第12話

 夕食に用意されていたのは、ナスと豚肉のみそ炒めや玉ねぎの味噌汁、ちりめんじゃこなど、父の好物ばかりだった。

 公演している地域でも日本食を扱う店には行くが、本場の味には到底かなわないらしい。母が張り切って用意したおかずを、父は嬉しそうに頬張っていた。

「この前までシンガポールに滞在してたんだ。あっちで食べたタイ米も美味かったけど、やっぱり日本人の舌には日本の米が一番だな。美味い。おかわりしてくる」

「どんだけ食うんだよ。三杯目じゃねえか」

「よく食べるのは変わってないわね」

 おかしそうに笑う母の隣で、風眞は机に肘をつく。

 見ているこちらが腹いっぱいになるほどの食べっぷりだ。どれだけ日本の味に飢えていたのかと呆れそうになる。反面、そう感じられるほど長い期間を海外で過ごす羨ましさも多少あった。

「そういえば風眞、アイドルになるってさっき言ってたよな。デビューはいつなんだ?」

「あー……夏くらい?」

 ライブにサプライズで登場するのは極秘だ。いくら家族相手と言えど、詳細な日付は黙っておいた方がいいだろう。そのあたりの事情を察したのか、父は深く追及してこない。

「毎日へとへとになって帰ってくるのよ。この前なんてご飯食べながら寝てたし」

「寝てねえって。ちょっと目閉じてただけで」

「それを寝てるって言うんじゃないのか?」

「意識はあったから寝てねえ!」

 むきになって反論すればするほど逆効果だ。両親にそろって笑われ、風眞の目元が赤らんだ。

「初めの頃なんて、毎日不満ばっかり言ってたし。所長がムカつくって何回聞いたことか」

「アイドルになりたいって風眞が希望したわけじゃないんだろ? なんで所長はお前をデビューさせようと思ったんだろうな」

「さあ」と風眞は首を横に振る。「『君こそ適任だと思う』とか言われたような気がするけど」

 どこを見てそう感じたのか、いまだに謎のままだ。

 風眞をアイドルデビューさせるにあたって、これまでの経歴や今後の目標など、あらかじめ調査していただろう。マジシャン志望だとも知っていたはずだ。

「そのうえでお前を適任って判断したんだな」

「多分。最初はすっげえ嫌だったけど、今はもう諦めた」

「大変そうなのは変わらないけど、でもちょっとずつ楽しそうな顔もし始めたものね」

「……まあ確かに、嫌ではなくなってきた、かな」

 レッスンでは日々厳しい指導が飛んでくる。歌声に感情が乗っていない、と何度副所長に叱られたか分からない。竦まないわけではなかったが、どちらかと言えば見返してやりたい気持ちになったし、良い点はしっかり褒めてもらえて向上心も芽生える。

 ダンスも同様だ。丹和は副所長ほど苛烈ではなく、優しく諭すように改善点を教えてくれる。だからこそ優しさに甘えて手を抜く気にならず、期待を裏切らないよう張り切らねばと奮起した。

「ダンスは善利が得意だし、分かんねえとこは学校でたまに教えてもらってる。俺以外の二人もだけど。ダンスなんて縁ないと思ってたし、疲れも半端ねえし、みんなぐったりするんだけどさ。でも出来なかったところが出来るようになると、やっぱ嬉しいと思うよ」

「達成感があるよな。どんなことでもそうだ。マジックだってそうだろ」

「うん」

 長年練習してきたマッスルパスが出来るようになった時、麻黄耶が目の前にいて大げさに喜べなかったが、誰もいなければ嬉しさのあまり飛び跳ねていたかもしれない。失敗続きだったぶん、理想が現実になった瞬間は爽快だった。

 父は湯呑みを手に取り、緑茶の水面に視線を落としている。あまりに顔を上げないものだから、茶柱でも立っているのかと思ったけれど、よく見るとその表情はどこか悩まし気だ。

「なあ風眞。さっき家に入る前に言いかけたことなんだけどな」

「俺がマジシャンを目指してて嬉しいって話?」

 そう、とうなずいた父の目は、先ほどまでの〝父〟としてのそれではなく、〝マジシャン〟として風眞を見ているようだった。

「お前が本気でこれからもマジシャンを目指すんなら、俺と一緒に海外を回らないか」

「……え」

「俺に弟子入りして、公演に付き添うんだよ。世界のレベルは高い。いろんな技術をその目で見て勉強できる」

「それ、は」

 突然の提案に、しばらく口を開けたままなにも言えなかった。

 今や一流マジシャンである父の弟子として、ともに海外を回り公演を支える。普段は動画でしか観られない様々なマジシャンのテクニックも、間近で見られる機会が増えるだろう。

