第一章目覚め


幾千年の時を経て来たのだろう。その営みは、何万年前の太古から変わることなく続けられてきた。いや、もっととてつもない長き刻からかも知れない。

その生き様。

一つの巣穴には、女王蟻を中心に五百匹から六百匹の蟻たちが各々役割を持ち、それを従順に守り整然と集団生活している。その生態が本能によるのか、優れた知恵によるものなのかは定かでない。そして、与えられた役割を破るものはいない。

風雪の変化や地殻の変動に打ち勝ち、なおも子孫繁栄と未来永劫の種族保存のため、我ら蟻一族は強靭な生命力の中に、長きに渡りその生き様を宿し続けてきた。

が…。

ある時、一匹の働き蟻にほんの小さな変化が生じる。その営みに疑問を持ち異を唱え出したのだ。

如何して、こんな気持ちになったのか。今まで一度もこんな風に、考えたこともなかったのに…。何故、こうなったのか分からない。分からぬが、気づいた時には疑問を抱くようになっていた。

その働き蟻は、不可解なことに目覚める。

毎日、定められた役割を守る。とにかく、今までは続けてきた。嫌になるとか嫌いになるとか、そのように考えることなく役割をこなす生活を送ってきた。ある時から胸の内で引っかかりが生じた。勿論、直ぐにそうなったわけではない。そんな気持ちになったのは、累々とした生活を重ねてきて、徐々に鬱積してきたことだ。

同じことを繰り返す。

物心ついた時から定められた仕事に従事してきた。何の変化も求めず、ただひたすら朝から日が落ちるまで獲物を探しに出掛ける。そんな何の変哲もない生活が、ふとしたきっかけで引っ掛かるようになった。

このまま俺の一生が、平凡に終わってしまうのか?本当に、これでいいのか。大事な役目だとは分かっている。けれど、このまま何の変化も求めず、ひたすら続けていていいものなのか…?

一度考え出すと、ふつふつと湧き出る泉の如く、現状に疑念が生じだす。

果たして、こんな生き様でいいのだろうか。俺自身の生き方、そして我ら一族の在り方に、もっと良い営みがあるのではないか。既成概念を打ち破り、違った生き様があるのではなかろうか…?

小波の如く押し寄せてきた。

今まで考えたこともなく、ことさら疑問に思うこともなかった。各自が定められた生き方の中、触角で知り得るもので何の疑問もなく過ごしていた。むしろそれが当たり前たった。今でも大方の者が、現状の生き方に不満を持たない。巣穴では整然と秩序が保たれ営々と営まれている。我らの営みは地下の生活だけではない。温かい季節になれば思う存分外界に出て謳歌する。勿論、それは自由意思によるのではなく、「定められた役割に基づいて」と言うことになるのだが。

それは、日々消費する仲間の食糧確保と、越冬用の食糧備蓄という目的を持っている。

裏を返せば、温かい季節にそれをやり遂げなければ、我ら一族の生命を維持することが出来ない。そのため食料となる獲物を求めて働き蟻たちは、巣穴から何百メートルもの先まで出かけて行く。時として、一日では帰れず野宿することもあった。それとて、決してあてもなく動き回るのではない。決められた領域内で探し回り、同じ巣穴の仲間と、常に触角で確認し行動しているのである。

しかしそれは、一つのルール、すなわち定めに基づくものであり、決して踏み外すことのない鉄則でもあった。この巣穴社会では、生まれた時から役割が決められている。それが我ら社会の役割を担い、巣穴社会全体の秩序を保っているのだ。従って、生命を授けられた時から与えられる役割に従うよう育てられ、一つの歯車として生きて行く。

それは、己ひとりではない。すべての蟻たちが、同じように整然と従う。勿論、造反は前提になく、そうする者はいない。それが巣穴社会の掟であり、絶対に守らなければならないものだった。何百年、いや、何千年もの間ずっと守られてきた規律であり、幾代にも渡り受け継がれて来たことなのである。もしかすると、我ら一族の世界では、遥か昔から、おそらく何千万年と、そのように営々と築かれてきたのではなかろうか。いずれせよ、蟻一族にとって定められた決まりの中で、素直に従えば安住した生活がおくれる。いや、それが当たり前であり、それ以外考えること自体ナンセンスとなりその必要もない。さすれば、何の疑問も湧かないのだ。それでいい、何故ならこの社会では、今でも皆が何の疑問も持たず平然と暮らしているからだ。

