第5話 ヴァイス公爵家(下)
夜も更け真っ暗な空にキラキラと宝石のように輝く星が現れた頃、俺はヴァイス公爵家のだだっ広く長い廊下を一人で歩いていた。
「クロスでございます。お呼びと
バロンと直接会ったのは屋敷に来た当日、娘レイチェルの奴隷として紹介された時だけであった。彼は多忙を極めるのか、それ以来会っていなければ屋敷に戻ってすらいないらしい。
『入れ』
凄みを含んだ低い声で入室許可を出される。
───失礼致します
漆塗りの扉にある金のドアノブを回して入室をする。頭を軽く下げたまま次の命令を待たなければいけない。「───頭を上げろ」。即座に返事をし、お互いの目が合う。
輝かんばかりの金髪に整えられた
(何もやっていないんだから堂々としよう)
不安と焦りが生まれる。どうか悪い方向にだけはいかないでくれと願いながら待とう。
▽▽▽▽▽
「入れ」
「失礼致します」
部屋に入ってきた男──クロスを私は警戒しなくてはならない。
「頭を上げろ」
「はっ」
娘のレイ…レイチェルがおよそ一月前にオークション会場から大金を払って連れてきた奴隷。随行した専属のメイドらによれば、なんでも壇上に上がった奴隷らが逃げ惑う最中ただ一人だけ残っていたという。
レイの魔力は根源的か本能的か、生きとし生けるもの総てを恐怖させる。ただ一人残ったのはあまりの恐怖によって茫然自失となってしまった……と、そう考えるのが普通である。無論、私もそう考えた。
(しかし───)
しかし、だ。目の前の男は自分を買ってくれと笑ったらしい。あり得ない。シュヴァルツ家の娘であれば同じような
勇者…と言う言葉が頭をよぎる。魔族に対して特別な力を持つ人間。魔族の天敵。もしや、抗えたのは同じく特別な存在であったからか。人間側のスパイであれば相当に優秀なものである。
「そこに座れ」
アルゴをこやつの後ろに待機させ横には槍と剣。欲を言えば普段から使用している魔剣魔槍の類が良かったが、勇者であるという予想が当たってしまった場合を考え、あえて身構えさせないように普通の武器とした。「魔剣ではないか…」と、心の隙間を作れたら御の字といったところか。
「目的はなんだ」
「……目的、とは一体どういったものでしょう?」
私の真紅の眼は感情を読み取る。いま、対面しているクロスの感情が揺らぎとなって見えた。正体を看破されているという焦りか、質問の意図が分からないという不安か……どちらだ?
「お前は何故レイチェルに恐怖しない?」
「何故と仰られましても、自分でも原因が分かりません」
不安と焦り、それから困惑の感情が消えていない。目の前の人間が勇者だと断定はできないが、怪しいというだけで首を刎ねるには十分だ。
───ただ
剣と槍を手に取ろうとした直後、信じられないものを見た。
「ただ、レイチェルお嬢様を初めてお目にかかった時、たしかに恐怖を致しました」
「……それで?」
「はい。他の奴隷が逃げ惑うなか、私も背を向けて逃げてしまおうと思ったのです」
「何故逃げなかった」
「悲しい顔をされていました」
横に伸ばそうとしていた手が止まった。これが隙を誘うための
「実際は少しも表情を崩されておりませんでしたが、なぜかそう感じたのです」
「だから残ったと…?」
「笑えばとても可愛らしいとも思いましたので
先程までの揺れ動いていた感情は穏やかに、それでいてどこか嬉しそうなまでに変化している。勇者やスパイであれば平常心を保てるだろうと考られるが、ならばこの嬉しいという感情はなんだ。
「目下の目的は何だ」
「目下……強くなることでしょうか」
「何のために強くなる」
「私には二人の主人がおります。そのお二方をお守り出来るように強くなりたいと思います」
一瞬だけ最大の警戒をしてしまったが、目的は嘘ではないようだ。そうか……娘を、レイチェルを守りたいと言ってくれるのか。ならばここでお前の正体を見極めさせてもらう。
「お前は勇者だな」
「嫌いです、勇者」
「一方的に嫌っているだけ」ともクロスは言う。返ってきた答えに私が困惑してしまった。本当に嫌悪の感情が溢れていたからだ。