 もちろん厳しいことも多いに違いない。数多いる弟子の一人として迎える以上、父は風眞を〝息子〟として甘やかしはしないはずだ。英語も決して堪能ではなく、コミュニケーションの面でも苦労するだろう。

 だとしても、夢に近づける第一歩に変わりはない。数ヵ月前までの風眞であれば、もろ手を挙げて喜んでいた。

 ――でも、今は。

「ちょっと待って」口を挟んだのは母だ。「この子は今アイドルになろうとしてるところで、モデルの仕事だってあるのよ。あなたの弟子になるにはアイドルもモデルも辞めなきゃいけないんじゃないの? 高校だってまだ卒業してないのに」

「なにも今すぐ弟子にするわけじゃない。今後のために最低でも高校は卒業した方がいいから、加えるにしてもそのあとだ」

「ってことは、一年半とちょっとくらい先か……」

 それなら、と一瞬心が揺らぐ。しかし直後、静珂たちを思い出して顔をうつむけた。

 マジシャンに弟子入りするため活動を休止する、なんて、彼らに言ったらどんな顔をされるか分からない。デビューして二年も経たないうちにユニットのリーダーが消えるのだ。静珂は確実に反対してくるだろうし。麻黄耶と那央も手放しで応援はしてこないはずだ。

「……返事って、今すぐした方がいい?」

「いや。他の仕事が絡む以上、答えは急かなさいよ。ユニットのメンバーにも相談した方がいいと思う。けどアイドルになるまでに結論を出そう。デビューしてから辞めるんじゃ、周りに迷惑がかかるから」

 決断が遅ければ遅いほど、静珂たちだけでなく、事務所やファンまで振り回すことになる。夢を応援してくれる層は一定数いると思いたいが、都合のいい幻想を抱くわけにはいかない。

 父は一週間ほど滞在するそうだ。日本を発つまでに最低限の方針は伝えるべきかも知れない。

 少し考えさせてくれと伝えた声は、自分でも驚くくらいか細かった。


「えんひゅちゅってなんかおもいちゅいたりひはん?」

 もごもごと口いっぱいに焼きそばパンを詰めこんで、麻黄耶が目をキラキラさせながら問いかけてくる。風眞は「全部飲みこんでから話せ」と野菜ジュースのストローを噛む。

 翌日の昼休みである。チャイムが鳴って間もなく、風眞が自分の机で弁当を広げていると、いつの間にか目の前の席に麻黄耶が座っていた。椅子の背もたれにまたがるようにして腰かけ、なにしに来たと問うもなく先ほどの一言を投げつけてきた。

 一学年上の教室に入りこんでくるだけでなく、他人の席に腰かけて挨拶もなしにいきなり質問とは、度胸があるのか遠慮がないのか判断が難しいところだ。

 彼は口の中の物を嚥下して、唇についていたソースを指で拭う。

「演出ってなんか思いついたりしたん?」

「昨日の今日だぞ。そんなすぐに思いつくか」

 ――つーかそれどころじゃなかったし。

 父の提案に悩まされ過ぎて、演出のことなど完全に忘れていた。

「そういうお前はどうなんだよ」

「んーとな、花火とかぶっ放したら派手かなーて思とったよ!」

「却下に決まってんだろ! 会場は室内だぞ、花火なんか使えるか!」

「えーでもステージの上で火柱上がっとったりする時あるやんか。めっちゃ目立つしかっこええと思うねんけど」

「俺らの雰囲気に合わねえだろうが。つーか教室でそんな話するんじゃねえよ。周りに聞かれたらどうすんだ」

「お前が大声で喚かなければいいだけの話じゃない?」

 急に静珂の声が割りこんでくる。驚いて顔を上げると、弁当箱を携えていつの間にか机の横に立っていた。麻黄耶の隣にはひらひらと手を振る那央もいる。二人は誰も座っていない席から椅子を拝借してくると、風眞の周りで各々腰かけた。

「なんでお前らまで」

「演出を考える以外になにかある? 放課後はレッスンがあるし、まともに話し合い出来るのって全員の休みが被る日か、あとは昼休みくらいしかないでしょ」

「けど学校で話すのはやめるって」

「僕がねぇ、踊り場とか空き教室だと逆に目立つし、だったら逆に教室で話し合うのはどうかなぁって提案したんだぁ」

 昼休みの教室はそれなりに騒がしい。静珂たちのように違うクラスからやってきて友人と過ごす生徒もいるし、賑やかに談笑するグループもいくつかある。声をひそめた話し合いは彼らの騒がしさに紛れ、踊り場などの静かな場所よりかえって注目されなさそうだ。