幾日も、幾年も、命尽きるまで時間に乗って生きる。

俺らのような働き蟻は、朝日が昇るのと同時に起き、決められた役割をこなすため、朝飯もそこそこに巣穴から出て餌を探し求める。乗り物などない。どこへ行くにも歩きだ。でも、あてなく歩かないのが救いとなる。何故なら、巣穴を出る時間が決められているからだ。そう、この巣穴社会では、各人が定められた時間によって行動する。俺が出発する頃には、別の働き蟻が足跡を残している。それを嗅ぎわけ道標として歩んでいけばいい。すると先発の帰り来る者に出会わす、触角で仲間か確認し、更に餌の在り処を教えて貰うのだ。それでその通りに進んで行く。するとまた戻り来る仲間と出会う。同様に触角を合わせ先へと歩む。教え続けられ目的地に着き餌を探すが、大抵の場合無くなっていることが多い。

そんな時は如何するか。

他生物の世界でば別のところへ行き、自ら獲物を探すだろう。本来そうするが我々は違う、そのような教育は受けていない。確認した場所になければ、来た道を帰るだけだ。帰り仲間とすれ違った時は、やはり教えられた通りの在り処を伝える。行ったけれど無いとは伝えない。それでいい。それ以上の判断をする必要がない。そのように教育されているからだ。教えられた仲間が徒労に終わることなど、考える必要がない。だから疑問が湧かない。

至極当然の如く考える。

結果、俺にとり収穫がなく戻っても、問い詰められず咎められもしない。だから嫌にならないし、さぼる気持ちも湧いてこない。傍から見れば、何とおかしな社会だと思われるだろう。そして、気軽な社会だと思うかもしれないが、俺らにはそれが当然と身体に染みついている。だから何の疑問も生じない。たとえ仲間が同じ結果であろうと、不満などない。

従って、俺らの巣穴社会が如何なのか考えもしないし、知ろうとする興味すら湧かない。確かに地下の住居地は、一人で暮らしているわけでなく沢山の仲間がいる。俺以外の仲間もいろいろ役目を担っており、それを一生涯続ける。個々決まった仕事をやるだけで、互いに干渉し合うことはない。

それが我々蟻一族の社会で、厳格なルールとなっている。絶対従順の決めごと、すなわち掟となる。だから、己の生き様を問うことはない。ましてや、仲間を疑うことなど毛頭ないのだ。

定められた役割をやらぬ者など、誰一人としていない。それは、そのように教育されているからだ。選択技など皆無だ。すべての蟻たちがそれに従う。

我々の巣穴世界では先祖代々そのように営まれてきた。何百年、いや何千年あるいは何百万年の歳月の中で培われ、守られてきた掟は栄々と生き続けている。仲間とは個の世界であり、親子、兄弟、親戚という関係はない。役割の定められた個として認識され、他の関係は一切無にされる。

この世に生を受けた時からである。これに何の疑問も不満も湧かない。それでも長い年月で、異を唱える者が出るのではと疑問に思うが、今だにそんな奴は現れたことがなかった。何千万年の歴史の中で…。

そして己自身を思う。

俺自身、今まで毎日如何してこんなことをしているのかと、考えたことなど一度もなかった。今、考えてみれば不可思議なことだと思う。日々の行いに何ら疑問を持たず、せっせと同じことを繰り返す。辛いとか飽きたとか、もしくは楽しいという抑揚すら持たず。そのことに何ら抵抗がなかったのだ。それは俺だけではない。皆、同じだ。そもそも他人のことなど考えたことがない。それが、たとえ仲間であってもだ。仲間のやることに、要求することなど生まれない。仲間すべてが満足しているか定かでないが、教えられたことを、ただ行なうだけのものなのだ。

