あの頃は八十円だったハンバーガーが、値上げして百七十円になるらしい。
しらす丼
本編
「いらっしゃいませ、こんにちは! ご注文をお伺いいたします」
私は今日、高速道路の入口付近にある、ファストフード店のドライブスルーに来ていた。
「えっと……」
頼むものはいつもだいたい同じものなので、店員さんに止められるまでは注文商品を唱え続ける。
「――ご注文商品にお間違えがなければ、先に進んでお会計をお願い致します!」
そう言われてから電子パネルに表示された商品名をざっと確認して、合計金額に目を通した。
六百七十円。うん、合ってる。
「はーい」
と間の抜けた声で答え、左手でギアをローに入れる。左足で半クラッチにしながらアクセルに移した右足をゆっくりと踏み込むと、車はゆっくりと動き出した。
私の愛車は三菱トッポBJ。車いじりが趣味であるお父さんが、少し壊れ気味のものを中古で購入し、乗れるように直してくれたMT車だ。
冷暖房効きが悪いのとよく軋む音がする以外は、特に問題なく使えているので、低価格で車を用意してくれたお父さんには感謝しかない。
会計を終え、また少し進んだ窓口で商品を受け取ると、私は車を走らせ道路に出た。
コロナ禍になってもう二年。私は今の生活にすっかりと慣れ、今ではファストフードを店内ではなく、ドライブスルーで購入するようになっていた。
今までは断然店内派だったのだが、こんな世の中だからというのとせっかく車があるのだからドライブスルーを経験してみたいという想いが重なって、私はここにいる。
国道と交わるところの信号機で停車すると、窓枠に右肘をのせる。
「だいぶドライブスルーにも慣れてきたなあ」
なんて独りごちてみた。
それからふと、幼い日のことが頭をよぎる。
初めてのおつかい。低価格のハンバーガー。
両手いっぱいの袋。
ああ、そういえば。ハンバーガー、二十個下さい。そんなことも言っていたっけ。
***
約十一年前。小学三年生の私は、家から自転車で十五分ほどの場所にあるディスカウントストアのフードコート内にあるファストフード店(赤地に黄色のエムマークのある大手ハンバーガーチェーン)に来ていた。
だだっ広いフードコートには、二、三組ほどの家族が食事を楽しんでいるみたいだった。みんな、笑顔が満開である。少し羨ましい。
深呼吸をしてから、右のポケットに手を添える。そこには拳ほどの膨らみがあった。
大丈夫。お母さんから預かった夏目漱石の描かれている千円札二枚は、この折りたたみ財布に入れていたはず。
ゴクリと喉を鳴らしてから、私はファストフード店のカウンターに向かって歩き出した。
心臓が見えない糸に絞めあげられているように、苦しく痛む。
初めてのおつかいにドキドキしている、ということもあるけれど、この胸を絞めつける原因は他にもあるのだ。
「いらっしゃいませ、こんにちはー!」
若いお姉さん店員が笑顔で私に言う。
「ご注文は何にしますかー?」
発せられる言葉の語尾を伸ばされ、少し舐められているような印象を抱いた。
まあ、小学生を相手にしているわけだから、それが正しい対応なんだろうとも思う。
まともなお姉さんに、私はこれから少し意地悪なことをしなければならないんだなあと申し訳なさを感じた。
しかし、これは重大任務だから仕方がないのである。ごめんなさい、お姉さん。
「あの、えっと……ハンバーガー、二十個ください」
お姉さんは目を丸くし、少し考えてから、
「ええっと、二十個? 二個の間違いじゃなくて?」丁寧に尋ねてきた。
「はい。二十個です。二個じゃありません」
そう言って私は、折りたたみ財布の中から夏目漱石の札を二枚取り出す。
「じゃ、じゃあ……三十分くらい時間もらっていい、かな?」
「……はい、待ちます。いつまででも待ちます」
それからお姉さんが奥の方へ引っ込むと中からもう一人、大人びたお姉さんが出てきた。
そしてその大人びたお姉さんは、いそいそと行動を始める。
おそらく、あの人が私のハンバーガーを作ってくれるんだろうな。
私が大人びたお姉さんを見据えていると、レジスターに立っているお姉さんから唐突に声がかかった。
「あっちの椅子で待っていてくれる?」
お姉さんの目は笑っていたが、明らかに口元は笑っていなかった。
