第4話
翌日、まだ暗い夏藩の夜明けに、と言っても九時過ぎだけれど、宿を出ていつものメンツに英恵を加え、鳥葬台へと続く寺院の入口まで歩いてゆく。
門のある小さな小屋にいる係員らしいチベタンのおじさんに、石川さんが今日はどうかと尋ねる。おじさんはおごそかに首を振る。
「今日もなし。はい、終了。一日おつかれ」
そしてまたいつものように、僕らは朝食を取りに食堂へ向かう。
「ああ眠い。でもなんか、最近慣れてきたわ。この後は、一日寝てればいいんだし」
「あのおじさんもさ、僕らのことをいいかげん、しつこい奴らだなと思ってるだろうね」
チベットのモーニングセットなのか、客のほぼ全員が頼んでいる、やたらと量が出てくる肉まんと、絶品ワンタンスープを皆で注文する。
早くから混んでいる店内を、英恵はキョロキョロと楽しそうに見回している。
「なんだか、すごくいい感じの眺め。時代が止まってる。ストーブの火が暖かい」
店内の床は土。掃除は適当にゴミを掃き集めるだけ。客の飲み残しは店員が外に捨てる。がっしりとした木のテーブルは古く、椅子は重くて座り心地がいい。
「じゃあ、これからあれの交渉してくるから、皆はゆっくりしてってくれ。お先」
食事を終えて立ち上がり、後ろ手を振り、店を出てゆく石川さん。
「立ち去る瞬間だけでも、人間のカッコよさの違いって出るのね」
「僕はあんな風に、身を翻せません」
「今のだけで、映画のワンシーンみたいですね」
しばらくだべってから、僕らも食事を終えて席を立つ。
すっかり明るくなった表に出ると、今日も美しい空の色に迎えられる。店の裏庭で少女がじっと陽を浴びて立っている。
「帰って寝るわ」
「私、ぐるっと周ってきます」
英恵は村を取り巻く丘を歩いてくると言い、そろそろと歩いてゆき見えなくなった。
「大丈夫かな……。転んだり、崖から落ちたりしないかな」
「ここまで来れたんだもん。大丈夫でしょ」
僕はまた鳥葬の丘まで散歩してくるよと言うと、何度も行ってるのによく飽きないわねと、佳代に笑われる。
「あれあれ……。はあい」
チベタンの子供が、僕らの目の前でつまずき転んで、その拍子に落とした帽子を、佳代が拾う。
砂をはたいて渡してやると、無表情だった子供は、佳代の顔を見るなり、声を上げて後ずさり、帽子をひったくると、何かの言葉を連呼しながら、一目散に走り去ってゆく。相手を罵る時というのは、言語は違っても、世界共通で同じように聞こえるものだ。
僕はこのクソ餓鬼と怒鳴ろうかと思ったけれど、その前に佳代が言う。
「あはは。気味悪がられちゃった。あたし、子供には好かれるんだけどなー」
宿の前まで来て、それじゃあと手を上げると、佳代が袖を引く。
「あたしも、ついてっていい?」
へえと思う。また珍しいことだ。いいよと答える。
寺の裏手に続く、いくつもの道のひとつを選び、ちらほらとチベット僧とすれ違う坂道を歩いてゆく。すぐに下が見渡せるようになる。
空の極みに、地平が霞む、草原とも荒野ともつかない、チベットの大地が広がっている。ともかくこの地は、広さを感じる。果てのなさを、奥深さを感じさせられる。
「ハゲワシいるね。あいつらも待ちぼうけかな」
昨日も佳代といた鳥葬台のそばの丘にたどり着き、ふうとひと息つく。夏藩の街並みはここからは見えない。
「凍てつくみたいに風は冷たいのに、焼けつくみたいに陽射しが強くて。慣れてくるとこれも、悪くないよな」
佳代は額をぬぐいながら、そうだねと答える。
「あの岩山さ、登れそうにないなって思ったけど、石川さんなら登れそうな気がしてきた。クライミングの要領でひょいひょいって」
返事のない佳代を見ると、ずっと顔をぬぐっている。やがてその手が止まり、押し殺した嗚咽が漏れ始める。
「…………」
声をかけられなかった。背後で色あせたタルチョがはためき、足元で白い花が風に揺れている。
「あー、もう、なんか違うわ」
激しくしゃくり上げ、体を震わせながら、それでも笑いを込めて、佳代が言う。
「そこだもんね。いいや、とっととやっちゃおう」
鳥葬台の後ろにそびえ立つ、峻険な岩の上から、数羽のハゲワシがこちらを眺めている。佳代の言葉の意味を考え、大急ぎで己の説得力を動員する。
「明日はみんなで、ゆかいな聖なる地だよ。おい、ちょっと……?」
佳代はシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、躊躇のかけらもなく、下着も脱いで、全裸になってしまう。
僕は驚くよりも戸惑うよりも、青空のキャンバスと、赤茶色の岩の下に晒された、佳代の裸体の美しさに目を奪われる。
「さて、食われてくっか」
スタスタと鳥葬台に歩いてゆく佳代。僕はあわわと声を立て、追いかけて手を引き止まらせようとする。佳代の足は止まらない。
