第2話

 夏藩賓館という、名前だけは立派なゲストハウス、いわゆる安宿の、二段ベッドが並んでいるドミトリー、ドミと呼ばれる、ザコ寝の大部屋に、佳代と戻ってきた。

 同部屋のやかましい漢族の客は、誰もいなくなっていた。彼らは息継ぎのようにタバコを吸い、足元に吸い殻を捨ててベッドの下に蹴り入れるので、床はえらいことになっている。アップデートしなかった日本の昭和のおっさんそのままだよと、佳代は泣くほど嫌がっていた。

 部屋にひとりだけ、客が残っている。

 下段ベッドで荷物を整理している小柄な女性。すぐに彼女が、日本人なのだとわかる。同族は同族を、なんとなく見分ける。

「彼女だよ。ほれ、あぎさん言って言って」

 佳代にせっつかれ、こほんと一度咳払いをしてから部屋に入り、女性に声をかける。

「こんにちは」

 ごんっ。

 声をかけられた女性が、驚いて振り向き、立ち上がって返事をしようとして、頭を思いっ切りベッドにぶつける。

「ああっ、ああああへあ!」

「へあ? あだ、大丈夫ですか?」

「いいいったったったったああ! ……あ、こここん、こんにちは、日本の方ですか? 驚いた、他にもいらっしゃったんですね!」

 ぶつけた拍子にズレた眼鏡を直しもせず、大きな目をまばたかせて、女性は嬉しそうな表情で聞いてくる。僕ははいと答え、旅行者同士の決まりきった挨拶を交わす。

「今日着いたんですか?」

「はい、さっき。この町にはいつからですか?」

「明日で、二週間目くらいです」

「わあ、長いんですね。どちらから来られまし……スミません、ちょっと、待っててもらえます?」

「はい?」

「はぁあ~ああああ」

 女性は、よくない種類の霊を下ろしたイタコのような声を上げると、頭を押さえてベッドに倒れ込み、足をばたつかせて転げ回る。

 やがて峠は越えたようで、眼鏡を直してこちらに向き直る。

「あの~、さっきシャワーを浴びに行ったら、水か熱湯しか出なかったんですけれど、あれは一体、どうしたらいいんですか?」

 肩までの濡れた髪を光らせ、はっきりとした快活な口調で聞いてくる女性。僕はくすりと笑い、あれですかと答える。

「どうしようもないです。僕は熱湯を選んで、一番下のあたりでヤケドしそうになりながら浴びてました。他の人は水を選んで、唇を紫色にして出てきました」

「えー、そうなんですか。寒いのに、かなり辛いですね」

「でも、他の日本のひとが素晴らしいものを手に入れて、それをみんなで使わせてもらってます」

 空の石川さんのベッドの下から、大きな桶を出して見せる。

「好きに使っていいって。水とお湯を混ぜないといけないから面倒くさいけれど、行水できるし体も洗えますよ」

 素晴らしい、ぜひ使わせて下さいと言う女性。小さな顔に、大きな目と大きな口。可愛らしく描かれたカエルのような、愛嬌のある顔立ちをしていた。

「あの、夕食とか食べました?」

 まだですと答える女性に、ご一緒しませんかと誘う。支度しますという女性を残して、廊下に出てきた僕に対し、佳代が言う。

「なに誘ってるのよ。さっさと切り出せばいいじゃない」

「いや、いきなり一緒に泊まりませんか、なんて言えないだろ。ものごとには順序というものがあるの」

「順序? あたし、そんなの考えたこともないわよ」

 ドミトリーから出てきた女性に対し、こんにちは、いやこんばんはだな、と挨拶をする佳代。女性は佳代の顔を見ても驚くようなことはなく、顔をほころばせる。

「こんなに日本の方いらっしゃったんですね。私、ここまでの道中で、一度も会いませんでしたから、ちょっとビックリです」

「そうだよねー。このへんいないよねー」

 丁寧に話す小柄な女性と、いきなり馴れ馴れしい背の高い佳代。しがらみのない場所での初対面というものは、ひととなりというかキャラがよく現れるものだ。

 薄暗い廊下をたどり、外に出るまでの間、女性はしきりに壁に手をつき、階段では段差につまずいて転びそうになっていた。ベッドに頭をぶつけたりと、子供のようにそそっかしいのか。