目で殺されそう。ごめんなさい。
「はい」
お姉さんに指された席に座って、私はハンバーガーが出来るのをじいっと待つことにした。
私が待っている間もとめどなくお客さんは店を訪れ、ハンバーガーやらチーズバーガーやらを注文していく。
だいたいのお客さんが自分たちの人数に合わせた数(二~五個)を購入し、席に座って食べ始めていた。
一人がレジ打ち、もう一人がバーガーの作成。たった二人での勤務は大変なんだろうなあと思いながら私はぼうっとレジ奥を見つめる。
そんな私の視線が圧になっているのか、何となくピリピリとした空気がこちらにまで伝わってきた。
確か「スマイル0円」を販売していたはずなので、後で注文してみようかななんていやらしいことを考える。たぶん本当に注文はしないけれど。
そして約三十分後。ようやく私が注文した二十個のハンバーガーが完成し、レジスターの前にいたお姉さんがカウンターを出て私のところまで届けてくれた。
「大変お待たせしましたー」
そう言うお姉さんの顔に笑みはない。よくもやってくれたな! という憎悪がこもった表情に恐怖すら感じる。
働くって大変なんだ。
そんなことを思いながら軽く頭を下げて、早々にファストフード店を後にした。
店を出ると、駐輪場にとめていたママチャリ(ホームセンターで購入した五千円のもの)のカゴに、先ほど買ったハンバーガーの袋をそっと乗せた。
「みんな、待ってるよね。早く帰らなきゃ」
それから私は雑にサドルに跨り、軋む音を周囲に鳴り響かせて家に向かってペダルを漕ぎ出す。
私の家はあまり裕福ではない。
六人きょうだい。両親健在。八人家族の我が家は近所では大家族として有名だった。
お母さんは専業主婦だったので、お父さんの給料だけで暮らしている。
お父さんの給料は、私たちの食費と数年前に新築した家のローンで殆どが消えるらしい。
たまにできる贅沢は、ファストフード店のハンバーガーを食べることだった。
学校の友達は揚げたてのポテトが美味しいとか、ナゲットソースは何派とか。そんな話をよくしているのを知っていたけれど、私は定価八十円のハンバーガーしか知らない。
ハンバーガー二十個を各自二、三個ずつ配られ、それを昼夜の食事としているとは絶対に友達には打ち明けられない秘密だ。
少しでも周りと違うことをするといじめの対象になることは分かっていたので、私はその秘密を隠すことで必死だった。
一度、お弁当の日に肉まんとカレーマンが弁当箱にドンっと二つ並んでいた時はとても驚いた。恥ずかしくっていつも食べているグループの子達と離れ、階段の踊り場で食べたことは良い思い出だ。
「ミカちゃん、どうしたのー?」
と教室に戻った時に聞かれた時は、「ちょっとお腹が痛くて保健室にいたんだ」などと嘯いたものである。
少し話は逸れてしまったけれど、とりあえず私は、周囲にはとても言えそうにない秘密があるということだ。
家に着くと、飢えた亡者たちが私の手にある紙袋目掛けて飛びついてきた。あまりの勢いに少し飛び退いてしまったくらいである。
「ミカちゃん、お腹空いたよ。早く開けてよー」
下の妹は鼻息を荒くしながらそんなことを言う。
はいはい、と居間まで紙袋を持っていき、中央にあるテーブルに置いた。
すると飢えた亡者たちが一斉にその紙袋に集まる。デパートの歳末セールかという勢いでハンバーガーを一個、二個、三個と紙袋から取り出し、抱えながら各々散っていく。
私も自分の分のハンバーガーを取り、紙袋の口を閉じてそのまま置いておいた。
残りはお母さんの分である。お母さんが要らないって言ったら、お兄ちゃんたちが持っていく。我が家は意外と年功序列なので、上が要らないと言わなければ下には回ってこないシステムなのだ。
私は真ん中っ子なので、二人のお兄ちゃんたちの判断待ちになる。しかし、さすがに三個以上は私も食べられないので下の弟か妹に渡すことは確定だ。
一旦落ち着いた私はテーブルの前で取り出したハンバーガーの包紙をあけて、ゆっくりとそれを口に運んだ。
パサパサしたバンズ。ジューシーさのかけらも無いパティ。酸っぱいケチャップとピクルス。
お金持ちのお家の子はそんなに好きじゃない味なのかもしれないけれど、私にとってはご馳走だった。