妙に肩透かしをくらった気分だ。勇者かスパイだと思えばなんてことはない、ただの人間の男。
「命令だ。西の森へと赴き酒と果実を届けよ」
「はっ」
「では出発しろ」
「へ…? は、はい。ですがレイチェル様のお世話は……」
「ほっほっほ。私が伝えておきますよ、さあお行きなさい」
クロスに酒と果実、地図を渡してすぐに出発させる。アルゴが何やら言いたそうにしているが無視をしよう。どうせ碌でもないことだろう。
「随分と気に入りましたね旦那様。レイチェルお嬢様を守る、と言ったのが決めてですかな?」
「うるさい」
「可愛い一人娘ですからな。それを守ってくれる存在は今まで現れなかったのです、お気持ちはお察ししますとも」
直後、窓から夜目の効く鷹が手紙を括り付けてやってきた。
「人間側に動きがあった。直ぐに王城へ行く」
「かしこまりました。出発の準備を致します。ああ、そこのキミ、クロスは旦那様の命で出かけたとお嬢様にお伝えして下さい」
メイドにそう指示を出すとアルゴは即座に出発の準備へと取り掛かりに、部屋を後にした。
「私も準備をせねば」
▽▽▽▽▽
「おかしい……」
夜が明けて朝日がカーテンの隙間から差し込むころ、ここ最近ではいつもこの時眼に私の奴隷兼執事のクロスが起こしにくる筈なのだが。
「来ない」
そう、来ないのだ。待てど暮らせど一向に来る気配がない。まだ屋敷へ来て一ヶ月も経っていないから生活のリズムに慣れずに寝坊でもしているのだろうか?
「もしそうなら……お、起こしにいかなきゃね。従者の責任は主人が取らなくちゃ」
決してやましい気持ちなど微塵も、これっぽっちも、ほんの一欠片もないが行かなくてはならない。
「入るわよクロス」
主人がわざわざ従者のためにノックはしない。言い放ったそばから扉を開けて中へと歩く。寝顔を見たかったということはない。
「……え?」
困惑した。部屋の中には誰もいなかったから。
「───っ」
少しだけ不安になった私はベッドに手を当ててみる。
「冷たい……」
起きてさほど時間が経っていないのならば温もりが残っているはず。しかし、ベッドには温もりどころか使用された形跡すらなかった。体温が、血の気が引いていくのを感じた。肌にジワリとした汗が出てくる。
自室へと戻り白いワンピースに手早く着替えて、再度出て行く。厨房から勉強部屋、訓練所に裏庭と、くま無く探し回る。
(───いない)
(───いない、いないっ)
逃げた。
(違う、ダメ。悪いほうに考えちゃいけない……)
考えないようにすればするほど、どんどんと悪いほうへ向かってしまう。もしかしたらクロスは逃げてしまったのではないか。そんなことばかり考えてしまう。
(メイド……あの子たちに聞こう)
一縷の望みを掛けてメイドたちが仕事をしている場所へ行く。普段ならばみんなを怖がらせないために近づかないよう気をつけているが、今はそれを考えている場合ではなかった。
「貴女たち、クロスはどこか知らない?」
案の定、彼女らは私を見て顔を青くしてしまった。申し訳ないが我慢して質問に答えてほしい。すると一人のメイドに視線が集まっていく。
「貴女、クロスがどこにいるか知っているの?」
「ヒッ───、あ、あ、西の……森」
西の森…? 一体何の話をしてい───
「夜中、で、出て……いき、ましたっ!」
夜中に出て行った。
嫌な予感が当たってしまった……の? え?
「「───ッ?!」」
上手く魔力がコントロール出来なかったのか、溢れ出したソレで部屋の中にいたメイドたち数人が気絶をしてしまった。だが、いまそれに構っている暇はない。
気がつけば走り出していた。普通ではあり得ない速度を魔力で無理矢理に出し、街にいる住人たちを怖がらせないよう気を使う余裕も無くなって。
(イヤ………イヤイヤイヤッ! 行かないでクロス…逃げないで側にいて!)
本心から褒めてくれた。嘘ではない笑顔をくれた。そんな存在が他に現れることなどもう無い。
何がいけなかったの? 何が不満だったの? 何が貴方の心を変えてしまったの?
