第4話 決断の朝焼け (後)

何となく階段を上がり続けていると、いつの間にか大きな扉がそこにはあった。

鉄で作られた重たい扉がギイと鳴いた。

「うわぁ、本当に外だ.....!」

目の前に広がる、紫がかった空と雲。鼻から吸った大量の空気が、胸の中に広がっていく感覚。

そこまで拘束時間が長かった訳でもないのに、何故だか無性に目頭が熱い。

とは言っても屋上はフェンスで囲まれており、辺り一面に建物らしきものは無い。荒れ果てた土地がむき出しになって広がっているだけだった。

フェンスの一番上には何やらコードが張られている。

結局のところ、屋上に出たからと言って特に何かが分かる訳では無かった。

それでも、この開放感は僕の心の不安を沈めてくれる。

どうやら今は丁度明け方頃らしい。うっすらと空が明るくなり始めている。

普段、遅刻ギリギリに起きている僕にとっては中々珍しい空の色だった。


「——あら、先約がいたのね。」


開放感と、心地良さに浸っていると、背後から声が聞こえてくる。

その口調、そして声のトーン。誰かなんてすぐに分かった。

「ラビリ。」

「おはよう、花踏くん。随分と早起きなのね。」

「おはよう。今日はたまたま、目が冴えちゃって。そういうラビリは?」

「毎朝ここで軽くトレーニングをするのが日課なのよ。」

艶やかな髪を靡かせて、僕の隣に立つ。トレーニングという割には、昨日と同じセーラー服姿だった。

「……その格好で?」

「ええ。いつも身につけている服の方が、何かと勝手がいいのよ。」

そういうものか、と流しつつ二人で昇り始めた朝日を眺める。

僕からは特に話す事も無くて、少しの間沈黙が続いた。

普段ならこういう沈黙は居心地が悪くて、何か話題は無いかと探す所だけれど、今は音のない時間が心地好く感じた。

と。その静寂を切ったのは、ラビリだった。


「……花踏くんは、決めたの?」


その声に、思わずラビリの様子を伺う。

長いまつ毛が、彼女の瞳に影を落とした。朝日に向かって真っ直ぐ伸びる彼女の視線。その横顔は、作り物のように美しかった。

「……いや、まだ少しだけ迷ってるんだ。」

「——そう。昨日あの男から概要は聞いたのでしょう?」

「うん。僕なんかには勿体ない話だったよ。……でも。」

「——でも?」

まだ、首を縦に振る勇気が無い。

今までずっと、決断するということから目を逸らしてきた。

自分にはまだ無理だと、難しい事だとそう決めつけて逃げていた。

だからそんな、弱虫の僕にこんな大役が務まるわけが無いと、今もどこかでそう思っている。

「……でも、僕にはきっと、成し遂げるだけの力が無い。」

いつだって、先の事を考えれば目の前が真っ暗になる。

こんな自分が、どうしようも無いくらいに嫌いで。殺したい程に憎くて。

ラビリは、僕の話を黙って聞いてくれた。そして、花踏くん、と名前を呼ぶ。


「それは今まで、貴方がステージに上がる事を拒み続けていたからでしょう?ステージにも立たないで全てを決め付けるのは、勿体ないわ。」


ラビリは真っ直ぐな瞳で僕を見ていた。彼女の瞳に映るのは、不格好でどうしようも無いくらい格好悪い僕。

ラビリはそんな僕から視線を逸らさずに話をする。

「ステージに立ったら貴方の世界は変わる。そして、貴方には人を魅了する力がある。その力があるから、貴方はこのステージの役者に選ばれたのよ。」

ああ、その朝日に透かされた目線。変な自信に満ちた言葉。

思い出したのは、夢に出てきた一人の人物。


「今に君の魅力が多くの人の目に留まる日がくる。君にしか出来ない事を成す時が、君の役割を果たす時がいずれきっと来る。その時に初めて君は、自分の魅力に気付けるだろう。」


