Act.5 Deterrence ―抑止力―




 受付嬢へ身分証を突きつけ、許可を待たず局長室へと足を向ける。

 ミラージュの怒りは頂点に達していた。

 企業規模の差や尻の大きさなど些末なこと。大切な社員が負傷した。これほど憤怒に塗れる理由があるだろうか。


 背後から「お待ちください、局長は来客中です!」という受付嬢の焦った声が聞こえたが、無視をした。ついさっき「今からそちらに向かいます」と一方的なアポイントは取ったのだ。

 取り押さえようとする守衛たちをひらりひらりと踊るようにかわしながら、ひどく長く感じる廊下を進む。


 そしてミラージュは仰々しい木製扉の前に立ち、ノックもせずに中へ押し入った。


「何事だ、騒々しい」


 局長室ではこの部屋の主――山羊の顔に黒く禍々しい角を生やし、天井に頭が付きそうなほどの巨体を持つサタン局長と、意外な人物が対談していた。


「これはこれは、先の泥酔ドラゴンの暴走を見事に鎮圧した英雄、ノスタルジアの美しき導師ではありませぬか」


 しゃがれた声で歯の浮くようなセリフをつらつらと並べるのは、クニミ警備保障と並ぶ業界最大手バラード社のカノウ・ヒフミ会長だった。かなり高齢のヒューマンは、乾いた手のひらで自分の杖をかさかさと撫でた。

 予想外の人物にミラージュは一瞬怯んだが、ここで引き下がる理由にはならない。


「そんなに気色ばんで、一体どうされた?」

「カノウ会長には関係のないことです」

「おや、このワタシはお呼びじゃないと。席を外した方がよさそうかえ?」

「いい、ここにいろ。電話一本で押し掛けていい場所じゃあないんだがな」


 そう言うとサタン局長はローテーブルに置かれたオセロを睨み、白から黒へひっくり返していく。

 角が黒で埋まり、カノウ会長は表面がつるりとした頭を骨ばかりの手でたたいた。

 親し気な様子の二人は一方的に押し入ったミラージュを追い出す様子は見られないが、盛大にもてなしてくれるわけでもなさそうだ。

 つまり、要件を伝えても良いということだろう。


「ついさきほど、弊社の社員がクニミ警備保障から不当な妨害を受けました」

「クニミ警備保障……相変わらず血気盛んじゃのぉ」

「奴らの山を荒らせば牙を剥くのは当然。その辺の折り合いは我よりも貴様ら民間警察の方が心得ているだろう」

「ですが、私たちに捜査を依頼したのはサタン局長です」

「我にどうしろと? 貴様らの縄張り争いなど、保安局が関与するところではない」


 問いかけるサタン局長の瞳は底の見えない深淵のようで、暗く寒い場所へ意識が呑み込まれそうになる。

 胆にぐっと力を入れて震えそうになる声を気丈に張り上げ、ミラージュは凛とした声で言った。


「保安局におけるクニミ警備保障との業務委託契約第9条の執行を要請します」


 街中での武装や逮捕権など、民間警察は保安局と契約書を結んでその特権を手にする。

 そしてミラージュの言う第9条には「業務とは関係のない被害を意図的に及ぼした場合、その権利の全てを剥奪する」と明記されていた。つまり、廃業を示唆する。

 だが実際にこれが執行されたのは、ノスタルジアのような中小企業だけ。貢献度の高い大手には多大な忖度が働いているのは明らかだ。

 その結果、大企業の横暴を助長させた。


「ばかばかしい……捜査中のいかなる外傷も免責事項だ。9条の執行には及ばぬ」

「局長は昨年末の委員会で昼寝でもされていたのですか?」

「何?」


 ミラージュがタブレットで業務委託契約書を表示させる。第9条には「いかなる免責も問わず」という文言が追加されていたのだ。最後には保安局長の電子角判もしっかり押されている。


「正当な捜査をしていた弊社を一方的に妨害するクニミ警備保障の暴挙を街中の監視カメラが捉えています。それでもなお関係ないとおっしゃるのですか。彼らの捜査は、私の大切な社員の命より崇高で尊いと!?」

「王手!」


 感情を高ぶらせるミラージュをさえぎるように、カノウ会長が声を張り上げた。

 見ると、盤上の駒の半数以上が白で埋め尽くされている。


「ワタシの勝ちじゃ、サタン局長。これでワタシの25勝24敗ですなぁ」


 隙間の多い歯を見せて老翁が笑う。サタン局長が几帳面にオセロの数を数えるが、勝敗はくつがえらない。「ハァ~」と細く長い溜息を吐いて、白い立派な顎髭を撫でつけた。「全種目ではお互い86勝86敗で引き分けだがな」と、謎の負け惜しみを零す。

 一方、いいところで水を差されたミラージュは堪ったものではない。


「あのですねぇ……!」

「この案件、バラード社が立会人となりましょう。エルフの宣明に応じて、今こそ襟を正されよ」

「……それが、貴殿がこの勝負で望む報酬か?」

「えぇ。年寄りもたまには美女の役に立ってみとうなりました」

「酔狂だな、まったく」

「え、あの……」


 状況の掴めないミラージュが口を挟む前に、サタン局長は執務机に置かれた電話でどこかへ連絡を取りはじめる。


「クニミ警備保障へ第9条の警告令を発布しろ。例の案件への今後一切の介入を禁ずると付け加えてな」


 要件を手短に伝えると、彼は受話器を置いて執務椅子に深く腰掛けた。

 呆けるミラージュに、助け舟となったカノウ会長が目尻のシワを深める。


「クニミは横暴じゃが、その強大な存在自体が悪の抑止力となる。いきなり解体されたらそれこそ悪意ある者たちが蜂起する原因となるであろう。これが精一杯の誠意じゃよ。不満かえ?」

「い、いえ……」


 むしろ想像以上の対応だ。第9条をチラつかせて保安局からチクっと刺してもらえれば万々歳と考えていたが、まさか捜査から手を引かせるとは。


「それよりも、お前さんは行くべきところへ行くといい」

「……ありがとうございます!」


 カノウ会長とサタン局長に深く頭を下げ、ミラージュは急ぎ駆け出した。

 保安局の外でタクシーを捕まえ、はやる気持ちを抑えながらマホロが運ばれた病院へ向かったのだった。



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