第3話
あまり驚かないのが、意外だった。
「石川です。よろしく」
身をかがめて手を差し出す石川さんに、英恵は少女のように笑顔を弾ませて握手をする。
「英恵です」
皆でレセプションへ行き、石川さんがカタコトの北京語で、部屋の移動を宿の人間に交渉する。少し手間取ったようだが、了解が取れてオッケイと僕らに頷く。
「英恵ちゃん、普通だね」
「驚かないね。あたし、驚いたけどな」
荷物を持って、上の階の四人部屋へと移動する間に、僕は佳代とぼそぼそ耳打ちをする。
「そうそう、どうやら行けそうだよ、例の場所」
ひとり一台のベッドとなった部屋の奥で、大きな荷物を整理しながら石川さんが言う。
「お、そうなんですね。行くんですか?」
「うん。けっこう遠いみたいだ。車をチャーターして、片道二時間ちょっとの行程だって」
「歩いて行ける場所じゃないんですね」
「明日、料金交渉してみる。ぼられはしないと思うけど」
移動ついでに、ようやくぶっ散らかしていた荷物を片付け始めた佳代が聞いてくる。
「ねえ、あれのこと? 聖なるなんとか? どんなんだかわかったの? 教えて教えて」
「あの、何のお話か、聞いていいですか?」
英恵も会話に入ってきたので、石川さんが説明する。
「ここから、さらに奥地へ行ったあたりに、地図には載っていない、聖なる地っていう場所があるそうなんだ」
「聖なる地? それは、なんですか?」
「よくわからない。変なところだって」
イタリア人に聞いた話なのだけれどと、高い背を屈めるようにベッドに腰を下ろし、石川さんは続ける。
「今どんな風になっているのか、以前はどうだったのか、何か特別なものがあるのかどうかも、みんな不明で」
「なによそれ。情報ゼロじゃん」
「でも、アンビリーバボーだって。とんでもなく」
皆、自分のベッドに座り、石川さんの話に耳をそばだてる。
「廃墟とか、廃村か、それとも古い遺跡みたいなニュアンスが伝わってきたけれど、イタリア人が英語があまり通じなくて。ともかく、不思議な場所だと言っていた」
僕よりも前にこの村に着いていた石川さんは、鳥葬を待ち続けるヒマにまかせて、毎日その話を村のあちこちで聞き込んでいた。
「なにかさ、夏藩の人たちは、そこを知らないのではなくて、知っているけれど、言いたくないような、そんな感じを受けるんだよな」
「そう言ってましたよね」
「中にはあからさまに、その話はしない方がいい、触れない方がいい、なんて言う人もいたしな」
「なんか、ヤバい場所なのかな?」
佳代が聞く。石川さんは、どうなんだろうね、と首をひねる。
「昔この地方で、何か大きな事件があったみたいなことも聞いた。村の外へ出ることを一切禁止された時期があったとか。それを詳しく聞こうとすると、みんな貝みたいに、口を閉ざしちゃう。そもそも、チベット全体が、基本的によそ者立ち入り禁止地区みたいな場所だからな」
低く朴訥な声で喋り続ける石川さん。この人は声は大きくないのだけれど、喋り方の間の置き方というか、テンポが良い具合にのんびりとしているので、相手は聞き逃すまいと、逆にじっくりと耳を傾けさせられてしまう。
「でも、場所がわかって、行けるのね」
「うん。馴染みになった寺の関係者から、ようやく了承をもらえた。そいつが車でこっそり運んでくれる。村の人間には絶対に内緒にしてくれって言われた」
「なんだか面白そうね。あたしも行っていいかしら?」
他のことには全く興味を示さなかった佳代も、この話には食いついてくる。ここに来てから佳代は、ほとんどどこへも行かずに、ドミで本を読んだり、ずっと寝てばかりいた。顔を合わせると、にこやかに喋ってくれるけれど、そういう退屈な時間の中で、負の思考をさらに巡らせてしまわないだろうか。
「うん、それなんだけど、どうだろう、よければそっちも、皆でシェアして、一緒に行かないかなと」
「あ、ぜひぜひ」
「いいの? あたしも行く行く」
興味深そうに聞いていた英恵も、身を乗り出してくる。
「あの、初対面であつかましいですけど、私もそれ、ご一緒していいですか?」
石川さんはうーんと唸る。
「運転手を入れて五人になると、ちょっと車の中狭くなるけど、いいかな?」
そうなんですかと、遠慮しそうな英恵を見て、僕は言う。
「大丈夫だよ。以前もランクルで運転手を入れて、五人でネパール国境まで一週間移動したこともあるし。せっかく集まったんだから、皆で連れ立って行こうよ。あ、石川さんでかいから、助手席ね」