そう言葉を贈ってくれた人も、今の彼女の様に僕を信じてくれた。

人を魅了する力。それはすなわち——魅力。

僕の、僕だけの、力。

もしも本当にそんな力があるのなら。僕は今の自分を少しは好きになれるだろうか。

灰色に包まれた世界から抜け出せるだろうか。

僕は、僕を信じてくれた先生やラビリを信じたい。

これが、僕にしか出来ない事で。僕だけの役割なら。


——僕は、それを果たしたい。


理想も、夢も希望も。抱くだけ無駄だと思っていたはずなのに。

今は何故だか、そんな淡い光に身を委ねてみたくなったんだ。


「……ラビリ。僕はきっと、誰よりも弱い。誰かの為になる事なんて、出来ないかもしれない。それでも…………。それでも今は……っ!」


覚悟は決めた。腹は括った。この選択を選んだ以上、きっと僕は引き返せない。

怖くないと言えば、きっと嘘になる。臆病者が、急にヒーローになる事なんて漫画の世界だ。

そう。僕はヒーローじゃない。漫画の世界の住人にもなれない。

でも、君が必要だと言ってくれるなら。僕の存在を認めてくれるのなら。


「——僕は、此処で君に選ばれたいっ!」


まるで、僕が君に恋をしているかのようなセリフ。

まるで、僕が君に捧げたかのような愛の言葉。

自分でも、口にした後で随分と恥ずかしい事を言ったなと思う。

それでも、目の前に立つ黒づくめの美少女は笑う事無く、真っ直ぐな瞳で僕を見ていた。

吸い込まれそうなくらい、真っ黒で美しい瞳。

ラビリは、ゆっくりと僕に近付いて頬に触れる。

今にも折れそうな細い指先は、氷の様に冷たくて。

その瞬間世界から僕と彼女以外が居なくなったみたいに、僕はラビリの息遣いだけに耳を傾ける。


「——私にはまだ、貴方にどれ程の価値があるのか分からない。案内役の候補者は他にも居て、きっと貴方よりも優れた人材だって居たでしょう。……それでも、貴方が選ばれたいのは貴方が泥を被った宝石だから。」


ラビリの落ち着いた声。心地好く、頭の中に響く優しい声。

「その泥を拭った時、宝石は輝く。——だから。私に魅せて頂戴。貴方の価値を。」

朝日が、僕と彼女の頬を照らす。

光り輝く彼女の髪は天女の羽衣みたいに美しくて、僕は息を呑んだ。


「——そして私に、貴方を選んで良かったと思わせて。」


それは多分、悪魔の契約。

だって、僕に触れた彼女の顔は、人間と言うにはあまりに美しくて。僕はその美しい悪魔に魅入られてしまったのだから。

表情一つ変えない彼女の指先に、自分の手を重ねる。


「——うん。君に……ラビリに後悔させないくらい、頑張る。」


僕とラビリを隔てる障害は、朝の暖かな日差し。

キラキラと輝くこの朝日だけが、僕達の会話を盗み見ている。

それは気持ちのいい視線で、僕はその瞬間新しい僕に生まれ変わったような、そんな気がした。

「じ、じゃあ僕、ピエール達に伝えてくるね。早く教えた方がいいと思うし。」

「ええ。また後で会いましょう。」


自分でも大胆な事をしてしまった……!!なんと言うか、こう、空気に流されて……。

お、おお、女の子の手を……触っちゃった……!

我に返ると、なんとも小っ恥ずかしい事をしてしまった。その場の空気感に耐えられなくなって、そそくさと屋上を後にする。

ドキドキと、興奮鳴り止まぬ心臓をぎゅっと握りしめて。


——僕の新しい朝が幕を開けた。





そしてこれは、そんな熱に浮かされる僕の知らない話。

一人屋上に残されたラビリは、空を仰ぐ。

彼女が思い出していたのは、昨日の深夜の出来事。

ラビリの部屋に訪れたのは、白塗りの顔をした男。

その男はいつも通り不敵な笑みを浮かべて、ラビリに告げる。


「ラビリ。何があっても、花踏くんを案内役にしなさい。彼はきっと、面白いものを見せてくれる。今迄のゲームには無かった『不確定要素』は、君の世界すらも変えてくれるだろう。だからね、ラビリ。」


少女は、その時の情景を思い出しながら瞳を閉じた。

おぞましさの残る、その笑顔。その内側に眠るものを、到底理解出来ないけれど。

彼は言った。


「——君が、彼の居場所になりなさい。」


一晩考えても、その意味は理解出来なかった。

ただ、あのピエロの事だから、何か裏があるに違いないと少女はゆっくり瞼を開ける。

「貴方の言う通り、彼を引き入れた。……ごめんなさい、花踏くん。私はきっとこの先、ずっと貴方を騙すでしょう。」

だから、と彼女の口から吐いた謝罪の言葉は冷たい空気に溶ける。


——忘れてはいけない。


どれだけ綺麗事を並べても、これは紛れもなく命を奪い合う殺し合いなのだから。

今から自分達がやろうとしている事は、紛れもなく悪でしかない。

「私はもう既に、貴方みたいな心なんて持っていないから。どれだけ非道だとしても、私は貴方を欺き続けるわ、花踏くん。」


これは、僕の知らない話。

その全てを知るのはきっと、このゲームが戻れないくらい奈落の底に落ちた時。


——そして、僕の人生を変えるゲームは始まろうとしていた。

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