なおすから。帰ってきて。お願い。それでもダメなら………。
(───いっそこの手で)
離れないように、
▽▽▽▽▽
「ふぁ〜……ねっむ」
酒と果実、地図を渡された俺はバロンの命令で真夜中に西の森へと出発させられた。最初は執務室へと呼び出され、目的は何か、怖くないのかなどといった、あまり意図の読めない質問に終始困惑してしまった。
「まあでも、娘を大切にしてる感じがしたな」
娘のレイチェルが連れてきたヤツはどんな人物か、娘を悲しませないだろうかという心配を言葉の端に感じとれた。
「急に
大金に見合う価値があるかといえば、正直難しいところだろう。唯一無二の特徴としてレイチェルとエルフィーネを怖がらないだけなのだから。
「にしても驚いた。まさか森にダークエルフが居たんだから」
地図に示された西の森へ赴くとダークエルフたちが門番をしていた。事情を説明すると中へ招き入れられ、夜が明けるまで外に出るなと言われた。どうやら魔物が出るらしい。
魔物は全生命体共通の敵であり、問答無用で襲いかかってくることや闇を好んで動き始めるまで居場所すらわからない厄介な存在だ。俺が無事にダークエルフたちの所へ辿り着けたのは地図に記された道を通って来たからだという。
「……うん? なんか…おかしいな?」
街の様子がおかしい。ところどころで泣いている子供や怪我をしている大人たちがいる。何があったのか耳を澄ましていると。
「───え?」
レイチェルが走って行っただの、化け物が襲って来ただのと信じられないようなことが聞こえて来た。彼女が共も連れず一人で出歩くなどとは考えられないため、化け物が云々の情報が正解に近いのだろうか。
「いや、まてまて……」
嫌な予感がする。なんだか上手く言語化できない胸にできたこの不安感。歩くスピードが徐々に、徐々に上がっていく。
「ええい、クソッ──!!」
身体を魔力で強化し、屋敷までの道を全力で走り帰る。まだ上手く魔力を外へ放出できないが、その分体内で循環させるのが上手いとアルゴに褒めらたことがある。
「はっ、はっ、はっ…訓練のおかげだな!」
若干息を切らせながらも屋敷が見えて来た。毎日同じ場所に立っている門番が、今日は顔色を悪くして槍を支えにその役割を果たそうとしている。何も言わずに通してもらえたのはアルゴが話を通してくれていたからだろう。
「レイ様! レイ様どこですか!」
大きな声を出しても返事がこない。このままでは埒が明かないため、メイドたちのいる部屋へと足速に向かう。すると、向こう側からも一人のメイドが来た。
「ふぅ…レイチェルお嬢様を知りませんか?」
努めて冷静にレイの場所を尋ねると、つい今し方俺を探しに出かけてしまった、とても焦っていたと言うではないか。
「アルゴ様から何か聞いていませんか?」
バロンの命令で俺が森に赴いていることは伝わっている筈。
「それが───……」
なるほど。どんな理由か、アルゴは直接伝えられない用事がでた。代わりのメイドも伝えようとしたら、入れ違って魔力の漏れ出ていたレイに遭遇。上手く口が回らず断片的な情報のみ伝わり、焦った彼女は飛び出した。メイドは魔力で気絶…と。
「探してきます。また入れ違いになるといけませんのでお嬢様が先に帰られましたら、自分は夜までに必ず帰るとお伝え願います」
返事は聞かずに再度街へと走り出す。時間を短縮するため屋根から屋根へと飛び、上からレイがいないか注意して進む。
「ああクソッ通り雨か。傘は……持ってないよな」
走ること約2時間、西の森へと到着する、
「お嬢様ー! レイチェルお嬢様ァー!」
夕陽はとっくに沈んで月明かりだけが木々を照らしている。こちらの呼びかけに返事をしているのか、リーン、リーンと虫の鳴き声が辺りに響き渡るだけ。
「ハァ…ハァ……」
いくら魔力で強化しようが何もかも未熟な自分の限界は早々に来てしまう。
───ガサリッ。
悪いことは連続して起こりやすいのか音のするほうへ視線をやると、そこには狼が……狼のような魔物がいた。
「お前たちの相手してる場合じゃねえンだよ……」
なぜかは分からないが冷静にブチ切れた。探し物をしている最中にチャチャ入れられるの嫌いなんだよね、俺。
▽▽▽▽▽
「ギャンッ───!」
15匹目。周りは魔物の死体と血で汚れてしまった。
「どこ…?」
クロスはどこ? 雨に濡れて血に濡れて、探せど探せど見つからない。呼んでいない魔物は私を怖がらずに襲ってくるも、腕を振るうだけで弾け飛ぶ。
さっきまであふれ出していた涙は枯れたのか、悲しいのに寂しいのに流れなくなった。身体が怠い、足が重い。
「グルルルゥ………ガゥッ!!」
「邪魔」
「ギャンッ!」
邪魔、邪魔、邪魔邪魔邪魔ッ───!!