「さっきまで雪だったのに、すごくいい天気になりましたね。空がほんときれい」

「子供の頃の、夏休みの色だよね」

「この地方って、雨は少ないんですか?」

 女性に聞かれ、僕が答える。

「雪は多いけれど、日本みたいに一日中降り続くようなことは、まずないそうです。一年のうち、晴れる日が三百六十日以上とか」

「へええ。じゃあ、ここの人たちは、生まれてからずっと、こんな空を毎日眺めているんですね。羨ましい」

「でも、地球規模の気候変化のせいか、最近たまに、雨も降るみたい」

 以前、チベットの別の町に滞在していた時に、そこで過去数十年間なかったという豪雨に見舞われて、住民がパニックに陥った話をすると、もう一度女性は興味深そうに頷く。佳代は興味なさそうにそっぽを向いている。

 そういえば、石川さんからも似たような話を聞いた。温暖化のせいか、ヒマラヤの万年雪が溶け、過去の遭難者の遺体がゴロゴロ出てきているのだと。そのうちこの夏藩にも、ざあっと雨が降ってくる日が来るのかもしれない。

「どこにしよっかな……」

 宿から出て、中折れ帽子にチュバをまとったチベタンたちの往来する、ささやかな夏藩のメインストリートをたどり、いくつかある食堂を選んでいると、顔なじみになった店のおばちゃんがおいでと声をかけてきたので、そこに入って席につく。

「素敵な村ですね。こんな所に来たかったんですよ」

 ほのかな黄色の灯かりが照らす、百年前からそのままのような古い作りの店内を見渡し、女性が言う。

「ゲームの中の、旅人の村って感じだよね」

「旅の剣士とか、占い師とかがいそうですよね」

「吟遊詩人ならいますよ」

 木のテーブルに並べられた炒飯を食べ、湯を入れるとグラスの中で花が咲く八宝茶をすすり、これまでの旅の行程などを語り合う。旅人同士はまずこれで、会話が成り立つ。

「あの、ここにはどのくらいいます? この先どちらを周る予定ですか?」

「ここが目的地だったんで、しばらくいたら、そろそろ帰ります。もうかなり、やばいかもなんで」

 へえと声を上げ、こんな辺鄙な所にわざわざなんだと言う佳代に、女性が答える。

「鳥葬を見に来たんです」

 僕と佳代は、同時に目をまばたかせる。

「この村で、まだあるって、そう聞いたんですけれど、……どうですか?」

「……あるみたいです、鳥葬」

「あ、よかった。本当だったんですね。どこでですか?」

「お寺の裏手に、係りのいる小屋があるんだけれど、そこの門から入って、ずっと登っていった先の、丘の上が鳥葬台です。でも、なかなか見られなくて」

「あたしも、それが目的で、ここに来たの。……あたし、相田佳代。カヨです」

「へえ、結構有名だったんですね。私は高瀬です。よろしくです」

「よろしく。うちらずっと、それを待っているの。死体が登場しないと始まらないし、それが確実にわかるのが当日の早朝だから、毎日早起きして、小屋のおっさんに、あぎさんたちと聞きに行ってるんだ。今日でもう到着から一週間待ちぼうけ。……なんだかさ、やってること、やばいよね。人死にが出るのを待っているんだもんね。死神みたい。うちら死神仲間」

