1小節目

 県立富桜高校は、かつて吹奏楽強豪校として全国に名を馳せていた。彼らの演奏は「吹奏楽が好きだ」という気持ちを前面に出す、楽しむための演奏だったと聞いている。ここ10年以上東海大会銅賞止まりではあるものの、小さい頃に聞いたあの音楽は間違いなく、楽しむための音楽だった。当時5歳の私にも響くような、芯のある素敵な音楽。あの瞬間は忘れられない。口をついて出てしまった一言。


「わたしもすいそうがく、やりたい――」


 楠木春香。富桜高校新1年生。好きなものは吹奏楽。趣味も吹奏楽。パートはトランペット。苦手なものはお勉強。以上、私の基本プロフィール。


 この春、私は県立富桜高校に入学した。地獄のようだった受験を何とか耐え、ギリギリで合格をもぎ取った。結果を見たときは文字通り泣いて喜んだ。ずっと憧れて、目標にしていた高校だったから。決して偏差値の低くない高校だったから、お勉強の苦手な私には合格の自身が全くなかった、というのも泣いて喜んだ理由の一つではあるけども。

 「それじゃあお母さん、行ってきます」

 「行ってらっしゃい・・・制服、似合ってるよ」

 「―――ありがとうっ!」

 憧れの制服に身を包み、憧れの高校に向かう。私にとってそれは、最高に幸せなことだった。それに――

 「やっとだ――やっと、吹奏楽ができる」

 憧れの高校で吹奏楽をやること。これが私にとって一番の目標だった。ようやく、この夢が叶う。その事実に、心躍らないわけがない。富高吹奏楽部OGのお母さんが入学式に来れないのは残念だけど、入学式では吹奏楽部の演奏を聞ける。その事実だけでご飯1杯は食べられる。本当に嬉しい。もう普通に楽しみ。

 「あ、春香」

 「・・・唯!おはよう!」

 今会ったのは幼馴染の池田唯。親同士が仲良くて、小さい頃からずっと一緒にいる。吹奏楽も一緒にやっていて、頼れる相棒のような存在だった。

 「春香。制服。似合ってるよ」

 「ありがとうっ!!唯もすっごい似合ってるよ!かわいい!」

 「ふふ、ありがとう」

 今私は最高に幸せだ。そう思いながら、唯と2人で高校へと向かっていった。


 「楠木・・・楠木・・・あった!6組だ」

 「本当?私も6組だったよ」

 「同じじゃん!唯と一緒で安心したよ・・・」 

 高校生活に期待はしているけれど、新たな環境になることへの不安はあった。一人でも友人がいてくれると本当に心強い。

 期待に胸を膨らませつつ、拭えた不安に私は安堵した。


 「・・・新入生諸君、入学おめでとう。本学は――」

 あれよあれよと始まった入学式は、想定通り退屈だ。しかし、この入学式にはひそかに楽しみにしているイベントがある。

 校歌斉唱。式次第の中に必ずあるこのイベントは、吹奏楽部の演奏を生で、間近で聞ける、最高のイベントである。これのために長い入学式を耐えていると言っても過言ではない。同じ学校の生徒である今なら、客席から聞くのとは違った聞き方ができることだろう。

 「校歌斉唱」

 人が動き出した気配がした。後ろの吹奏楽部だろう。

 (いつ――いつ来るんだ)


 刹那——脳が震えた。

 音に、呑み込まれる。そんな感覚がした。

 聴き心地の良い音色に、一体感のある演奏。穏やかに流ていくメロディ。


 海面へと浮き上がる泡のように美しいフルート。

 海底に差し込む日の光のように暖かく、存在感のあるクラリネット。

 輝く海を体現した響きを持つサックス。

 海の中で揺蕩う海藻のようなオーボエ。

 決して流されない、貝殻のような強さのファゴット。

 海面を照らす太陽となっているトランペット。

 魚の大群のように押し寄せてくるホルン。

 突き進む船のように真っ直ぐなトロンボーン。

 砂浜に打ち寄せる波のように優しいユーフォニアム。

 深海そのものであるテューバ。

 海底に沈む大岩のように重量感のあるコントラバス。


 ここは――音の海だ。


 校歌を歌うことなど忘れ、私はこの音楽に包まれていた。

 


 

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ブレス 真月陽 @tsukihi_294

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