「邪魔しないでよッ──!」
20匹目を殺したところで魔物の姿は見えなくなった。八つ当たり気味に殺したところで、一向に気分は晴れない。フラフラと開けた場所に出る。どこにいるの。貴方はどこに行ってしまったの。帰ってきて。お願い。答えて。
「返事をしてよ………クロスゥ───ッ!!!」
───ガサッ
何度邪魔すれば気が済む? この魔物ふぜ──。
「お嬢様ッッ!!!」
▽▽▽▽▽
走った。全力で走った。息が切れても走った。
「間違い無い……この、声」
辺りには血と魔物の死体が散乱していた。それを見た俺はこの先に彼女がいると確信し、さらに魔力を全身へ回して疾走する。自分の出す速度で触れる枝が痛く、所々を薄く血が
関係ない。今は一分一秒が惜しい。足を前に出せ、出せ、出せッ!!
「お嬢様ッッ!!!」
見えた。広く開けた場所に、血に濡れた彼女は独り佇んでいた。
「クロス……?」
光を反射させない目で、まるで夢を見ているかのようにゆっくりと腕を伸ばしてくる。頬に触れた手が氷のように冷たくなってしまっている。
「なんで…なんで出て行ったの? 私がキライになったの?」
俺は黙ってレイチェルが
「全部お答えしますね?」と前置きをし、冷静に聞いてもらえるようゆっくりとした早さで答えていく。すると、
「私はね醜いの」と彼女は言う。ポツリ、ポツリと語り始めた。
「貴方と仲良くなりたいの。でもね、貴方には他の人、特に女の人と仲良くなってほしくないと思ってしまうの。貴方が欲しい。その
「良いに決まってンだろッッッ!!!」
馬鹿なことを口にする前に大声で止める。どこの世界に生まれてきてはいけない命があるんだろうか。本当に頭にくる。彼女をここまで追い詰めてしまった運命に激しい怒りが湧き上がる。ボロボロになって、限界になって、もうどうしようもなくなって。行き先が分からなくなってしまった彼女。
「生きて良いんだよ、レイ様」
だったら少しの間だけでいい。今は手を引いて、いつか自分で歩ければいいんだ。
「生きて笑って良いんです」
漢を魅せる時だ、クロス。
「それに、女のやることを全部笑って受け止めてやるのが漢ってヤツなんですよ───だから
笑って受け止める。たとえ女に騙されようが、それを許してまた騙されてやるのが漢なんだよ。
「……ホント? 全部?」
「本当です。受け止めます」
「束縛しちゃうよ? 支配しちゃうよ?」
「ドンと来い、です」
「ホントにホント?」
「ホントにホントです」
「そう」とだけ言うと深呼吸をするレイ。ゆっくりと
「私ね、アナタが他の人と仲良くするの、イヤなの」
「聞きました。立場上、無関係ではいられませんのでご容赦を」
「うん、分かってる。だからね?」
「こうするの」と言うと、俺は両腕を彼女に片腕で抑えられてしまった。魔力で成せる技だろうが、あまりの驚きに彼女の顔を見遣る。すると。
「もう逃げ出さないように、私のものだって誰からも分かるような印を残すの。受け止めてね?」
レイはペロリと唇を潤し上の服を引き裂いた。その直後、彼女が何をするのかが分かった。
「ちょっ、待っ───」
芸術品かと思うほどの美しい白い頬に赤色が差し込む。だんだんと鼻息が荒くなり、腕に込める力が強くなる。そう、一種の興奮状態となった彼女はもう止まらない、止められない。
「ハァ、ハァ、だーめ♪ 我慢して、男の子でしょ♡」
───ガブッッッ!!
「
ドラゴンと
「ぷはっ『治れ』…レロ……レロ」
魔法を使ったのだろう。先程まであった痛みが無くなっている。
「もう逃がさない。離さない。これが私だけの印」
後日、鏡で首元を見ると噛み跡が白く残っていた。マーキング。自分だけのものという独占欲の現れがそこにはあった。
「よろしくねクロス───アハッ♪」
口の端からこぼれた血を拭きもせずに見せた彼女の
「帰りましょっ!」
どこか吹っ切れた彼女に連れられ、満身創痍の俺は屋敷へと戻る。また、後悔はまったくないが、発言には気をつけようと心に誓う俺だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ここまで読んで頂きありがとうございます。
高評価、感想お待ちしております。
そこに星が見えるじゃろ? 押すとな、作者が喜ぶんじゃよ……ということで、ヴァイス公爵家でございました!
では、また次回でお会いしましょう。
研究所
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