 佳代がけらけらと笑う。確かにそうだなと思う。あまり褒められたものではない。

「あぎさん、ですか?」

「阿木です。よろしく」

「もっと長居してる、日本人の死神がもうひとりいるよ。今はどっか行ってていないけれど。別の店で夕飯かな?」

 ドミにいなかった石川さんは、滞在して一ヶ月近く経っている。鳥葬なかなか見れないねと話していた。美也子はよっぽど、運が良かったのか。それとも、悪かったのか……。

 頃合いを見て、よければ皆で、四人部屋に移って料金シェアしないかと誘うと、女性はぜひにと答える。

「あたし、たまにイビキかくから、よろしく」

「僕、ほんのたまに歯ぎしりするみたい。許して」

 女性がそれに続けて言う。

「あの、私、寝言で叫ぶことがあるんです。ごくたまに」

 夜中に突然、女が叫ぶ様子を想像する。かなり怖い。佳代も石川さんもかなり変だけれど、もしかしたらこの女性もそうではないかと思い、ちょっと不安になってくる。

「ね、ね、下の名前なんていうの?」

 佳代に聞かれ、英恵ですと答える女性。さらに、英恵ちゃん何歳? と、いきなりちゃん付けで、年齢を聞き出そうとする佳代。

「もう、二十代も終盤ですよ。佳代さんはおいくつなんですか?」

「え? あたしもだよ。見えないね。ちょっとビックリ。あぎさんいくつに見える? これで三十超えてるんだよ。信じられないよね。学生みたい」

 世を知らぬ少年のような、浮世離れした佳代に話しかけられると、無遠慮な質問でも受け入れてしまう。こういう性格は、本当に得だなと思う。

「危ないよお。英恵ちゃんみたいな可愛い子が、女ひとりでこんな所にまでやってきて、うかつに大部屋なんかで泊まってたら、こんな風にされるよー」

 佳代が髪をかき上げ、火傷の痕をさらして言う。僕は目を剥いて驚く。こいつは一体、何を考えているのか。

「あれ? それ、何か付いてるんですか?」

 英恵が身を乗り出し、佳代の顔を間近で覗き込む。僕はさらに驚く。佳代も自分からやっておきながら、表情をこわばらせる。

「えーと、あれ、あ? ……あああ、ご、ごめんなさい!」

 びくりと、伸ばしていた体をひっこめ、あわてて頭を下げる英恵。

「私、よく見えてなかったものだから……」

 佳代は全然いいってと答える。僕は気まずくなりそうな空気をごまかすために、この店の鶏料理の話なんかを始めようとするけれど、完全に無視して英恵が口を開く。

「どうされたんですか? それは、旅先で、何かあったんですか?」

 躊躇しながらも、それをはっきりと聞く英恵。

「うん、バンコクでアホにやられた。セックスさせすぎてたら勘違いして、束縛してきてうっとおしかったから、他の男と遊びまくってるの見せつけてやったら、いきなり着火された」

 少しは言葉を選ぶかと思ったら、これだ。

「あの、いつ頃ですか? それは」

「ええと、半年くらい経ってるな。もうそんなかあ……」

「Ⅲ度ですよね? そうなってから、日本に帰ってないんですか? あの、日本の病院で、ちゃんと治療されたりした方がいいんじゃないですか? その、どこかを移植するとか……」

 僕がやはり最初に聞いたことと、同じことを英恵は聞いている。

「Ⅲ度いっちゃったよ。植皮のこと? 詳しいね。腿かケツあたりから剥いで、やるのもありなんだろうけど、どっちにしてもこれ、範囲が広すぎて、もう元には戻らないんだってさ。なんかさ、形がアフリカに似てるでしょ? ふふ、顔にアフリカ大陸を持つ女です」

