黙龍盲虎
人々の願いをのせたそれは揺れる炎で薄闇を裂き、空高く舞い上がる。
燃え尽きて地に
夜空を彩る光の下、馬車に揺られていた男は次々と
大国の都である
その日の夜は
空に飛ばした燈籠が天に届けば願いが叶うという言い伝えもあり、華やかな
広場の上空では、
空を見上げる人々の姿に
一面にびっしりと光が散らばっているせいか、少し目がちかちかする。
ふっと軽く息を吐くと、正面に座っている人物が笑った気配がした。
『お疲れですか? 元宵はまだ始まったばかりですよ』
顔を上げると、作り物のように整った白面が目に映る。
この国においてそれらの特徴に合致する人物はただひとりしかいない。
皇帝の若き右腕、
『
唇の動きから発された言葉を読み取ると、男はすぐさま頭を振る。
そもそも世捨て人である彼が再びこの地へ足を踏み入れたのも、他ならぬ百里朮からの依頼のためなのだ。
『そうですか。先代から、長安も随分と変わってしまいましたからね』
仕方がないのかもしれません、と百里朮は肩を
その美貌には相変わらず笑みが浮かべられていたが、先とは違って無邪気な喜色を
どうやら質問を通して自分の反応を楽しんでいたらしい、と気づいた男は内心で
本当に、
生まれながらにして聴覚を持たない男は、代わりに人一倍
しかし時折、百里朮の
浮世離れした容姿も相まって、彼のことを妖狐か何かではないのかと本気で疑ったこともあったほどである。
『さて、まもなく会場へ到着しますよ。以前に
ふと声を潜めて放たれた言葉に、男はわずかに目を細めた。
『あなたは江湖から招かれた
江湖とは武術に長け、義理を重んじる
権力が及ばない上に強大な力を持つため、少し前まで権力者からはこの上ない
しかし今代の皇帝は江湖との
つまり今から向かう元宵の酒宴にて、男は武侠の代表として皇帝から直々にもてなされるというわけだ。
たしか
『言うまでもなくご存じでしょうが、念のために。ご心配には及びませんよ。すでに
にこりと意味ありげに笑う百里朮に対し、男は顔をしかめた。
彼は周囲から、貴族としても
ただ――。
『後のことは任せました。今後も何かあればすぐに報告するように』
百里朮は目的のためならば手段を選ばない。
『あなたには期待していますよ、
好きにしろ、と彼がもし話すことができたのなら、そう吐き捨てていたところだっただろう。
やがてふたりを乗せた馬車は大通りを抜け、たくさんの燈籠で飾り立てられた船舶の前で止まる。
巨大な会場に乗りこむ高官の姿を見ながら、少々荒れた夜になりそうだ、と隆子君は思った。
◆ ◇ ◆
月が出てきたらしい。
冴え冴えとした
本来なら暗闇と静寂が支配する刻限。
それにもかかわらずあたりが昼のように明るいのは、今年も地上と天空を結ぶ光の
真夜中の深い闇のなかで多くの灯たちが輝き昇る姿はきっとひどく美しいに違いない。
「まあ、僕には関係ないけど」
ぽつりと独り言ち、空になった
宴席の裏にある
着慣れぬ
こういうところは
皇帝主催の宴会は正式なもので出席には招待状が不可欠である。
不審者が入らないように厳重に身柄が確認され、常に
しかし
胡珀のように、その隙をついて侵入する輩もいるというのに。
「ねえ、そこのあなた! 今、手空いてる?」
そのとき、不意に背後から声をかけられた。
おもむろに振り向くと、彼の布で覆われた両目を見たであろう官女が「あっ」と小さく息を呑む音がした。
胡珀はそんな官女を無視して、彼女の両腕に抱えられていた酒壺をひとつ取り上げる。
「お酒、注いできますね。どこから回ればいいですか?」
「え、ああ……それなら右のほうをお願いできるかしら」
「わかりました」
短く答えて、胡珀はそそくさとその場を離れた。
盲目だからといって同情されるのはごめんだった。
が、宴席に行く口実ができたので今ばかりは目をつぶる。
官女たちは知らないだろう。
胡珀がその
盲目ながらも腕は確かなもので、暗中での暗殺術で彼の右に出るものはいなかった。
もう長いあいだ暗殺で生計を立てていたが、今回の依頼主は特に変わり者だった。
ある日、何の前触れもなく差し出された目も
名を伏せて送られた書状にはただ一言、
もちろん疑問はたくさんあるが、多額の報酬や文面から「黙って従え」と言わんばかりの圧を感じた。
仕事上、依頼主のことを深く
場合によっては命取りになりかねないし、それが賢い世渡りだと理解しているからだ。
胡珀はしばらく思いを
宴席から戻ってきた複数の官女がひそひそとささやき合う声が聞こえたのだ。
「ねえ、見た?」
「ええ、本当にお綺麗だったわね」
「まるで現世においでなさった仙人様みたい……」
百里家は代々皇帝に仕える重臣の家系であり、現当主の兄妹はともに非常に優れた人物として知られている。
妹の
特に長男の彼は西方の知識を
その反面、熱心な
百里朮もまたこの国で最も影響力を持つ貴族のひとりだ。
彼も酒宴に参加しているというのならば、特に用心すべきだろう。
妙案を思いついた胡珀は不敵な笑みを浮かべる。
任務を
「でも、
「たしか
「ええ、そうよ。まだお若いのにとても凛々しくて……」
標的を定めた彼の耳に、色恋の話に花を咲かせる官女たちの会話はもう入らなかった。
いつも火炎瓶として常備している特製の蒸留酒である。
酒に混ぜればどんな
わざわざ給仕の女官に
胡珀は何食わぬ顔で宴席に立ち入り、周囲の音を頼りに左端の上席へ近づいた。
宰相は君主の政務を補佐する最高位の
くれぐれも
「失礼いたします。お酒をお持ちしました」
机の位置を手探りで確認しながら杯を置くと、酒をなみなみ注いでいく。
不慣れな手つきを装って
――なんで、何も言わないんだ?