我ら社会ではそれが常識だから、何の争いも起きない。他人が羨ましいなどと考えないのだ。勿論、他の世界を見る機会はいくらでもある。何せ、俺の役割は食料となる餌を集めることだからだ。その役割を全うするには、外界へと出て行かなければならない。それもかなり離れたところまで遠征する。いろいろなものに出会う。その分、自分らとは違った世界を知る機会が多分にある。時には生命さえ危険に晒されることも。獲物を奪い合うことだって幾多ある。外敵に獲物を狙われ、横取りされることだって数え切れない。その度、必死に抵抗したこともあるし、逆に命を脅かされ奪われたこともあった。

勿論、なかには命を落とす奴もいる。悲しんでいる暇はない。というか、そのような感情が生じない。己に累が及ばなければ素通りする。すなわち助け合ったり、また、恐怖心、悲しみという感情を持つことがない。それも我ら社会の教育だからだ。傍から見ればそんな理不尽は通らないが、現実はそれが当たり前なのだ。

その故、他社会の者が襲われるところを、その仲間が助け撃退している様を幾度となく見る機会があったが、我らは何の反応も示さず通り過ぎていた。だがしかし、その有様を見て最近はしっくり行かなくなってきた。

 さらに現実を憂える。

もし俺が外敵に襲われたら、今の我ら社会では誰も助けはしないだろう。そのまま命を落とし、この世から亡くなる。それで、悲しむ者はいないのだ。仲間が死のうと悲しむ感情は持たないし、他人が死ぬこと自体関係ないことなのだ。従って、仲間が外敵に襲われ食われても、我が社会では誰も関心を示さないことになる。

そして、そんなことが俺自身、納得出来るのか。と考え始めていた。

それも、つい最近からだ。今まで、そんなこと考えもしないし、疑問などわか湧かなかった。何故こんな気持ちになったのか…。

最初、ほんの少しの気持ちの揺れを感じ、次第にはっきりと意識し出すとじくじくたる思いが湧き上がった。何とも言えない、胸につっかえるような重石が気になり、憂鬱な気分にさせていた。毎日の生活の中で組織の歯車となり獲物を求め、決まった方法で決まったように行動する。成果があろうとなかろうと同じことを繰り返す。一年が終わればまた一年と、同じことを繰り返す。何にも変わらず、ただひたすら繰り返す。命果てるまで与えられた役割をこなし続ける。

他の種族にあって、我が種族に何故ないのだろうか。仲間とは一体何なのか。種族繁栄とはどのようなものなのか…?

我ら種族は巣穴社会を形成し、各自が定められた役割を担い見事に営まれており、大いに自負しているが、その中で仲間が外敵に襲われた時、如何して見過ごすのだろうか?そんな時、仲間同士で何故助け合わないのか…?

このように考え出すと、次ぎから次へと疑問が湧いてくるようになった。すると仲間のことが気になりだし、更に親兄弟のことも考えずにいられなくなった。するとそれこそ、湖面に一石投じたように思考の輪が広がって行き、仲間の存在感がしみじみと分かってきたのだ。

俺一人で生きていないし、生きては行けないんだ。それを可能にしているのは、仲間同士の繋がりではないのかと。そして更に、外界の生き物たちの生き様に触発され、今までにない局面を考えるようになっていた。

俺は見てきたんだ。獲物を探しているうちに、俺の知らないこと教育されなかったことが、洪水のように目に飛び込んできた。そのうち、自分たちの生き様との違いが鮮明になってきたんだ。どの世界でも、子供を育てるのに親が餌を与える。子供が大きくなり、親が年老いてきたら子供、すなわち俺らが代わって餌を確保しなければならない。もし、兄弟が外敵に狙われたら、仲間同士で防衛せねばならない。

そう考えていくうちに、何の抑揚もなかった気持ちに血が通い始めていた。すると同時に、喜怒哀楽が俊介の身体の中で湧き上ってきたのだ。

こうなると、生きることについても考え始める。辛いことにあえば、その壁を破って前進し、克服した時の充実感を味わう。悲しみだって放っておけない。仲間にだってそうだ。巣穴の皆が、平等でなければならないことに気づくと、更に勇気が湧いてくる。すると周りがよく見えてきて意欲が出てくるのだ。