 冗談めかす佳代の言葉に乗り、月影千草みたいだよねとおどけると、誰ですかそれ、誰だよそれと、二人同時に聞かれたので、何でもないですと答える。

「あ、見て、石川さんだ」

 佳代が窓の外を指差して言う。颯爽とした後姿にすぐわかる。こわばった空気のタイミングを計ったかのような、粋な現れ方だ。

「例の調べ物かしら。食事済ませて宿に戻るんだね。うちらも行こう」

 世界のどこの町の食堂にも九割方いる、優しいんだか不愛想なんだかわかり辛いおばちゃんに会計を済ませ、一割弱の確率でいてくれる、我が目を疑うほどの可愛い娘が皿を片付ける姿を眺めながら、三人で店を出る。

「……今の子、すごい美人でしたね」

「チベタンにはああいう、素朴な美形が多いよな」

「あんなに長い黒髪、日本ではとっくに絶滅危惧種だわ」

「どうしてかな」

「美容室だらけだからでしょ。コンビニの四倍以上あるとか。そいつらがスキあらば染めにかかるのよ」

 日本に美容室が異常に多いのは確かだけれど、その分美容師の腕は競争で鍛えられ、世界で一番上手なのだと聞いたことがある。真偽のほどはわからないが、他国がヘタなのは本当だ。ネパールの床屋で切ってもらった時、素人以下の手際を披露された上に、前髪を水平カットされ、美也子に大爆笑された悪夢がよみがえる。

「空、明るいですね。これって、北欧の夏とかと同じなんですか?」

「あれとは違うんだ。こっちも夜が遅いけれど、その分朝も遅いだけで」

「朝、いつまで経っても、まっ暗だもんね」

 時計は夜の8時だけれど、外はまだ真昼のように明るい。国内の時差を設けていない中国西部ならではの白い夜は、夜型の僕などにはむしろ居心地が良かった。

 ゲストハウスまでの道中、ちょっと水買ってくると、佳代が店に入っている間に、英恵が僕に聞いてくる。

「あの、あぎさんと佳代さん、ご同行されてるんですか? 恋人?」

「いえいえ。ここで知り合ったんです。どっちもひとり」

 そうなんですかと答え、佳代をちらりと見て、英恵は楽しそうに言う。

「佳代さん、かっこいいですね。綺麗だし、背高くて。すごく細いけれど」

 そうだねと答え、英恵さんも可愛いですよ、などと言おうとしてやめた。そんな台詞が初対面の女性に繰り出せるような、うらやましい男では僕はない。体のわりにやたらと胸でかいですね、と言おうとして、もっと無理だろうと思ってやめた。

「石川さんって人、もっとすごいですよ」

「え? そうなんですか? どんな?」

「見ればわかります」

 楽しみですと言い、本当に楽しそうにしながら、ほうぼうを眺める英恵。

「こっちの人たちの服って、すごく着膨れして見えるのに、袖をまくっている人が多いですよね。あたしこれ、ポンチョみたいで可愛らしくて、好き」

「あれだったら、中に何着ててもわかんないもんね。エロい下着だけとかさ。あ、そういう趣味のひと、絶対いる気がしてきた。緊縛してるとか」

 店から出てきた佳代と、愉快そうに喋りながら宿まで歩く英恵。こんな地の果てまで、ずっとひとりで不安だったのだろう。そして、思いもよらず日本人仲間ができて、嬉しいのだろう。

 ほんの少し、英恵は美也子に似ている気がした。小柄なところと、それから……何だろうと思う。

 大きな食堂の前を通り過ぎる時、ここで初対面の佳代と、ヒマにまかせて、いつまでも話していたことを思い出す。白く色づく丘の景色を眺めながら、暗い店内でストーブの炎に照らされていた、一週間前の雪の日の午後だった。


