第10話

 鏡の中の自分と目を合わせて、風眞は思わず歓心の吐息を漏らした。

 グレーがかった黒いシャツはなんとなく大人っぽい。その上に着た白亜のベストに汚れはなく、光の当たり方次第でほのかに桜色の輝きを帯びる。時計を模したループタイは重厚感を漂わせ、反対に腰からつながった革ひもにぶら下がる白く丸い毛玉は愛らしさを演出していた。

 身にまとっているのは学校の制服でも、私服でもない。

 ――俺たちのためだけに作られた、俺たちのユニット衣装。

 ライブ出演が一ヵ月半後に迫る中、風眞たちは初めて専用の衣装に袖を通していた。

 事務所には全ユニットの衣装を保管しておく部屋がある。事務所に到着早々、喜色を浮かべたマネージャーによって四人はそこへ連行された。

「なー! 風眞先輩も着替え終わったー?」

 試着室の向こうから呼びかけられ、「おう」と答えながらカーテンを開ける。すでに着替え終えていた三人が、風眞の登場に笑顔を浮かべた。

「へえ、意外と似合ってるじゃん」

「一言余計なんだよ。普通に似合ってるって言え」

「でもほんまよう似合におうとるよ。さすがモデルさんやね!」

「それボクの時にも言ってたよね」

「シャツとベストの色はしーちゃんとお揃いで、ズボンの色はまーくんとお揃いなんだねぇ」

 シャツにベスト、パンツというスタイルは全員に共通しているが、色の組み合わせや小物など、デザインが少しずつ違う。

 静珂のパンツはベストと同じ色で、一人だけショート丈だ。ソックスガーターで留めた黒い靴下にはシルクハットのワンポイントがあり、鮮やかな露草色の大きなリボンで首元と腰の後ろを彩っている。

 麻黄耶と那央はシャツとベストの色が風眞と逆転し、那央のパンツは静珂と揃いだ。麻黄耶の首を飾る薔薇色のジャボは、どことなく高貴な雰囲気を漂わせていた。脚のラインをすっきりと見せるパンツはスタイリッシュである。

「有葉が首から下げてんのはあれか、猫のしっぽか」

「可愛いでしょぉ」

 にひゃひゃ、と肩を揺らして笑えば、ふわふわした飾りが胸元で揺れる。紫と藤色のボーダー柄はチェシャ猫をイメージしたものだろう。今後の成長を見越してなのか、ズボンの裾は少し長めにとってあるらしい。ゆったりしたシルエットが那央によく似合っていた。

 お互いに衣装を観察しあっていると、不意に部屋の扉がノックされた。マネージャーだろうかと返事をすれば、ぎぎぎ、と恐る恐る扉が開けられる。ひょっこりと覗きこんできたのは、前髪で目元を隠した背の高い男だった。その後ろには所長もいる。

「お疲れさま。みんな着替え終わってるね」

 所長は慣れた様子で風眞たちに近寄ってくるけれど、もう一人の男は怖々とこちらの様子をうかがってなかなか入ってこない。唇は不安そうに引き結ばれ、じりじり、じわじわ部屋のすみに移動する姿は長身のせいでかなり目立つ。

 ――もしかして、あの人って。

「なあ善利」と風眞は静珂の肩をつついた。「あそこにいる人ってさ、霹靂神はたたがみ嵯峨さがさん?」

 霹靂神といえば副所長がリーダーを務めるユニットだ。記憶が確かなら二人組で、副所長の隣に立っていたのは彼だったように思う。

 風眞がしっかり名前を覚えていたのが意外だったのか、静珂は驚いたように目を丸くしてくる。

「珍しいね、お前がうちの事務所のアイドルちゃんと把握してるって」

「どれだけアイドルの動画とか観てきたと思ってんだよ。さすがに覚えるっつの」

「あ、ちょっと。そんな隅っこでなにしてるんですか」

 所長は大股で嵯峨に近づくと、腕を掴んで四人の前まで引っ張ってきた。そばに立つと背の高さがより分かる。ちょうど一八〇センチの風眞が見下ろされるのだ。一六〇センチの静珂の場合、ぐっと顔を上げなければ視線が合わないだろう。

