、時雄や将隆とて前と同じだった。そしてやっと久美子を見つけるが、まったく素知らぬ顔をする。

「やあ、久美子。この前、約束したことは如何した?」

尋ねたが、無反応だった。まったく約束を忘れていた。と言うより、俊介と別れた瞬間から完全に頭から消し去られていたのだ。これもやはり初めての試みゆえ、仕方がないと思い直す。

一度くらいの失敗で、諦めることはもうしない。それで止めては始まらん。今日が駄目なら、また明日出掛ける前に約束すればいい。俺だって、今度は違う獲物探しの冒険をしてみる。そして新しい発見を話してやるんだ。

二度や三度の失敗がなんだ!こんなものでへこたれんぞ。彼女が己の意思で話してくれるまで、何度でも問いかけてやる。

静かな闘志と共に固く心に誓った。

それからというもの、来る日も来るも根気よく久美子に接した。それが何ヶ月も続いた。夏が過ぎた頃、少し変化が生じてくる。

彼女が俺を待っていたんだ。

何時ものように巣穴を出て、獲物を捕り銜え戻ってきた時だった。俺を見つけるなり、急ぎ足で近づき尋ねる。

「私にも出来るの…?」

俺のことなどお構えなしに、真顔で尋ねてきたんだ。それを耳にした時、最初はぴんと来なかったが直ぐに気づいた。

「ああっ、お、お前だって出来るさ。この俺が出来るんだから!」

驚きと嬉しさが混じり、夢中で同調した。その言葉を聞き、不安気な顔を崩し詰め寄ってきた。

「それだったら私に教えて、知りたいの如何しても…」

「ああ、何でも教えてやるよ。話してごらん。一体何が知りたいんだ?」

「如何して、私の父親がいなくなってしまったの?」

「何、お前の父親のこと…。それは俺にも分からん。けど、今は分からないが何時しか分かる時が来る。そうなるためにも一緒に調べようじゃないか」

俊介は過去の記憶を忘れていた。そう、彼女の父親が権助に食われてしまったことを。俊介は見ていたはずだ。蟷螂の権助に銜えられて行くところを。でも、瞬時に思い出せなかった。

「ええ、そうね。それじゃ、如何すればいい?」

「そうだな、まずは仲間に聞いてみよう。そうすれば、何か糸口が掴めるかも知れないから」

久美子の素朴な疑問から派生して、二人の会話は終わりを告げることなく、いろいろな話題へと及んでいた。

彼女にとって、今まで肉親のことなど何の関心も持たなかった。そんな中初めて生じた疑問が、父親のことだった。それはそれでもよかった。一つのことに疑問を持つと、必ず連鎖がある。母親のこと兄弟のことなど、今まで知ろうとしなかったことに次々と思いを馳せてくるのだ。案の定彼女の考えや行動の中で、水面に小石を投じた如く次々と疑問の輪が広がっていた。

俊介の懸命な努力の末、久美子の胸にいつしか彼が抱いたような疑問の輪が生まれ始めたのだ。それは積み重ねた彼女に対する洗脳と言う呼び水により、生じたと言っても過言ではない。ただ、潜在的な要素があればこそ、彼の行動と教育がもたらしたものである。

久美子にしても不思議でならなかった。それは生まれてこの方疑問を持たないことが当たり前だったし、そのように過ごしてきた。それ自体、この巣穴全体が同じなのだ。その中で俊介の熱心な説得に、何時の間にか自ら考えるようになっていた。

最初は怖かった。でも、一心不乱な俊介の積極的且つ大胆な行動を目の辺りにしているうち感化され、徐々に考えるという行動が芽生えてきたことは間違いない。それ故、一つ疑問が生じると、泉の如く次々に興味が湧き起こる。

「俊介さん、如何してなの。如何して、私にいろんなことを話し聞かせるの?」

俊介にしてみれば、彼女の質問がまるで己が辿った道を水面に映すようなものである。

「それはな、自分の可能性を確かめてみたいだけなんだ。お前が抱いた疑問を追及するように自分で考え、それに基づき行動する。そして今、俺らが毎日やっている獲物探しも同じだ。ただ、帰り来る仲間に教えて貰った通り進むのではなく、自分で道を選び、自らの力で獲物を獲得する。勿論、その成果を己のものだけにする必要はないんだ。誰かに分けてあげたい。そうだろう。俺らは毎日獲物を探し、捕らえては巣穴へと持ち帰る。これが俺らに与えられた役割だからだ。けどな、如何してそんなことをするのか、知りたくないか?」