「そのまま寝たって、ついばんでなんかくれないって」
「ものは試し」
「適当に試食されて、やっぱりいいやとか途中で放置されたら、どうするんだよ?」
ようやく歩調が鈍り、前を向いたまま佳代がつぶやく。
「……あたし、まずそう?」
「まずい。絶対まずいと思う。B級フード。新宿のカラスが目もくれないレベル。あいつらグルメだから」
涙にまみれた、すねたような表情を見せて、僕をにらみつける佳代。
「なんでよ。痩せてて肉ないから?」
「それもあるが、なんつか、不純物や化学物質がいっぱい蓄積されてそうな感じ。食品安全基準通らない。中国でも」
「中国でも?」
「中国でも」
「中国でもか!」
ごめんなさい、僕は世界で一番、中華料理が好きですと、心の中で人民に謝罪する。ついでにおととい食べた青椒肉絲に、いつものように石が入っていたので、そろそろなんとかしてくださいと懇願する。
結界のようなタルチョと足元を交互に見つめ、真剣な表情をして悩み始める佳代。霞む地平を背景にして、すぐそばで感じる佳代の素肌。痩せた体に小ぶりの胸は、少年めいた中性的な魅力があったけれど、下半身はそうでもなく、豊かな曲線を描くその様は、確かな女性の美しさと艶かしさがあった。
「散弾銃で撃たれたら、死んだ方がましなくらい、ひどいことになるんだってね。あたしそれ、何かで見たの」
「細かい穴だらけになって、なかなか死ねないし助からない。だから、戦争で使用するのは、国際法で禁止されてる」
「それ思い出した」
「イメージとして間違っていない」
細くため息をつく佳代。どうやら思い留まってくれそうだ。僕はほっとした。おそらくは切り刻んだ肉片でなければ、鳥葬台の上で寝転がっても無視されるだけだと思うけれど、そもそもその行為自体が、ものすごく恐ろしい。
「あぎさんも脱いで」
ほっとした僕に、またえらい要求がやってきた。色々な意味で嫌だったけれど、ここで断ったら、やっぱり死にますと、思い切ってしまわないだろうか。
風に揺れる前髪の間から、火傷の中でそれでも輝く瞳を、こちらにじっと向けてくる佳代。そのまなざしに促されるように、最初はしぶしぶと、やがてはヤケクソになって、僕も服を脱いでゆく。
強い陽射しの下で全裸になる。しばらく無言で、僕らは向かい合う。
「あぎさん、痩せてるかと思ったら、けっこう肉あるんだね。それも、下に下にって。重力って、偉大なのね」
「とても偉大なんだ」
脱いだことをものすごく後悔し、そして腹筋をさぼっていたことを反省する。せめて三日くらい前に言ってくれれば、少しは違っていた気がするのに。
佳代が触れてくる。十七歳で性交に飽きたという女の指使いに、情けなく反応してしまう。
「ややめようぜ」
「こうなってからさ」
目の前に、佳代の顔がある。涙で熱くなった吐息がかかる。僕は両手で、密着してくる佳代の肩を引き離そうとする。
「そうやって、拒否されるの。……知らなかったな。それ、こういう気分だったんだね」
屈み込んで、さらにしてこようとする佳代を、力ずくで押しとどめる。そのままぐったりと力を抜いてしまう佳代。僕の足に額を付け、聞いたことのない、か細く憔悴した声でつぶやく。
「そうだよね。あたしでも、イヤだろうなあ……」
ぶんぶんと首を振り、慌ててそれに答える。
「イヤじゃない。したくないはずがない。むしろ喜んで。これを見てもらえばわかるように」
青空に、間抜けに起立した性器の先を、無意識のように指で撫ぜながら、顔を上げて口を尖らせる佳代。子供みたいだ。
「じゃーなんでよ?」
「ここ、鳥葬台だろ?」
「それが?」
「火葬場でエッチするようなものじゃないか。もしくは死体安置所? 青山霊園とか、青だけに青姦の名所だったそうだけれど、そいつらの百倍くらいバチ当たりだと思う」
「あたし、一番ヤバい場所でしたのは、巡回中の交番」
「ヤバいの意味が違う」
「じゃあ、○○○旅行中に夜の○○○○○○の○○○でした時かな?」
「……それも方向性が違うけれど、ある意味それ、最悪にヤバいぞ? ばれたら殺されるんじゃないか? 終生語らず、墓の下まで持って行きなさい」
「墓なんて要らないし。ここでいいし」
「何か、ものすごい呪いとか、天罰仏罰がこびりつきそうな気がする。雅な和風に言うと、末代まで祟られそう。いくらなんでも、ここでは絶対だめ。移動しません?」
やはり自分は仏教国日本人であり、チベット仏教との違いはあっても、ここは穢れといったものの密度が濃すぎる気がするのだ。後で絶対よくないことが起こる。間違いない。
佳代が立ち上がり、そっと抱きついてくる。広くて薄い背に手を回し、そのまま髪を梳かすように撫ぜる。
「あのね、女には、こういうのにはタイミングってのがあるの」
「知ってる。男にはほぼない」
本当は完全無欠にない。
「触って」
