第二章 アネスの償い②

 アネスは校舎区画から出、東側にある橋を渡っていった。

 職員棟は校舎区画からは離れた場所にあり、この学校の教員たちが待機する建物だ。教室からは遠いものの、アネスたち生徒には煩わしくも慣れたことだった。

 職員室の横にある印刷室に入り、クラスずつに分けて置いてあるプリントを取って印刷室を出ようとするが、廊下で教員とすれ違った。

「アネス……。今日もやってんのか?」

「はい」とアネスは明るく答え、

「これも自分のためですから……」

「ダイガン先生の訓練か?」

「まあ、それもあります」

 言って、職員棟を出る。三クラス分のプリントはそれなりの重さだ。一クラス、三十名前後の生徒でおよそ九十人分の紙の束は、アネスのように鍛えていたり、意識が鍛練の方へと向いていたりしなければ嫌気がさすだろう。

 クラスワンでは少しずつ生徒が登校しつつあった。教卓の上にプリントを置こうと、机の間を歩いていき、折れないようそっと厚い紙の山を置いた。

「ヘキサなしだ……」とアネスに向かって、さりげなく悪口を言う者がいた。

 次いでクラスツーの教室の教卓上にもプリントを置いた。クラスツーの日直からは適当な感じで礼を言われた。

 今度は自分のクラスだ。

 普通なら自分の居所であるクラススリーからやるのかもしれないが、他のクラスの状況は分かりにくいので、アネスはいつも先を見越して自分のクラスは後回しにしていた。

 プリントの束を抱えつつクラススリーの教室に入った。クラスツーに比べ人数はまばらだ。教科書やノートに目を通す者は一人二人くらいで、他は雑談に興じており、たまに大きな笑声が流れてくる。

 制服を着崩した者もおり、クラススリーの生徒の多くはほぼ脱落者なので、どこか諦めムードを感じる。

 アネスは教室の入り口に突っ立って、教卓の近くにいた人物を見つめた。

 その人物はアネスを見つけると、

「はろはいほ~」

 と栗毛のショートボブのを揺らして、額に手をかざしながら軽妙に挨拶をするのは、アネスの友人、ルビーシャだった。

「アネスのお手伝いしたいんだけど、いい?」

 大きな瞳をキラキラさせて、屈託のない笑みを見せる。背丈はアネスの胸の辺りにあり、制服の袖を少し折っていた。ちょっとだけ飛び出た小さな手が、小動物がひょっこり物陰から顔を覗けさせているかのようだ。

 アネスは申し訳なく思い、

「ルビーシャ……。僕がやるからいいよ」

「いいっていいって!」ルビーシャは片手をひらひらさせて、

「アネスの苦しみはあたしの苦しみだから!」

「よければ俺も手伝うぜ?」

 腰に手をやりアネスとルビーシャの間に割って入ってきたのは、ウォルゴという生徒だった。

 オレンジ色の派手な髪を逆立て、爛々とした目はどこか自信に満ちているように見える。肩幅は広く、制服の上からでもわかる引き締まったボディラインは、鍛練を怠ることなく続けてきた彼なりの成果だろう。

 一見頼もしそうに見えるルビーシャとウォルゴだったが、ルビーシャは半眼になって、

「あんたのは魂胆見え見え。どうせアネスから学食のデザートでも期待してるんでしょ?」

「そういうお前だってアネスにあんなことやこんなこと期待してんじゃねえの?」

 ルビーシャは頬を朱に染め、

「は、はあ? あたしは別にアネスとデートとか、手をつなぐだとかそんな期待なんか……」

 そこでアネスの背後から、みゅーん、むむ、という声が聞こえた。

 その奇妙な台詞に聞き覚えがあるのはアネスだけではなく、ルビーシャとウォルゴも同じなのか、三人は少し顔をしかめた。

「ミュール……。クラスワンの人がここに何の用だい?」

 アネスの問いかけにミュールは余った袖をぷらぷらさせて、

「あちしの椅子を発見!」

 アネスを指差し、今度はアネスの腕を急かすように叩く。

「ほらほらさっさと椅子になって」

 アネスは教室の黒板の前という視界に入りやすい場所で、臆面もなく四つん這いになった。

 アネスの背に腰を下ろしたミュールは、はあ……と吐息を漏らし、

「いい座り心地……」

 瞳を閉じ、顔を紅潮させつつ体を微かに震わせた。

「あんた何? アネスは椅子じゃないよ!」

 ルビーシャが語気を強める。

「ミュール、またそいつを椅子代わりにさせてるのか?」

 クラススリーの教室の入り口には、ゴンダがおり太い眉毛を寄せていた。

 ミュールは、ふふんと鼻で笑い、

「ハイヤコリン家の専属椅子にさせてやってもいいんだけど」

 ミュールの家で椅子として雇われる……。人間としての扱いを受けていないのもはなはだしい。ルビーシャは憤激の様子で、

「クラスワンで四士会だからって、そんなわがままが通ると思う?」

「黙れ、チビーシャ」

 チビーシャとはルビーシャの体格を揶揄したあだ名だ。ミュールとルビーシャの言い合いは加熱していく。

「あんた、あたしよりちっちゃいじゃん。今度からコミュールって呼んでやろうか?」

「だまれ、下民! 下々のひもじい者が、あちしにたてつく気?」

「ただお金持ってるってだけでしょ! そんな奴がクラスワンだなんて、学校の偉い人にお金握らせたからじゃないの⁉」

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