疑問を呈するように語りかけていた。そして続ける。

「その理由が分かれば、自分の役割に誇りが持てるだろう。さすれば、より多くの獲物を持ち帰えろうと、さらに努力するに違いない。こういうことを、たった一人のものとせず、皆で分かち合えたらもっと楽しくなるんじゃないか。もっと多くの獲物を持ち帰えろうとするんじゃないか。久美子、お前がさっき疑問を投げようと待っていたことは、君にとってとても意義のあることなんだ」

俊介の期待が大きかっただけに、彼女の行動に胸熱くしていた。

「今迄の固定概念の殻を破る第一歩となるんだからな。そして、父親のことまで考えが及んでいることは、久美子自身にとって大きな成長なんだ」

感慨深げに褒めた。すると彼女は、語るすべてを吸収しようと身を乗り出す。

「それで私、父親のことがまるで記憶にないの。でも、あなたからいろいろ聞かされているうち何処に居るのかと気になりだし、それで会うことが出来ないかと考えるようになったわ」

真剣な眼差しで告げた。すると俊介が真顔で応じる。

「確かにお前の父親は、久しく見ていない…」

思い起こせないが、胸に引っかかるものを感じていた。

「そうさ、今まで俺自身、自分の親ですら感心がなかったからな。久美子だって、そりゃ知りたいよな。その気持ち分かるよ」

「だから問われ、君の親父が居なくなっていることを、改めて認識したんだ。それが現実だ。じつは俺だって親のこと、まったく知らないんだ。君と同じだよ」

「俊介さん、そうだったの…。あなたも分からないのね。親のことは私だって一番知りたいことよ」

「そうだな。それなら二人して力を合わせ探そうじゃないか」

「うん」

久美子は力強く頷いた。

その輝く瞳で話す姿を見ていると、身体の芯から勇気が湧いてくる。

「これほどまでに、自分の力で考えるようになったなんて。待ち続けた甲斐があった。いずれこうなると信じていたが…」

今まで味わったことのない悦びが湧いて来た。そして、それを噛み締め誓う。

「よしっ、これから一緒に行動しよう。伴に新しいことに挑戦しよう。それも互いに確認し合って、分からないことは話し合い納得しながら行動するんだ。いいな久美子!」

「ええ、分かったわ!でも、少々不安になるな。ちょっとばかり怖いわ…」

憂う久美子に檄を飛ばす。

「何を言っている。不安になるのは誰だって同じだ。俺だって時々そんな気持ちになる。だから多くの仲間が必要なんだ。その一人が君じゃないか」

「そう、あなたもそういう気持ちになるんだ。だったら、私にも出来そうね。何だか勇気が出てきたような気がする。でも私、まだ駆け出しだからあなたがそう言ってくれると心強いわ。だって一人でなんかとても怖くて、直ぐに挫折するような気がするんですもの。俊介さん、宜しくね」

「おおっ、分かった。任せておけよ。久美子…」

そう告げながら、少々マジ顔になる。

「あのな、じつを言うと。俺も今まで一人でやっていたから心細かったんだ。君という相棒が出来て勇気百倍だよ」

「何だ、そうだったの。あなたでも、弱気の虫が起きるのね」

納得し笑みを浮かべた。そして、改めて言う。

「それなら安心した。だって最初は気に止めなかったけれど、俊介さんったら毎日話かけてくるんですもの。そのうち怖くなってきたわ。私のこと如何かしようとしているのかと考えたりして。それからだわ。何時も考えないのに、何でこんな気持ちになったのか、頭の中で芽生えてきたの。それから少しずつ考えるようになった」

少し前の出来事を思い起こす。

「そしてあなたのことを、じっと観察しだしたの。それからだわ。親のことも兄弟のことも、そして今の役割のことも。すると次から次へと知りたいことが湧いてきた。それで無性に知りたくなり、如何しようもなくなってきたんだわ。とても不思議な心持ちがして、如何してなのかあなたに聞きたくなったの」

言い終わると、俊介を凝視した。その目は、まるで海綿が水を含んだように瑞々しく潤んでいた。



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