         ☆


「鳥葬で自殺したいの? やめなよ、むちゃくちゃ痛いよ? インコならともかく、オウムの本気噛みってやられたことある? ペンチみたいで……」

 九官鳥に突っつかれた痛みもついでに思い出しながら言うと、初対面の佳代はぱたぱたと手を振ってそれに答える。

「違うわよ。たぶんそれ、死ぬほど痛いわよ? いや、死ぬんだから、死ぬほど痛いってのは、なんかおかしいけれど。そうじゃなくてね、あたしがして欲しいのは、死体処理」

「死体処理」

 犯罪ドラマなどで登場しそうな言葉を、僕はラム肉の串焼きを頬張りながら反芻する。ありえないほどしょっぱくて美味しいのだが、塩分控えめなどという甘えた考え方は、チベタンにはないのだろうか。

 アフリカにいるバターを丸かじりするワイルドな部族と、揚げたピザをリッターコーラで流し込むごく普通のアメリカ人と、揚げマーズバーとかうなぎゼリーなんかで毎食我慢大会をやっているイギリス人とでは、どいつが一番健康によろしくないだろうか、などと妄想が膨らんでゆく。

「生きたままでも、鳥葬台に裸で寝っ転がっていれば、ハゲワシさんたち、ついばんでくれるのかな? でも、そりゃやだよ。生きたままヒッチコックされるなんて、どんなスプラッタよ」

「ヒッチコックっていうのはね、鳥に襲われるって意味じゃなくて……」

「知ってるわよ。バカにすんなよ。死ぬのはね、ほれ、これ。インドで手に入れた、絶対死ねるらしい薬」

 向かいの席の佳代は、薄闇の落ちる木のテーブルの上で、大きめの青いカプセルを差し出して見せてくる。

「成分は何?」

「知らない」

「どうやって手に入れたの?」

「バラナシで沈没してた、オランダ人の変態のヒッピーがくれた。お守りとして持ってて、いつか自分もこれを使って、旅の中で死ぬんだって言ってた」

 効果は折り紙つきだと聞かされたそうだ。なにやら眉唾ものだけれど、インドとオランダという濃厚な組み合わせには、死への厭なリアリティがあり、あるいは本物かもしれない。

「カゼ薬だったりして」

「あぎさん、ちょっと試してくれない?」

 初対面の佳代に、あぎさんと呼ばれるまで五分もかからなかったし、こういう軽口が出てくるまでに、まだ三十分と経っていない。

「あのさ、質問」

「はい」

「どうして死にたいと……」

「あぎさんはさ、あ、この子とセックスしたい、って思って、できなかったことある?」

 質問を受けておきながら、無視して佳代は、なんかすごいことを聞いてくる。

「それは、好きになった人と、つきあえたかどうかってこと?」

「違うよ。ただ、セックスできたかどうか」

「できた方が少ない。と言うか、ほぼない」

 それでも頭の中で、今までの乏しい甘い経験を、ひとつふたつと数えてみる。見栄を張って、なんとか回数のカウントを増やそうとしている僕に、佳代が言う。

「あたし、その気になったら、誰とでもできたよ。ただあたしが、その気になるかどうかだけ。セックスは十七歳で、四年で飽きた。飽きたっていっても、嫌いじゃないし、生きてる限り続けるものだから、ずーっとしてるけどね」

 数えるのが虚しくなってやめる。十七歳と言えば高校二年生だ。クラスの仲間内で初体験を済ませた奴はヒーローだった。魔物を倒してきた勇者の武勇伝を、皆で興奮しながら聞き入ったものだ。もしもあの頃、こんなのがそばにいたら、怖くて近寄れなかったかもしれない。

「小さい頃から、男の人はみんなあたしに、興味を持ってきたもん。ファンだとかいうのが必ず周りにいたし。君には他の誰にもない何かがあるって、学校の教師に崇められたこともあったな。ちょっと隙を見せると、ほぼ間違いなく、向こうから誘ってくるの。そんなんだからさ、セックスするのに、特別な出会いも理屈も必要なかったし、順序とかかけひきなんて、ただ面倒でしかなかった。ましてや恋愛を前提になんて、うっとおしくて」

