赤の教室

どれほど走ったであろうか。

逃げて行き着いた先は、最初とは別の、赤一色の教室。

雨が降った後の夕陽に彩られたよう色だ。

窓からの景色は黄金の空。

赤のカーテンが金と透けて、バタバタと風に煽られたなびく。

そこには机の代わりに大量の赤い石膏像が立ち並んでいた。

赤い箱の中で大勢の人間に見られているようだった。

二人の荒い息が教室に染みていく。


「レン」


コウはレンの細い肩を乱暴に掴んだ。


「どうして逃げたんだッ。助けられたのにッッ」


コウは恐怖が過ぎた後に沸き起こってきた怒りを、レンにぶつけた。

コウの形相に驚き、レンは顔を歪めた。


「仕方がないでしょ。あのままじゃ食べられてたよ」


「だからってッ! たとえそうだとしても助けるのが当然だろッ?!」


「なにそれ……アヤって子は初対面で、ソラはコウにひどいこと言われたんだよ?」


「それでもッ!! アヤがいれば、三人とも助かったかもしれないのにッ」


「アヤ? コウ、なにいってんの? あいつ、食べられたんだよ? それって嘘ついたってことじゃん」


「アヤは俺たちを助けてくれたんだぜッ?! なのにッ」


「……ほんっと、さあ」


突然、レンがコウの胸を強く押した。

よろめいて、それでもレンは何度も何度もコウをこづき、床に倒した。

レンは白い脚で押さえつけて馬乗りになり、コウのシャツを掴んで激しく揺さぶった。


「なんで?! なんで、もうさあ。ホント、なんでッ全ッ然わかんないッ? ウチの気持ち、かんがえたことあんのっ?!」


「はあ? き、気持ち、って……」


「バカヤロウッ! なんでウチが必死で危ないバイトしてるか、ほんとうにわかんないのッ? こんな、こんなのって……ないよッ……」


「お前、ま、まさか」


「そうだよっ、好きなんだよっ! コウのことが好きなんだよおっ!! ああ、もう……ウチ、ウチは、だけどコウの事ずっと――」


それは一瞬であった。


「駄目」


コウの耳に透き通るような声が届く。


「そんなの、許すわけないでしょう」


真っ赤な教室。

石膏像が見ている中、黄金の空を写したレンの瞳孔が小さくなる。

レンの顔の皮膚の下、もぞりと何かが蠢いた。

なにが。

見る見るうちに、瑞々しかったレンの皮膚が赤く赤く染まっていっていく。

ブクブクブクブクと、まるでランチュウのように膨れていき、風船のように破裂した。

真っ赤な世界に真っ赤な水が、霧雨のように降りそそぐ。


「え……」


煙る赤の中にアヤがいた。

さっきアヤはバケモノに食われたはずだった。


コウの思考が停止した。


物凄い爆風をあげて教室の壁がぶっ飛んだ。

石膏像のギャラリーが粉々になり、窓ガラスがけたたましく割れる。

割れた破片はキラキラ輝く粉を撒き散らした。

コウは壊れた壁に目をやる。

壁の穴から赤いバケモノが大きな口を開いて現れた。

バケモノの目がコウを捕える。

逃げなければならない。

しかし、コウの全身の筋肉が抜かれたように動かなかった。

それでもバケモノは迫って来る。

見覚えがある気がした。


「その人は駄目」


また透き通る声がして、途端バケモノの動きが止まった。

コウは、呼吸が無様に喘ぐのを抑えられない。

足音がゆっくりと近づいてくる。

アヤの足音であった。


「やっと、二人っきりになれた」


アヤは赤子をあやす手つきで赤いバケモノを触れた。

バケモノはそれに反応して部屋の隅に移動して蹲った。


「この時をずっと待っていたの」


アヤはゆっくりこちらに向き直り、そっとコウの傍らに跪いた。

甘い匂いが鼻を占領する。


「驚かせてしまってごめんなさい」


「あ……なん、でっ」