 静珂の弁当箱を一瞥すると、やはり今日も丸焦げの卵焼きが入っている。

「……なあ。善利の弁当って、いつも自分で作ってんの?」

「そうだけど。なに? あげないよ」

「くれとは一言も言ってねえだろ」

「なになに? なんか美味しそうなもん入っとんの? あ、ミートボール! 一個ちょうだい!」

「僕もぉ」

「あげるわけないでしょ」

 つんと顔を背けて、静珂は後輩たちから弁当を遠ざけてミートボールを口に運ぶ。卵焼きと違ってこちらは綺麗な形だ。

「で、演出の件だけど」

「さっき麻黄耶が花火ぶっ放すって言ったから却下した」

「かっこええと思てんけどなー」

「さすがに僕もそれは無し」

 麻黄耶は悲しそうに眉を下げ、もそもそとついばむように焼きそばパンを咀嚼していた。

 ユニットのモチーフは「不思議の国のアリス」「トランプ」なのだから、それに応じた演出をすべきだろう。とは思うものの、具体的な案がいまいち出てこない。

「ステージの上に大量のトランプでも散りばめておく?」

「踏んだら転んじゃいそうだねぇ」

「ステージにばらまくだけだったら客席からいまいち見えねえだろ」

「あれは? 映像をどーんって壁とかに映しだして動いとるように見せるやつ!」

「プロジェクションマッピングのこと言ってる?」

「それそれ! それで背景にトランプようけ映すんやったら、踏んづけたりせえへんで危なないやろ」

「でもそれだけだとトランプ要素が強すぎるから――」

 ああでもない、こうでもないと盛り上がる三人の声が、右から左に通り抜けていく。

 伝えなければ。父から弟子入りの提案をされているのだと。

 マジシャン志望であることは三人とも知っている。だからマジシャンになるためアイドルになれないと告げても、今さら意外さを覚えたりしないだろう。だが不信感や反発を抱かないわけではない。

 ――それに、俺はユニットのリーダーで。

 なんとなく己の首を撫で、見えない首輪を確かめる。

 いつしか重荷と感じなくなっていたそれが、不意に重量を増したようで息が苦しい。

「風ちゃん先輩?」

 那央に呼びかけられて我に返る。「あ、ああ」とぎこちない返事に、彼は心配そうに首を傾げていた。

「大丈夫? ぼーっとしてたよぉ。寝不足?」

「そんなことはねえ、けど」

「あ、そういやお父さん帰ってきとんのやっけ!」

 父の話題に、びくりと肩が震えた。

「もしかして夜遅までマジック見せてもろとったん? やから寝不足なんやろ」

「寝不足じゃねえって。ちゃんと寝てるし」

「でも実際、顔色良くないよ」

 静珂にまで気遣われるとは、よほどひどい顔をしているようだ。

 なんでもない、気にするなと誤魔化すのは簡単だ。しかし三人がそれで納得するとは思えない。

 正直に伝えるなら今しかない。空になった野菜ジュースのパックを握りしめ、つま先に視線を落とす。

「……親父に言われたんだ。弟子入りして公演に付き添わないかって」

「へえ! 良かったやん!」

 麻黄耶が反射的に祝ってくれる一方で、静珂が眉間にしわを寄せている。

「どういうこと。お前のお父さんって海外飛び回ってるんじゃないの? それに弟子入りして付き添うってことは、お前も一緒に海外を回るってことだよね?」

「……そうなる、と思う」

 静珂の言葉で喜ばしい話ではないと悟ったのか、麻黄耶の顔から徐々に明るさが消えた。那央は黙々とサンドイッチを噛んでいるが、視線は三人の間を忙しなく行きかっている。

「弟子入りするって言っても今すぐじゃない。俺が高校卒業してからとは言われた」

「え、でもその頃って、オレらもうデビューしとる、よな……?」

「してるね。ライブは八月だし、CD出すのも今年中だと思うから」

「親父と一緒に海外回るってなるとそんな頻繁に帰国も出来ねえと思うし、他の仕事は休止するか辞めるしかねえんだよ。だから……」

 言葉は頭に浮かんでいるのに、口からうまく出てこない。声にしようとするたび喉が詰まる。

 ――俺はアイドルにならない。マジシャンになる。

 少し前までの自分にとっては解放感をもたらずはずだった台詞が、どうしてこれほど重く苦しいのか。

 かこんっと高い音が耳を打つ。なにごとかと床を見ると、弁当箱とその中身が一帯に散乱していた。

 弁当箱は静珂のものだ。彼はだらりと腕を下に落とし、冷然とした眼差しをこちらに向けている。

 どうした、と訊ねようとした次の瞬間、風眞は彼に胸ぐらを掴んで引き寄せられていた。

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