「紹介するね。みんなの衣装をデザインしてくれた、霹靂神の嵯峨菊司きくじさん」

「菊司……」

 ――そういえば衣装考えてるとか話した時に、キクジさんがどうとか麻黄耶が言ってたよな。嵯峨さんのことだったのか。

 所長の紹介に合わせて嵯峨がぺこりと頭を下げる。詳しく聞くと、彼はランディエの衣装デザインも担当したそうだ。

「き、気に入ってもらえた?」

「はい!」嵯峨に威勢よく返事したのは麻黄耶だ。「めっちゃシュッてしとって良えなって思います! 飛んだり跳ねたりしても全然苦しなくて動きやすいし!」

「飛んだり跳ねたりしたのかよ」

「お前が着替え終わるまで嬉しそうに飛び回ってたよ」

「風ちゃん先輩よりまーくんの方がうさぎっぽかったぁ」

「バク転とかやりましょか?」

「やらなくていいけど、ふふ、レッスンの成果が出てるみたいで良かった」

 ダンスと歌のレッスンは連日続いた。ランディエのパフォーマンスを生で観たおかげか、歌はそれぞれの課題点をクリアでき、副所長から「ひとまず及第点か」と褒めてもらえた。

 ダンスも少しずつ上達して、速いテンポでも足がもつれなくなった。こちらも合格点をもらえている。

 風眞たちのデビュー曲が出来上がったのは、五月の半ば頃、どちらの基礎も整ったタイミングだった。

「歌いながら踊るのはもう慣れた?」

「まあ、ちょっとずつですけど」

「でもまだ激しく動いた時とか、音取るのが難しくてぶれたりしてるよね」

「あと歌詞ミスると焦ってしもて、ダンスがぐっちゃぐちゃになったり」

「息切れして上手く歌えない時もありますねぇ」

 慣れていくしかないと分かってはいるが、やはり自分にアイドルは向いていない、と挫けそうになる時もある。

 学校での休み時間や就寝前など、時間を見つけてマジックの練習も欠かさないように心がけてはいるものの、上達している自信が無い。だが練習中に口ずさんだり、ステップを踏んだりしたおかげで、楽曲での全体の流れと歌詞は完璧に覚えられた。

 ふと気になって嵯峨を見上げると、前髪の隙間からわずかに見えた瞳と視線が合った。

「どうかしました?」

「あ、えっと。耳のそれ、可愛いなって思って」

 那央が作ってくれたイヤリングか。耳になにか付けている感覚に慣れておこうと、家や事務所では常にぶら下げている。

「シンプルだからどんなテーマの服でも合いそう。一応その衣装にもトランプモチーフは潜ませたけど、そっちの方が分かりやすくていいね」

「ベストの釦とこですよね! ハートマークあるわー、細かいわーって感動しとったんです」

「そう言ってもらえると嬉しいなあ。デザインして良かった」

 風眞たちが否定的な反応をしないか恐れていたのだろう。麻黄耶の笑顔を見て、ようやく嵯峨の唇がへらりと緩んだ。

 次の仕事があると言って去る彼を見送り、「さて」と所長が四人に向き直る。真面目な話をしそうな雰囲気を感じ取り、意識的に背筋を正した。

「君たちがステージに立つまであと一ヵ月半。慌てさせるわけじゃないけど、当日までの期間は長いようで短いよ。たくさんの人に観てもらう、そしてプロのアイドルとして一歩を踏み出す以上、中途半端なパフォーマンスはしちゃいけない。気を引き締めてね」

 はい、と四人の声が揃う。

 残された時間の中でレベルアップしなければならないプレッシャーはあるが、急いては事を仕損じるとも言う。落ち着いて、自分たちの苦手を確実に克服し進んでいけば、満足のいくステージを届けられるだろう。

 なにごともなければ、だが。

「そうだ。危うく忘れるところだったよ」

「?」

「君たちのライブの演出なんだけど、風眞くんが考えてくれるかな」

「……は?」

 言っている意味が分からず、呆けた声が出た。

 ――ライブの演出を、俺が考える?