じゃあ四人ということで交渉してみるよと、石川さんは言う。
「わあ、すごく嬉しいです。ここに来てから、なんだかすごく、運がいいです。色々楽しみができました」
邪気のかけらもなく笑う英恵。けだるげな佳代と違って、こういうのがいると、花でも飾ったみたいに部屋の空気が明るくなる。
「英恵ちゃんも、鳥葬を見に来たんだね。ここにいるみんなそうか」
「さっき名前つけたの。チベット死神仲間」
佳代が言い、石川さんがあははと笑う。
「少し前までは、四川とかでもわりと見られたそうなんだけど、今は本当に難しくなっちゃってな。画像、少しあるぞ。人からもらったものだけど」
「え? 鳥葬のですか? 見せてもらっていいですか」
石川さんがノートパソコンを開いて、僕らも見せてもらったことのある、鳥葬の画像を英恵に見せる。巨大なハゲワシが、鳩おじさんにむらがる鳩のように、画面いっぱいを埋め尽くし、かなり怖い。
「鳥葬も、場所によって、やり方が色々と違うそうだ」
一枚一枚にふんふんと頷き、モニターを眺めていた英恵だったが、そのうち、視線は画面から別の方向に固定された。
「うん? どうした?」
自分にじっと向けられるまなざしに気がつき、石川さんが聞く。英恵が大げさに、いえいえなんでもないですと、首をぶんぶん振って答える。
ひと通りを見せ終え、先にシャワー浴びに行っていいかなと、オケと手ぬぐいを手にして、石川さんは部屋を出てゆく。
廊下の気配が消えると、英恵が僕らに向き直る。
「びっくりしましたあ!」
「あああ」
「うわあ」
いきなり言われ、こっちがびっくりさせられる僕と佳代。
「石川さんって、ものっすごく、かっこよくないですか? 声も素敵だなって思ってたんですけど、なんなんですかあれ? 役者とか俳優? 思わず見とれちゃいました。もう、びっくり!」
何をいまさらと思う。あれだけ近くに寄らないとわからないのか。
「石川さんって、すごい人だよ。世界一周なんかは当たり前にしてるし。一番驚かされたのはね、エベレストに登ったことがあるんだって」
「エベレスト? エベレストって、世界で一番高い山ですか? あれ、登れるものなんですか?」
「うん、登ったって。画像もあったから、見せてもらいなよ」
「はい、ぜひ! あと、気になってたんですけど、そこに、ギター、ありますよね」
とても僕らでは担げそうにない、石川さんの大きな荷物の横に立てかけられているケースを指差し、英恵が言う。
「石川さんのだよ。ずっと一緒だって。すごいよね」
「持っている姿、似合いそうですよね」
「石川さんはね、うーん、なんていうのかな、スナフキンなんだよ」
僕が言うと、誰ですかそれと、また声を合わせて聞かれてしまう。今度はがんばって説明してみる。言いたいことは、なんとか通じた。
「さっき言ってた、吟遊詩人、の方なんですか?」
「そう。歌いながら旅をして、町から町へと世界中を巡ってる」
「かっこいい。私もぜひ歌、聴いてみたいです」
英恵と佳代は歳があまり変わらない。僕は佳代より五つほど年上で、石川さんはさらに五つ上だった。まあ、皆そう年代は変わらないのだろう。
そんな四人が同室となり、英恵の登場もあって、自然と会話も弾み、少しばかり心もちが明るくなってきた。こんな夜は、どのくらいぶりだろうかと思う。
「あぎさんも変わってるよ。あのね、ここに来るの、二度目なんだって」
佳代が振った話に、英恵がそうなんですかと反応する。
「ええまあ。……去年の春頃に、一度ここに来て、宿もここだったな。その時は、到着してすぐに、鳥葬やってました」
「え? じゃあもう、あぎさんは鳥葬見てるんですか?」
僕はううんと首を振る。佳代が横から言う。
「せっかくやってたのに、あぎさんその時、高山病で具合悪くて、行けなかったんだって。それがくやしくて、またこうやって来てるんでしょ」
そんなところだよと、僕は答える。今度は見れるといいですねと英恵が言い、そうだねと頷く。
つまりは、タイミングよく、人死にがあるといいね、と言うことだ。
美也子を失ったのは、こういう不埒な気持ちへの罰だったのだろうか。だとしたら、ここにいる皆は大丈夫だろうか。鳥葬を見ることができたとしても、美也子のようなことにはならないだろうか……。
「そんなに、お金かかるんですか? エベレストに入るだけで」