「もう平気よ。怖がらないで」


「おまっ、ソラと、死んで……」


「ああ、ソラくんのことはだいじょうぶ。彼、生きてるから」


そう言ってアヤはバケモノのほうに視線を向けた。

白い可憐な手がコウの頬を優しく撫でて、そっとレンの返り血を拭った。

まるで子守唄を聞かせるように話し始める。


「ああ、コウくんたら、すべて忘れてしまっているのね」


「なん……えっ……」


アヤの頬は興奮に染まっている。


「いいよ。どんなに逃げたって、忘れたって、私、追いかけるわ。あなたをしあわせにするって、私、決めてるから」


そこでアヤは、深く息を吐いた。


「好きよ、コウくん。あなたが大好き」


なんて情熱的。愛の告白。


「私、コウくんのお母さんになりたいの」


またもや衝撃告白。

アヤはしゃがみ込み、コウの顔を自らのほうに向けた。


「コウくんのお母さんが死んだ時、あなたの涙が羨ましかったの」


アヤはそっと手伸ばし、コウを胸に抱き寄せようとした。

動かぬ身体を奮い立たせて、コウはそれを払いのけた。


「来るなぁっ!」


アヤの目が驚愕に染まり、怒りの影が広がった。


その刹那。

美しい赤一色の教室に、淀んだ色の机やカバンが窓から飛び込んできた。

割れた窓のむこうには青い空。

薄い黄色のカーテンがはためく。

薄汚れた掃除用具がアヤのほうに迫ってくる。


「きゃあッ」


アヤは突然現れた異物たちに襲われる。

バケモノの姿も搔き消えた。

何が起きたのかわからなかった。

コウはそれを機に這いつくばり、バケモノが開けた教室の壁の穴から、抜け出した。

廊下はなかった。

穴から落ちて、彼は強か身体を打ちつけた。

それでも必死に前進した。

落ちた先は、まだ赤い。

真っ赤な、果てのない空洞。

コウはただただ這いつくばった。


「!!?」


アヤの細い脚が立ちはだかる。


覗きこんだアヤの瞳に、悪魔のような顔のコウが映る。

その瞳の向こう。

頭上には真っ白が広がっていた。

真っ白がゆっくりと崩れ始めた。

息もつかぬ間に衝撃。

大量のなにかに身体が巻き込まれ、目の前が白になる。

生ぬるいなにかが肺にまで入り込む。

息ができない。

為す術もなく巨大な流れに流された。

ゆっくりと浮上する。

無意識に息を求める。

肺に入った液体を体内から押し出そうと嘔吐く。

白い液体が開いた目に染みて痛みが走る。

コウは無理矢理目をこじ開けた。


「なっ、ミルクっ?!」


強烈な乳臭さが鼻をつく。

コウは広大なミルクの海に漂っていた。

目の前にはアヤがいる。

黒い長い髪、制服、その白い肌をミルクに浸し、額に切り揃えられた前髪をへばりつかせていた。

アヤの純粋で真摯な瞳がコウに向けられる。


「あなたのお父さんと繋がったけど、駄目だって気がついたの。それって現実的な空想だもの。そこにほんとうはないわ。だから私、この世界を創ったの」


伸ばされた手はミルクの膜が薄く張っていた。


「いつだって、あなたは私から逃げ出した。でも、もう大丈夫。もう怖くないわ。私が、私があなたを守ってあげるから」


近づいた指の、甘い匂いが懐かしい。


「………コウくん。どうして、私を忘れてしまったの? 私たち、仲良し四人組だったじゃない。女の子はいらない? 男子三人きりになりたかったの?」


アヤはコウの頬に手をかけて、ゆっくりゆっくり引っ張っていく。

ずるりと、服と皮膚が剥がされていく。

びちりびちりと耳の中から皮の剥ける音がする。

そこにはミルクの海に浮かぶ、真っ赤なコウの姿が。


「こんにちは。私の赤ちゃん」

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