「罪悪感とか、なかったの?」

「罪悪感? なんで?」

 宇宙人を見る顔つきになり、驚くように聞き返してくる佳代。

「大体の女性は、セックスをすることに、なんか、こうあるべき、みたいな理屈と、納得をしたがるもんでしょ。ただ性欲だけ、でしましたなんて、親が死んでも認めない戦いをしてるし、やったらやったで、楽しく終わったはずのその後に、謎の罪悪感を発現させるもんだから、男も女もその処理に困る」

 山の天候と同じで、非常に変わりやすく、また危険なものとされている現象であり、山の神が女性であるという根拠にもなっている。そんな説ないけど。

 鼻をふんと、ピーナッツでも詰まっていたかのように鳴らす佳代。こういう仕草が許され、嫌味なく似合って見えるのがすごい。

「そんなもん、かけらもなかったよ。終わった後にはありがとうなんて、神にでも感謝するような言葉をよく囁かれてたから、いいことした感はあったかな」

 暗い店内の隅の、さらに深い闇が落ちていそうな、長い前髪の間から、佳代が吸い込まれそうな優しい目で、もてない人間に対して、あまり優しさのない話を聞かせてくる。これまでの自分の人生が、何かすごくつまらないものに思えてきそうだ。

「そのせいかな。なんかね、あたし、ストレスとかって、あまりないの」

「なんとなく、わかる気がする」

「あぎさんは、ある?」

「あるよ。それには自信ある」

「したい時に、好きな人といくらでもセックスできたら、どう?」

「半分くらい、なくなるんじゃないかな」

 実際にそういうおサルさんがいると聞いたことがある。そのくらいに、セックスというのは偉大なものなのだろう。人類の進化のほとんどは、性欲によってもたらされたと言われているくらいだ。今考えた説だが。

「きっとさ、奇麗事を取っ払った、人間の根源的な渇きが、根本的になかったからだと思うの」

「そうだろうね」

「でもね、その代わりにね、何かを始めようっていう、夢とか憧れなんかも、あたしにはないの。だって、何も始めなくてもいいんだもん。あるのは、虚無だけ。今が失われてゆく虚無。私にあるのは、ただそれだけだった。あ、あとは、雷が嫌いだな。目の前の電柱に落ちてきたことがあってさ……」

 僕は雷好きだよと口を挟むけれど、無視して続ける佳代。

「いつかやってみたいことも、努力してなってみたいものも、叶えてみたい夢も、何も無かった。愛とか恋とか好きになるとかもね。誰かにこだわったり、誰かに縛られたりする必要性が、そもそもなかったしさ」

 今日の朝、ゲストハウスに到着した佳代と、宿の廊下で初めて顔を合わせた。

 雪も降り出し、一日中ヒマなので、お茶でもどうですかと誘い、村で一番大きなこの店で喋り続けていた。夏藩の人たちにとってここは、バーや軽食やレストランやおっさんの集会所も兼ねている、便利な場所なのだろう。

 ざわざわと、北京語とは少し違う言語が、昼間の闇に沈みそうな店内から聞こえてくる。電気もない時代の絵のようなこの様子は、昔のままそう変わらないのだろう。

 僕らの他には誰も、日本語のわかる人間はいない。おかげでセックスがどうのと、周りを気にせず喋ることができる。そんな中で、最初の挨拶代わりのように伝えられた告白は、冗談にしか受け取れなかった。