「え……え? どういうこと、ですか」

「そのままの意味だよ。例えば照明とか、映像とか。そういうのを風眞くんが考えるんだ」

 分かったかな、と問うように所長が右目を細める。すぐにうなずけるはずもなく、風眞はしばらく硬直した。

 アイドルのステージの演出なんて考えたことが無い。当然だ、そもそもアイドルになるつもりなんて無かったのだから。口はぱくぱくと空気を噛むだけで、返事らしい返事は出てこない。

 それでも所長が意に介した様子はなかった。

「なにからなにまで考えろとは言わないよ。演出専門のスタッフだっているしね。こうしたい、ああしたいって希望があれば、それを伝えるだけでもいい。君のアイデアをもとに考えるから」

「で、でもそれ、俺の提案ありきってことですよね?」

「うん」

「無理ですよ! 本番まであと二ヵ月も無いんですよ、そんなすぐに思いつくわけねえって!」

 敬語も忘れて、叫ぶように訴える。

 ただでさえ覚えることや考えることがたくさんあるのに、さらに演出まで加えられるとは。どう考えても許容量をオーバーしている。

「風眞先輩」

「風ちゃん先輩」

 両隣から脇腹を肘で小突かれ、風眞は我に返った。麻黄耶はハートの杖を振り、那央はだらりと肩に寄りかかってきながら、それぞれ朗らかに笑っていた。

「オレらのこと忘れてへん?」

「僕らも同じステージに立つんだよぉ?」

「……ああ、うん?」

「分かってないなら適当に返事しないの」

 やれやれと肩をすくめて静珂が目の前に立つ。かと思うと、いきなり両頬を摘ままれて軽く引っ張られた。

「いてててて」

「あのねえ、ボクらは同じユニットのメンバーなんだよ。一人で思いつかないなら、いつでも相談しろって言いたいわけ!」

「いや、それならそうと初めからそう言えって! いちいち引っ張るな、寄りかかってくんな!」

「所長」

 風眞の抗議をさらりと受け流して、静珂は頬を摘まんだまま所長に問いかける。

「別にボクらだって演出を提案してもいいでしょう? 四人で考えてこそ〝ボクらのステージ〟になる。違いますか」

「ふむ」と所長は顎に指をそえ、わずかに天井を仰いで考えるそぶりを見せた。「静珂くんの説得には一理あるね。うん、構わないよ。みんなで満足のいくものを考えるといい」

「良かったね、風眞。これで遠慮なくボクらを頼れるよ」

「なんでわざわざ恩着せがましい言い方してんだ。……けどまあ、ありがとう」

 いい加減に手を放せ、と手首にチョップをお見舞いしてから、風眞はぶっきらぼうに礼を言う。照れ隠しだと伝わってしまったようで、にやにやと唇を三日月形に歪める静珂の頬を引っ張り返してやった。

 仲間がいるという頼もしさ、一人ではない安心感があるだけで、負担は一気に軽くなる。思考にも余裕が生まれるし、話し合いをすれば自分では考えつかなかったアイデアが出てくることもあるだろう。

 きっと良いものを作り上げられる。根拠はないが、そんな自信があった。

 再びノックの音がして、所長が促すと大人がぞろぞろと入ってきた。衣装部門のスタッフだそうだ。動いた時にほつれそうな箇所は無いか、詰めるべき部分は無いかなど、細かく確認される。てっきり完成したものだと思っていたが、まだまだ微調整が必要らしい。

 今日はこのあと、レッスンの予定や仕事も入っていない。試着を終えて衣装から学校の制服に着替えていると、突然ブレザーのポケットが振動した。

 メッセージアプリの着信かと思いきや、いつまでもぶるぶると震えている。電話か。急いで画面を確認すると「姉貴」の二文字が表示されていた。

「……なんで?」

 姉が連絡を寄こす時はたいていメッセージアプリだ。わざわざ電話など珍しい。よほど急ぎの用事でもあるのか。首を傾げつつ通話ボタンをタップして耳に当てると、いきなり「遅い!」と怒鳴られた。

「何回かけ直したと思ってるの!」

「仕方ねえだろ、俺だって暇じゃねえんだから!」

「なになに? どうしたん?」

 風眞の怒声が気にかかったのか、カーテンの向こうから麻黄耶が訊ねてくる。なんでもない、と隙間から手を出してひらひら揺らしてから、「急になんなんだよ」と声をひそめた。

「お母さんから聞いた?」

「なにを? 今日の夕飯のメニューとか?」

「そうじゃなくてさあ」

 姉の声から深刻さは感じられず、嬉しそうな気配すら感じる。暗い話題ではなさそうだと思っていると、予想外の一言を告げられた。

「お父さん」

「……親父?」

「そう。お父さん、今日の夜に帰ってくるんだって」

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