「人数が集まれば、かなりディスカウントするんだけどね」
訪れの遅いチベットの夜も更け、シャワーを終えて着替えた僕らは、ベッドの上で石川さんの話を聞いていた。英恵の要望に応えての、エベレスト登頂までの内容だった。僕も佳代も、あまり詳しく聞いたことはなかった。
「母校の登山隊に運良く潜り込めて、幸運だったんだ。それでもかなりのお金がすっ飛んだけどな」
エベレストに登るためには、べらぼうな登山料が取られることと、シェルパ付きの登頂ツアーが中国ネパール両国で用意されているけれど、それも目が飛び出るような高額であることと、そして八千メートルオーバーの山に挑戦するまでに、長い時間をかけて、本格的な登山の訓練と、高度順応をする必要があったことなど、興味深い話を続けてくれた。
「それで、どうだった? 世界のてっぺん、この世の上の果ては」
「最終キャンプから山頂へ向かう未明、天候に恵まれてね。なんていうか、全てが言い表せないくらいの美しさだった。景色がみんな、群青に紫がかった色、というのかな、桃色がかった深い青で覆われて。ここから上にはもう何もない、ここより高い場所はどこにもない、そんなことを実感させてくれる、神聖な青の領域だったな」
やはり実際に、足でその場所に立った者の言葉には味わいがある。山は人間を、無駄に詩人にするのだろう。
英恵がふうと、感嘆の息をついて言う。
「すごく素敵そうですね……。チベットの空って、天気がいいと、何かもう夢みたいに綺麗じゃないですか。それよりも、もっとすごいんですか?」
「そうだけれど、エベレストもチベットだよ」
「ああ、そうですよね」
「ねえ、エベレストとかチベットって、国としては、どこなの?」
生意気に、佳代がまともな質問をしてくる。自分が今どこにいるのかもわかっていない旅行者というのがたまにいるが、こいつがまさにそうなくせに。
「チベット圏ってのは、ここ中国の他に、インドやネパール、ブータンなんかも含まれるかな。エベレストは、ネパールとの国境にあるから、両国のものかな」
頂上に中国ネパールの国境線が走るエベレストは、どっちのものかで密かに議論が行われているという。富士山における静岡と山梨の戦いと同じだろう。
「石川さんって、エベレストだけじゃなく、世界中を旅行しているんですよね」
「そうだよ」
「バックパックも、山登りに使えそうなくらいに、大きいですよね」
「登山の装備も、いくつか入ってるんだ。結構流用が利くから」
石川さんはこれまでに、世界百五十ヶ国以上を巡っていて、現在も二年目になる長期旅行の途中で、帰る日どころか行き先すらも決めていない、典型的な廃人レベルのバックパッカーである。ギターを抱えたりしてかっこいいけれど、別にミュージシャン志望というわけではない。そもそもわりといい歳で、一般的に見れば、もはやただのダメ人間である。
「どこの国が、一番良かったですか?」
「国というよりも、チベット圏だよ。ここが一番好きかな」
「へえ! 世界中を見てきても、ですか。そのくらいに、ここは素敵なんですね」
なぜかひどく嬉しそうに頷く英恵に、石川さんが言う。
「いやいや、好みの問題だよ。英恵ちゃんも、これから色々と行ってみたら、俺の知らない、もっと好きになれる場所だって、見つかるかもしれないよ」
一人旅もこれが初めてだという英恵は、心なしか笑顔をわずかに曇らせて、それに答える。
「そうですよね。……でも、たぶんこれが、最後の旅行になりそうなんです。最初で最後なんです。だから、ここが一番だっていう石川さんの言葉が、なんだか嬉しいんです」
そもそも普通に真面目に生きていれば、日本人に長期旅行というものは、本当に難しい。先進国のくせに、一生できないのが当たり前である。それどころか、悪いことでもしているようなイメージすら、どういうわけか持たれてしまう。江戸時代には庶民がさかんに旅をし、こんなに旅行好きの国民は他にいないと、欧米人が驚いたそうだけれど、えらく変質したものだ。
「そうなんだ。それならば、鳥葬もぜひ見られるといいね」
「はい。私、見ておきたかったんです。今のうちに、一番きれいで、一番近い空と、そこに魂が還ってゆくっていう鳥葬を。……私、もうほとんど、目が見えてないんです」
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