――私の体を、あそこで解体してくれない? ハゲワシさんたちは細かく砕いた遺体じゃないと食べてくれないそうだから、あそこで私を、空に還す手伝いをしてくれない?――


「でも、これやられちゃってからは、みーんなダメ」

 右の頬で、大きなアザとなっている火傷の痕を指差し、暗い印象派の肖像画のような笑顔を見せて、佳代は言う。

「結構キレイになったのよ。それでも、こんなもん」

 天井から吊られている裸電球に、明りはまだ灯っておらず、薄闇の中の視界は乏しいけれど、それでも佳代の顔のアザは、はっきりと見てとれる。

「それが、死にたくなった理由?」

 佳代は、まあねと答える。

「もう、帰れないし、戻れないよ。日本にも、どこにも」

 こんな場面で口にすると似合いそうな粋な言葉は、僕には何も浮かんでこなかった。読書量が足りなかったか。

「バンコクの病院から出てきて、すぐにインドに行ったんだ。ガンジス川へ。あぎさん、バラナシ行ったことある?」

「うん」

「インド人にとってはさ、死んだらあそこで焼かれて流されるのが、最高の幸せなんだってね。そんなに素敵な場所ならばと、行ってみたんだ」

「心を癒しに?」

「違うわよ。流されよっかなと思って」

 バラナシや、さらにガンジス上流の町で見た、聖なる流れのせせらぎで沐浴する人たちを想う。

 プカプカと浮かんでくる生焼けの人間。そのそばで洗濯をする女と、さらにその隣で排泄をしていたおっさんの姿。まぶたの裏に浮かぶ、悠久の流れ……。

「でもさ、あまりにも、あんっっまりにも汚いから、もうげんなりしちゃって。酒代わりにバングラッシーぶっこんで、しばらく廃人やってたんだけれど、そこでこの町の鳥葬の話を聞いて、それだ! って思ったの」

 この地方に残る奇習、鳥葬。

 遺体を野外で解体し、飛来するハゲワシに食べてもらうのだ。肉体を魂と一緒に空へ帰すという意味がある。骨まで細かく砕き、全部鳥に食べてもらうので、地上には何も残らず墓も立てない。地球に優しいエコな葬送方式である。

 現在鳥葬は、イランやインドあたりでその名残がうかがえる他は、ここ、チベット圏でしか行われていない。ラサ郊外のチベット自治区と、四川、甘粛の一部が知られていたけれど、規制が厳しくなり、今ではどこもおおっぴらにできなくなっている。

 中央の目の届かない、秘境のようなこの地でのみ、まだ見ることができるという情報が、バックパッカーの間のクチコミによって伝えられており、僕らはそれを聞きつけてやって来た。

「鳥葬の、どこがいいと思ったの?」

「今は雪だけどさ」

「うん」

「こっちの空って、すごくきれいだよね。鳥葬って、こっちでは天葬って呼ぶんだって。天葬。なんだか、すごくいい言葉じゃない? それでさ、チベット圏に入ってから、ぼーっと空を見ていたら、その言葉の意味がわかった気がしたの」

 窓から漏れる淡い光を浴びて、暗く温かいまなざしを白い空に向けながら、佳代はつぶやくように言葉を続ける。

 子供の頃、こういう風に優しく温かく、そしてどこかエロい空気を、無意識にタチ悪くまといながら話してくれる、年上のお姉さんというものが、なんとなく身近に、必ず存在していたような気がする。

「どうしてこの場所で鳥葬があって、それが残り続けていたのかも」

 隣の席の、家族であろう親子連れのチベタンが、時折こちらを窺っている。旅行者が珍しいのか。それとも、人種を超え、性別をも超える美貌を持つ、不思議な佳代が珍しいのか。

「ここはさ、うーん、なんていうのかな、どこかもう、天上なんだよ。ここにいるひとたちは、天上の住人なの」

「…………」

 白い空の向こうにあるはずの、深く青い空を見つめて、佳代は言う。

 僕は同じような台詞を、一年前に美也子の口から聞いていた。同じこの店で。

 今と同じように、ストーブの炎がちらつき、粗末なグラスの中の八宝茶が宝石のようにきらめいて見えていた、雪の午後だった。

 死の影をまといながら、その言葉をつぶやいた時だけ、美也子は子供のような、朗らかな笑顔に戻ったのを覚えている。


――ここはさ、空が近いんじゃなくて、もう空の中にあるんだよ。さらにその向こうにあるはずの場所と、半分繋がっているの――

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