また言う。もう仕方なく、最初は静かに、そして次第に激しく、佳代に触れてみる。このくらいなら許してもらえないだろうか。子供の頃になぜか覚えていた般若心経を、頭の中で必死に唱えてみる。細かい部分をだいぶ忘れているので、適当にアドリブでごまかしておく。
無人の野へ、親からはぐれた小鳥が囀るように、佳代の切なく押し殺した声が響いてゆく。身体の芯が熱くなってきた自分を、なんとか制御して言う。
「では、このへんで」
「んだてめえ。やっぱり……」
なんとか流れを変えようと、違う話題を探す。おおそうだと思いつく。
「向かいの丘の上の、あのアメリカしてる岩場の下でなら、やったことある」
「何を?」
「えっち。一年前に来た時に。実はその時、恋人と一緒だったんだ」
自分よりも、むしろ美也子の方が、そういうのが好きというか得意だった。
「そのせいか、次の日、僕だけひどい高山病にかかって、鳥葬が見られなかったんだ。途中から頭がガンガンしてきて」
でも最後までした。そして酸欠みたいになり、死にかけたのだ。
そういえば、この地方に住んでいるチベタンの皆さんは、少し走れば息切れするこの高所で、一体どうやっていとなんでいるのだろうか。ものすごいスローセックスに徹しているのか。なるべく興奮しないようにやっているのか。
「だから何よ?」
「明日鳥葬があったら、また逃すかもしれないだろ。佳代だけなぜか大丈夫で。もう、それはいやだ」
こんな理屈で、果たして納得してくれるだろうか。佳代はなにやら黙り込んで考え始め、そして口を開く。
「ひとりじゃなかったんだね。じゃあ、その時一緒にいた恋人さんは、鳥葬見たの?」
美也子は翌朝、一応見てくるねと、笑顔を浮かべてひとりで鳥葬台に行き、ずいぶんと遅くに戻って来た。ベッドの上で動けなくなっている僕を見下ろし、青い顔をして、こう言った。
――三人見た――
ぽつりぽつりと、美也子は鳥葬の様子を語ってくれた。ひどいショックでも受けたように、心がここにない様子で、あまり喋りたがらなかった。そしてその様子のまま、元に戻らなくなったのだ。
少しだけその時のことを、佳代に話してみる。誰かにこの話をするのも初めてだった。まだ一年前。もう一年前。遠くも近くもない、昔のこと。
僕の話を聞いているのかいないのか、佳代は僕の体にしがみついたまま黙っている。
草の匂いに混ざった、甘い髪の匂い、肌のぬくもり。指にからみつく、命そのもののような湿り。この全てが、ここで細かく切り刻まれ、頭も何も叩き割られて肉塊になり、跡も残らずに猛禽についばまれる……。どうやっても、想像などできないし、したくもなかった。
反応を待つ間に、汗ばんだ佳代の匂いが鼻腔をくすぐり、どうした具合か僕は、それに欲情してしまう。
……少しばかり、受け入れてみてもいいだろうか。ここまでやっているのだし、もう変わりゃしないだろうか。佳代の苦しみを、それで少しでも和らげることになるなら、いいのではないか……。
なんだか理由が付いてくると、色々どうでもよくなってきた。もう一度、奥まで入り込もうとした指と一緒に、さっと体が引き離される。
「やっぱり、鳥葬見られるんだね。うーん、なんかすごく、気になってきた。やっぱり、自分がされる前に、見ておきたいな。よし、そうしよう。それからだ」
プイと背を向け、草の上に投げ散らかした服を拾い集める佳代。
「ねえ、あぎさんの彼女だったその人、どんな人だったの?」
黒い下着をはたきながら、佳代が髪をなびかせて聞いてくる。僕は答える。
「おとなしくて、控えめな子だったかな」
せっかくだからと、青空と赤茶色の土に映える佳代の裸を、今のうちにしっかりと盗み見させてもらう。色白の肢体には欧米人みたいに、首から下の毛が何もない。
「今はどうしてるの? その人。別れちゃったの?」
「そんなところだよ」
「ねえ、めっちゃ気持ちいいね。あたしずっと、日焼けしないように、日中は表にも出なかったのに、もうどうでもいい。新たな発見だね」
服を小脇に抱え、うーんと伸ばした白い身体に陽を受けて、佳代は本当に気持ち良さそうだった。
「鳥葬だけじゃなく、その人への未練で来たんだね、あぎさん」
「そんなとこ」
「そういう気持ちって、わからないわ。次でいいじゃん、次で」
迷子になってはぐれたようなヤクが、すぐ下の崖のような斜面にいて、佳代をじっと見つめている。実は着ぐるみで、中身はおっさんかもしれない。
「佳代は、誰かをそんな風に、思ったことはない?」
「……ないよ」
優雅な笑顔をそっと曇らせ、視線を遠くへ投げて、佳代は風にかすれるような声でつぶやく。
「あたしにはずっと、わからなくていいことばかりだった。このままでいい。必要ないままでいい」
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