第35話
「まあ、アウグスト様、一体どうされたのですか?」
翡翠色の髪を胸元まで垂らしていた皇妃は、驚いた様子で寝所から起き出してくると、私の頬に触れて、包み込むような優しい笑みを浮かべた。
「ヴァルカウス王国の王太子様が親善のために訪れていると聞いています、今回は歓迎のための晩餐会をするとも聞いておりましたが?」
「晩餐会は中止だ」
ほっそりとした手を掴んで引き寄せると、皇妃の抱きしめて、ホッと小さなため息を吐き出した。
内政に忙しく、子供を沢山産んだハリエットの相手もしなければならず、どうしてもクリスティナから足が遠のいてしまっていた。
彼女はしっかりしているから、私が見ていなくてもしばらくの間は大丈夫だろう。
体調を崩したというが、この年齢では良くある症状のようだから、公務は減らして少し休ませてもらいたいという言葉をそのまま受け取った。
「私は大丈夫ですよ、死ぬほどの毒は、まだ盛られていないようですから」
そう言いながら私の背を優しく撫でる妃の体を抱きしめながら、危うく失うところだったというゾッとするような恐怖と、今、彼女がここに居るという安堵で、硬直して小刻みに震えていた体がようやっと弛緩していく事に気がついた。
皇子がたった一人では・・・という話から迎えた側妃だったが、こちらの想像以上にぽこぽこと子供を授かり、生まれた子供たちも健康に育っていった。
側妃の子供が元気に育つのは良いが、権力や皇帝の地位を欲して、国を分裂させるような事になっては元も子もない。そのため、側妃とその子供たちには、皇妃を敬うように、皇妃の産んだスヴェンを支え、帝国を繁栄させるために努力するようにと、常に言い聞かせるようにしていた。
私が真実愛するのは皇妃クリスティナであり、彼女が居れば、実のところ私は何もいらない。ただ、側妃を娶ることで、更なる皇子の出産を求められてきた皇妃の負担が減るだろうと考えたからこそ、ハリエットを私は娶ったのだ。
「皇妃を失った貴方は絶望し、全てを捨てて、己の命を絶つ事を選んだ」
ヴァルカウス王国のアルヴァ王子は、確かに予言の力を持っているのだろう。
皇妃が亡くなったからといって、皇帝がその後を追うだなどと、誰が想像するだろう?
穏健派とは言われていても、若い頃には二つも三つも戦で国を滅ぼすような事もやってきたのだ。
戦鬼とも言われていた皇帝が自死を選ぶ。誰も想像もしないような事を、ただ、事実を述べているだけだとでもいうように王子は言った。
それだけ愛していたのだから、愛する女を失った男が選ぶ道など決まっている。
私はきっと、彼女の後を追いかける。
「スヴェンも同じ毒を盛られていたのでしょう?」
腕の中のクリスティナは息子の心配をする母そのもので、
「あいつはまだ若いから、それほど体を侵されてはいないようだった」
安心させるようにクリスティナの翡翠色の髪を撫でつける。
すると皇妃の寝室の扉を軽くノックする音が響き渡り、側妃ハリエットが、何の憂いもないような笑顔を浮かべて入ってきた。
ハリエットは伯爵家から嫁いできた人間であり、クリスティナを姉のように慕っている。抱き締め合う私と皇妃の姿を認めると、瞳を細め、口元に笑みを浮かべながら、
「まあ、陛下もお見舞いにいらっしゃっていたのですね?お茶の準備をしてきたのですが、陛下もご一緒にいかがですか?」
鈴を転がすような声で言い出した。
後から入ってきた侍女が用意するのは、ハリエットの生家で栽培をしている緑の健康茶(シャベレーザ)と焼き菓子の数々であり、
「クリスティナ様のお好きなものを用意したのです」
と、口許に美しい笑みを浮かべている。
権力を持たぬ伯爵家から娶れば、子供が生まれたとしても跡目争いには発展しないと言われて娶った女だった。
蜂蜜色の髪を緩やかに結い上げた、ふっくらとした体付きのハリエットは、痩せている事が美徳とされている帝国貴族の女性の中では浮いた存在ではあっただろう。ただ、そのふっくらとした頬や、柔らかな表情が、自分の無害をアピールすることに利用しているのだということが、ちっとも笑っていない瞳を見て察せられる。
「そうか、随分と美味そうに見える。怠惰な貴族どもが躍起になって食べている健康志向の食品だものな」
「ええ、陛下もよろしかったらお召し上がりくださいませ」
「そうか・・・お前はそう言うのか」
立ち上がった私は、茶菓子が用意されたテーブルへと向かうと、足蹴にして、茶器や菓子を散乱させた。
「衛兵!王族の命を狙った反逆者どもを捕らえろ!」
「きゃああああああ!おやめください!おやめくださいませ!」
「アウグスト様!何を仰っているのですか!私が何をしたと言うのですか!」
部屋に飛び込んできた衛兵たちに取り押さえられた側妃と侍女が、驚愕と怒りを露わにしてこちらを睨みつけているため、足元に転がるポットを壁に蹴り付けて破壊する。
「茶番は終わりだ!この者たちを牢へと連れて行け!」
即座に命じると、真っ青な顔でこちらを見つめる皇妃を抱き上げる、安全な場所へと彼女を移動させなければならない。
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