単価八十円でこれだけの幸せを得られるのだから、とてもリーズナブルな一品であるとしか言いようがない。
これからも私はこのハンバーガーで幸せを共有していくのだろう。そんなことを思っていた。
***
それから二十年くらいになる。
すでに貧困の家庭では無くなっており、私自身も稼げる年齢になった。
今はハンバーガーではなく、ダブルチーズバーガーセットという当時では考えられないくらいの贅沢品を食している。
「ほんと、あの頃は何にも買えなかったもんなあ」
なんて懐かしく思っているうちに、私は帰宅していたのだった。
家の真横にある駐車場に停めた車は、若干斜めだったが、いつもこんなものだろうと気にせず玄関へ向かう。
免許を取って十年以上になるのだけれど、未だにバック駐車が下手くそで、家の駐車場でエンストしてしまったという話は割愛しておこう。
大人になるたび、恥ずかしくて言えないことが増えている気がした。
居間のテーブルにドンと紙袋を置き、手洗いうがいをしてから中身を取り出した。
ダブルチーズバーガーの包み紙を開けて、パクリ。ゆっくりと咀嚼し、ごくんと飲み込む。
味はいつもと変わらない。でも、これがいいんだ。
そして余っていた片手でスマートフォンをいじる。すると、その時とあるネットニュースに目が止まった。
『一月十六日から一部商品を値上げします!』
――ハンバーガー、百七十円!?
たびたび値上がりをしているのは知っていたものの、今回ばかりはさすがに目を引いた。
私が二十個も買っていた時より二倍以上の値段になるというのだから、驚かずにはいられない。
「お母さん、お母さん! 大変だよ、ハンバーガー値上がりするんだって!!」
二階の自室にいた母の部屋に私は思わず駆け込んでいた。
なお、母の分のハンバーガーを買ってこなかったのか、という疑問に関しては目を瞑ってもらえると幸いである。
「え!? いつから??」
どうやら母も知らなかったらしい。目を丸くしてそう言った。
「……再来週の十六日から!」
「へえ」
「私が二十個買った時はまだ八十円だったのになぁ」
「あら、私が五十個買った時は五十九円だったわよ?」
「え? そんなことあったっけ?」
「あったじゃない!」
そう言われても、私はあまり覚えていなかった。自分で買っていないから印象が薄かったのかもしれない。
「まあ仕方ないわよね。物価の高騰とかもあるだろうし」
「そうだねぇ。なんか令和になってからいろいろと社会も変わったし、問題が起きちゃってるもんね」
昨年は国内でもいろんなことがあり、今年はどんなことが起こるのだろうとヒヤヒヤしている。
夏に起こったあの悲劇だったり、身近にあったアレコレはもう勘弁願いたい。
「で、何の話だっけ?」と母はきょとんとしながら言う。
「ハンバーガーが値上がりするって話だったはず」
「上がる前に食べておきましょう」
「……うん」
と頷いたが、現在進行形で食しているとはあえて口にはしなかった。まあゴミ箱を覗かれればおのずとバレてしまうだろうけど。
それから私は母の部屋を後にし、再び居間に戻っていった。
食べかけのダブチを包んだ紙ごと再び手に取り、それを口まで運ぶ。
相変わらずパサついているけれど、それはずっと私の記憶の中にある味だった。
値上がりしても、きっとこの味は変わらないのだと思う。
時代が変化し、社会や環境が変わっても私という人間、過ごしてきた時間は何ら変わらないからだ。
これからどんな令和という時代を生き抜いていくのだろう。そして、ハンバーガーはどこまで値上がりするのだろう。
また二十個、五十個と購入する日は来るのだろうか。
「いや。値下がりしても、多分やらないな」
しかし、何かをキッカケに古い記憶が蘇るというのはなんだか楽しい気分になる。
「さて、明日のお昼はハンバーガーにしようかな」
あの頃は八十円だったハンバーガーが、値上げして百七十円になるらしい。
あの頃は八十円だったハンバーガーが、値上げして百七十円になるらしい。 しらす丼 @sirasuDON20201220
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