今思えば、時期は定かでないが、こんな風に考えるようになっていたのは、紛れもないことだった。

すると、己のやることに疑問が生じてきた。生まれ落ち物心ついた時には、すでに役割が決まっている。その時はそれが当たり前と思い、与えられた役割をずっとやってきた。勿論、今でも続けている。働き蟻として生を受けた以上、懸命に働く。このこと事態に不満があるわけではないが、疑問が生じると他のことも知りたいという衝動が働きだす。何故他の役割か出来ないのかと。すると心が揺れ、平常心ではいられなくなるのだ。

如何して俺が、このことだけをやらねばならないのだろうか?来る日も来る日も、汗水垂らして歩き回る。どんな苦労をしたって、どんな危ない目に合おうと、処遇が同じとはおかしいではないか。果たしてそれでいいのか…?

そこまで考え出すと、今まで何となく胸の内でもやもやしていたものが、一気に吹き出してきた。すると屈折した心も芽生える。

だって、そうだろう。奴らなんか、如何なんだ。生まれが違うだけで、たったそれだけで、俺と違うのは何故なんだ。彼らは何時も巣穴の中にいて安寧に暮らしているが、俺など何時外敵に狙われるか分からない。命にかかわることなれば、こんな不公平はないではないか。

幾日も悩み続けた。何故ならば、今までそんなこと考えてもみなかったからだ。如何したらいいのか分からなかった。それでも、己の中に芽吹き始めたことに、目の前が開ける思いでいた。

周りを見ればいろいろあるが、とにかくこれでいいんだ!もし、このまま何も考えず掟のままに生きていたら、何も変らないではないか。それこそ、如何なるだろうか…?

そこまで考え、はたと気づく。

そうか、今まで通りであれば、そういう疑問すら浮かばなかったんだ!

すると、目の前が明るくなるのと同時に、何か無性に寂しい気持ちが駆け巡っていた。今までの自分が、何であったのか…。そうだ、焦る必要はない。とりあえず決められた道を歩こう。そして、少しだけ冒険をしてみよう。ついでに他の世界も覗いてみよう。そうすれば、これから如何したらいいか浮かぶかもしれない。と、俺すなわち俊介は、手足の先が熱くなり心が疼いてくるのだった。

何だろう、この感じは…。今まで味わったことのない、腹の底から力が湧き上がってくる。よしっ、今日は是が非でも獲物を探するぞ。まずは在り処を教えて貰う際、何処にあるのか。そしてどのくらいあるかを、触角を合わせた時に問うてやろう。皆、驚くだろうな。

反面不安になる。

いや、そうか。何も考えていない者には、関係ないことか。でも俺にとっては重要なことなんだ。それじゃ手本になるよう、時雄や将隆よりも獲物を集めてこよう。必ず負かしてやる。あいつらは何も考えず、俺の勝ち誇った雄叫びを聞くだろう。始めは、おそらく何の反応も示さないだろうがそれでいい。何かを始めることが重要なんだ。

腹に力を入れ頷く。

まずは自分で決めたことを実行し、今までとの違いを示せればいい。更に勝ればそれに越したことがない。そうすれば彼らに違いを見せられる。そして自ら掲げた目的をやり遂げることが出来るから。

しかし、仲間のことが気にかかる。

如何だろう、時雄らにしてみれば奇怪なものに映るだろう。それはそうだ。俺だって、今までのように何の疑問も持たずこんなことをされれば、何をやっているのか理解できないだろう。だから最初は無視されてもいい。何度でも同じことを試みてやる。そうすれば、そのうち目覚めてくれるに違いない。俺と同じようにな。そのために、何度でもチャレンジする。そして負かしてやるんだ。そうなったら一歩前進だ。そうやって実現していけば、何かが必ず見えてくるに違いない。

「よしっ!」

一声を発し、俊介は触角をしごき、高揚し赤らみ始めた顔を両手でばしばしと叩いていた。




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