今まで胡珀が盲目であると知った者は何かしら反応を示したものである。
けれども目の前の人物はただ黙ったままで動揺した気配すらない。
標的との会話も想定していただけに、ここまで都合よく計画が進むとは意外だった。
わりと無愛想なんだな、と思い身を引こうとしたそのときだ。
突然手首を強く掴まれ、胡珀は目を
瞬時に身をよじると反射的に腰の短刀に手をやった。
◆ ◇ ◆
――
固まる女官の手のひらに
彼女はおそらく目が見えない。そして自分は話すことができない。
それならばと
手を離すと女官は逃げるように立ち去るが、代わりに周囲からの視線がひしひしと突き刺さる。
今思えば、初対面の女性の手をいきなり掴むのはたしかに礼に欠ける行為だった。
その女官に真意が伝わったかどうか、そもそも彼女に文字が読めるかどうかすらわからないというのに。
隆子君は長い袖から
時を同じくして、先ほどまでこちらを見ていた人々が慌てて目を逸らすのに気づく。
すまし顔を取り
何が起こったのか考えるまでもなかった。
主催者である皇帝が席につき、宴会の始まりが告げられたのだ。
『これより
そんななか隆子君だけは、舞踊には目もくれずにひたすら扇子の影から周囲の気配を探っていた。
北の方角に皇帝の玉座があり、中心の舞台を挟んで左右に卓がずらりと並んでいる。
個々で用意された卓には豪華な料理と酒が置かれ、数百もの高官たちが食事を楽しんでいた。
これほどの大物たちが一堂に会している光景は宮廷でもなかなか見られるものではないだろう。
本来この場所は
おそらく、
隆子君がよりうまく立ち回れるように。
思いどおりに動く
『次の酒宴で、あなたには
少し前に百里一族の屋敷で告げられた言葉を
隆子君は百里家の人間に逆らえない。
それは彼らが身分の高い貴族だからではなく、もっと個人的な借りがあるからだった。
かつて行き場のない孤児だった隆子君に文字を教え、武術の手ほどきをしてくれたのが百里家の前当主なのだ。
前宰相は息子に地位を
武侠は義を重んじる。
隆子君は
けれど
酒杯を傾けながら玉座の方を見やる。
異常はない、と密かに合図を送ると、妹とともに皇帝のそばで控える百里朮が笑みを濃くした。
それから異変に気づいたのは、宴もたけなわに差しかかった頃だった。
ひと通り芸を
この宴の目玉とも言える演目、
その動きには一切の無駄がなく、鬼神役の男の力強くしなやかな一挙一動に高官たちは息をすることも忘れて見入っていた。
隆子君もまた同じように。
ただ、そのときまでは。
神剣が空気を切り裂き、鋭く振り下ろされる。
無意識のうちに隆子君は卓から身を乗り出し、鉄扇子で刃を受け止める。
月の光を浴びて
剣舞用の
『この
気づけば、数十もの武官が隆子君の周りを取り囲んで武器を構えていた。
しかし周囲から視線と
面越しに見える無感情な瞳がじっと隆子君を見返す。
次の瞬間、鬼神の身体から
本能的に身を
後方へ跳んで距離を取るが、大量の煙は
それでも彼は
視界の端に黒装束を見つけ、すかさず掴み取ったが時すでに遅し。
ひらりと黒い布だけを残し、役者は
舞台に残された鬼神の面を拾い、隆子君はようやく気づく。鬼神は
煙に毒は含まれていない。ただの
けれども外界の情報を主に視覚から得ている彼にとっては
これでは刺客を探すどころか、身動きすらまともに取れないではないか。
そのとき、平静さを失う隆子君の視界に
それは百里朮の息のかかった者である
つまりあの場所で何かが起こっているという異変の合図だ。
扇子を振るって
やがて月来香に導かれ、玉座のある
――
「
直後、彼の
衝撃で彼女は後方の壁に強く背中を打ちつけ、針を床に落とす。
これで暗殺者は身動きが取れなくなった。
しかし
百里玉へ向けていた視線を
次の瞬間、即座に身を
心臓が
だん、と踏みこんだ足を見れば、意識せず身体が
目線を動かすと、つい先ほどまで立っていた場所に短剣が突き刺さっている。
まるで獲物を狩る虎のごとき一撃が彼の顔すれすれを通り過ぎたのだ。
徐々に視界が晴れ、その先に
今度は高く
みしりと羽目板が不自然に
◆ ◇ ◆
案の定、口々にまくし立てる彼女たちから
代わりに出てきた名は、かの
彼は
他人との意思
しかし、その隆子君が
胡珀は投げた短剣を回収しに
隆子君こそが
公衆の面前であのような奇行に
