第九章 さまよう疑念①

 夕食と入浴を済ませた後、消灯時刻まで、アネスは自主連がてらアピセリアに会いに寮区画の中庭へと赴いていた。

 剣の素振りを何百回とこなし、汗だくになる。アネスは入浴後の発汗を避けたいほど、自分のことに頓着はなかった。

 アピセリアは女の子のようだったので、そういう自分でも異性に会う前は気にした方がいいのかと、脇の下の臭いを嗅いだが、別段違和感はなかった。

 煌々と輝く月夜の中庭に、遠くからアネスを呼ぶ声がした。

 アピセリアだろうか。

 そう思い、アネスはガゼボの方へと足を向けた。

 セピア色のどことなく華奢な体つきの人影が月明かりにさらされながら、ガゼボの中で座っているのを見つけた。

「今夜も来ると思っていたわ……。アネス」

「昼間に友人から君のことを少し聞いたんだ」

 言ってアネスはアピセリアの前に座った。

「私のこと?」

 セピア色の人影が首をかしげたように見えた。

「追憶の精……なんだろう?」

 少々言い切るに戸惑いがあった。ルビーシャを信頼していないわけではないが、書物などで知っている妖精の類いであろうと、ヘキサ・シンといった常識外れの現象を存分に理解していても、妖精という存在自体が稀なものにしか思えず、アネスとしては言葉を選ぶ必要性を感じていた。

 ところが、アピセリアは何も意に介さないといった体で、

「まあ、そうね……。妖精ってほど幻想的な存在でもないけれど……」

 謙虚でありながらも、自分の身を打ち明けた様子からアネスは安心した。

「追憶の精っていうからには、誰かの記憶をその体の中に保存してあるのかい?」

「いいえ。この学校や寮、もっと視野を広げれば、ここら一帯の領地のある時期からの様子を私の中で記憶しているってことになるかしらね……」

「ここら一帯の領地……。っていうと、学校や寮全体のってことか……。ある時期っていうのは、君がここに来てからのものだろうね……。ちなみにその証拠みたいなものはあるのかい?」

「やっぱり、完全には信じていないのね……。じゃあ少しあなたのヘキサ・シンに干渉してみるわね」

 アピセリアはそっと腕を伸ばし、手をアネスの胸の辺りに触れた。

 アネスの視界が急にひっくり返ったように映った。目眩ましにでもあったように、眼前の光景が次々と変わっていく。

 数秒経って、その光景が人と人が対面している場面や、ある人物の主観的な視覚であるように映った。

「あなたが今見たのは、私の記憶の一部。ここで暮らす生徒の記憶をランダムに見させたものよ」

 アピセリアの声と同時に、アネスは船酔いしたような気分に陥りつつ、視界が月下のほの暗いガゼボの中の景色に変わり、若干疲労と混乱が訪れた。

 胸の鼓動が早く、息を切らすがすぐに平常に戻りアピセリアの方へ視線を移す。

「た、確かに誰かの記憶のようだった……。びっくりしたよ……」

 くすくすとアピセリアは小さく笑っているようだった。

「ああいった誰かの記憶が私の中に保存されているの……。主に学校の生徒の記憶が多いけれど、そこら辺の草木の目線から得た記憶もあるわね……。でもあなたが見たいのはその記憶ではないんでしょう?」

 アネスは、アピセリアの方から核心に迫る話を振られたことに真顔になった。

 そう、できれば今のココーネが見てきた過去の記憶を覗いてみたい気がしていた。

「行方不明になっていた同級生が、先日戻ってきたんだ。嬉しくて、僕の犯した罪や償いが、解消されたような気がしたんだ……。アピセリアもそれは知ってるよね?」

「ええ。先週の最も大きな出来事だったわね……でも、気がかりだった彼女の生存を知ることができて、それでおしまいってことにはならないの?」

「君の話を聞く限り、人の記憶を保存すると言っても、ここでの記憶だけなんだろうから。それならココーネが森でどんな体験していたっていうのはわからないのかな?」

 そうね、とアピセリアは頷いた。

「僕は……、正直嬉しかった……。またココーネと一緒に勉強できるから……。でも何だろう……。もやもやするんだ。ミミユユの実をつけたココーネを見て間違いないんだろうけど……」

「ミミユユの実? ああ、これのこと?」

 とアピセリアが胸元から取り出したのは、赤い光沢のある宝石のような木の実だった。

 アネスは驚きつつ、

「アピセリアまでもがそれを持っているだなんて……」

 そこでアネスはこの時生じた疑問を無遠慮にアピセリアにぶつけた。

「まさか、君が本当のココーネってことはないかい?」

 アピセリアはアネスの迫り方に体を強張らせた。

「驚かさないで……」と焦ったようにアピセリアは言うと、

「わ、わたしはわたしよ……」

 落ち着きを取り戻すためか、アピセリアは自分の手を胸の辺りに添え、

「少し探ってみる……。そのココーネさんて人の記憶、私の中にあるかもしれない……」

 寸刻間があって、アピセリアは小さく息を吐いた。

「ないわね……。そのココーネさんて人の記憶……」

 ない? とアネスが言いながら目を丸くすると、アピセリアはおもむろにアネスの胸の中心部に手を伸ばした。

「私の記憶の中にあるのは、これだけ」

 目を閉じたアネスの眼底に、再び無数の景色が駆け抜けていった。

 ココーネらしき金髪の少女。その後ろにはムニに似た少女が立っている。

 これは誰かの視界だろうか。

 二人とも金髪で肩の辺りまで髪が伸び、そして双方ともに碧眼だった。

 ココーネらしき少女の手が、誰かのものと思しき視界の下方へと伸びている。そのままその手はゆっくりとさらに下へ動いているようだった。

 アネスの視界に映る他人から見たような景色は、そこで終わった。淡い月の光を浴びたアピセリアが眼前に座っている。

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