けれども皇帝の座る玉座の前まで来たとき、彼は異変に気づく。
血のにおいがしない。刃に塗った毒のにおいも
極限まで気配を消してからの
常人なら気づくまでもなく、刃の
相手は予想以上に手強かった。
それこそ
しかし胡珀もそう易々と敵に逃げられるほどうつけではない。
すでに次への
「
ありませんか、と言おうとした胡珀の声を
「隆子君です!! 陛下の暗殺を
「
どこか
初めて見る彼女の
命を狙われたのだ。無理もないだろう、と胡珀は思う。
けれどもどこか引っかかる。
本来なら武侠にとって国主を殺害する利益はないはず。
それでも衆目に
「女官よ。かの武侠が
皇帝に問われ、
「ええ。直接見たわけではありませんが。彼がこの場にいたのを……」
そのときだった。
◆ ◇ ◆
床に強く打ちつけてしまった背中を押さえ、
そこは船内に設置された倉庫のような場所だった。
室内には乱雑に木箱が置かれ、天井から差しこむわずかな光が周囲を照らし出していた。
上を見れば、今しがた自分が落下してきたであろう穴がぽっかりと開いている。
頭上からぱらぱらと落ちてくる木くずを払っていると、足もとで何かが動いた気がした。
すぐさま身構えるが、木片の山から出てきた毛玉を見て肩の力が抜ける。
毛並みのいい
まるまると太った猫は毛を逆立て、
隆子君が落ちてきたときに
心のなかで
ここはおそらく
闇雲に歩きまわっていても
そう考えた彼は小さき者の知恵を借りることにした。
しかし慎重に歩み始めてからほどなくして、猫が立ち止まった。
衝撃が
再び
その身体の下から音もなく血の海が広がっていく。
駆け寄ろうとした隆子君はしかし、
『おや? 外しましたか』
金糸で
灰がかった青色の
見紛うはずもない。
『おっと、それ以上は動かないほうが身のためですよ』
近づくと撃つぞ――口調こそ柔らかかったが、肉食動物めいた瞳が何よりも
しかし隆子君は迷わず足を踏み出した。
今しがた小さな命を奪ったばかりだというのに、さして悪びれるようすはない。
その狂気すら感じられる態度に怒りが湧き上がったのだ。
「……ぅ……っ」
そのとき、突然くらりとした
固い床に立っているというのに、まるで雲の上のように足もとが不安定だ。
向けられた銃口が二重となって視界をちらつく。
――酒か!
理解するのに時間を要したのは、あのとき酒を一口しか飲んでいないからだった。
『どうせあなたはすべてを察したようですし、特別に種明かしをいたしましょう』
一方で百里朮は
『攻撃の前に
胡珀、という名に先ほど
彼は数々の権力者を
時の皇帝が私兵を挙げても捕えられなかった神出鬼没の
到底信じられなかったが、あの暗殺術も暗中無双と称される彼のものなら納得できる。
『
ここまできて隆子君は己の失策に気づいた。
あのとき
自分が使ったものと同じ、ただの銀製の
それは最初から隆子君を暗殺者にでっち上げるための計画のうちだった。
『言い逃れはできません。そもそも、あなたは
痛いところを突かれた隆子君は奥歯を強く噛み締めた。
朝廷と
『
万事休すと思われた、そのときだった。
『と戦争す、るため……っ?』
百里朮の口からごぼっと血が
いつのまにか、彼の胸もとから
ぶれて定まらない視界のなか、隆子君は彼の背後に立つ
『……』
短刀を握りしめ、百里朮の背を的確に刺している。
ここまで完璧に気配を消せる刺客。
思い当たる者はひとりしかいなかった。
『な、ぜだ。胡珀は、宴席にいた、はず。それに、あなたなら、わかった、はずだ。私が、依頼主だ、と……』
『……いらいぬし?』
少女はきょとんと小首を
『そんなのしらない。おまえは刺客、
たしかに先ほどの百里朮の言葉は、己が暗殺者であると公言しているようなものだった。
しかしそれは、その場に隆子君しかいないことを前提とした発言。
すると、宴席にいた胡珀は――。
『はは……なるほど、別人か』
今さら気づいたところで後の祭りだった。
百里朮の背中から勢いよく鮮血が噴き出した。
崩れ落ちていく彼を見もせずに、盲目の少女がぽつりとつぶやく。
『兄さん。おしごと、おわったよ』
この瞬間まで、誰ひとり知る者はいなかった。
胡珀が
そして、それこそが彼らが神出鬼没たる
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます