第8話
「なんで? オレのミラクルワンドどこいったん!」
困惑しっぱなしの麻黄耶が左手を掴んでくる。手の甲側に隠れていないか、袖口に潜ませていないか、怪しいと思う場所を好きに触らせながら、風眞はくっくっと喉の奥で笑った。
周囲の生徒たちは消失マジックにどよめいて、一部の女子は麻黄耶の行動に「可愛い」とこぼしている。結局いくら触っても杖はどこにもなく、しょんぼり肩を落とすものだから、愛でる声はやがて慰めに変わった。
「そんな落ちこむなよ」
「無理言うなや! クリスマスに兄ちゃんが
冗談ではなく、本気で目が潤んでいた。ずずっと
先ほどと同じように「ワン、ツー」と唱えて、すいすいっと軽く腕を振る。
「!」
麻黄耶の瞳に浮かぶ色が悲嘆から歓喜に変わる。
消えたはずの杖を、いつのまにか風眞が握っていたからだ。
「はい、元通り」
「ど、どっから出したん。どこにもあらへんだのに」
「種明かしはまた今度。ほら、返すよ。ありがとな」
返すのを見計らったかのように、間もなくホームルームだと告げるチャイムが鳴る。一年生の麻黄耶は教室に戻らなければならず、「絶対に種教えてな!」と杖を大事そうに握りしめて走り去った。
周りに集っていた生徒たちも席に着いたけれど、興味の眼差しはずっと向けられ続けた。休み時間になれば主に女子が机を取り囲み、他にはどんなマジックが出来るのか訊ねてくる。相手が引いたトランプの絵柄がなにかを当てる簡単なものであっても喜ばれ、すごいと褒められれば悪い気はしない。
なにより嬉しかったのは、これからなにが起きるのかと期待と緊張に満ちていた表情が、一秒にも満たない時間で笑顔に変わる一瞬だ。
――そういえば、人前でマジックやったのっていつぶりだっけ。
最近は練習ばかりで、誰かに見てもらうことはなかった。
思えば学校で披露したのも今日が初めてだ。コンテストなど審査員たちの厳しい目に晒されながらマジックをするのと、好奇心や驚嘆をじかに感じる空気の中で手を動かすのとでは、心に生まれる余裕が違う。
「それでずっとニヤニヤしてるわけ?」
地下のレッスン室で柔軟体操をしつつ、静珂が不審者を見る眼差しを向けてくる。
放課後になってもクラスメイトの興味はおさまらず、仕事があるからと切り抜けるのは大変だった。どうにか静珂と合流して事務所に向かう道すがらも、背後からひそひそ声が聞こえてきたほどだ。
「別にニヤついてねえだろ」
「どこが。唇がずっとゆるゆるのくせに」
「もしかしてぇ、二人がいつもより遅かったのって、後ろからついてくる人たちの相手してたから?」
那央が首を傾げていると、静珂は鬱陶しそうに頬を膨らませた。
「撒いてきたの。ついてきてるのに気づいたってバレたら、絶対に話しかけてくると思ったから。もう、どれだけ早歩きしたと思う? どこまで行ってもつけてくるし、めちゃくちゃ回り道しちゃったじゃん!」
「悪かったって。明日それとなく『ストーカーは止めろ』って言うから」
「明日からゴールデンウィークなのにどうやって伝えるわけ?」
「月曜日は学校あるだろ。けどまあ、三連休か」
「休み明けには興味なくなってると良いねぇ」
「やめろ、それはそれで俺がショック受ける」
「でもほんま風眞先輩のマジックすごかったよ」
麻黄耶の称賛には一切の媚が無い。純粋な褒め言葉に耳が熱くなる。やめてほしいような、もっと言ってほしいような複雑な気分で、ぶっきらぼうに「そうかよ」と言うしかなかった。
「なあ。最初に見せてくれたコイン吹っ飛ぶやつってどうやっとんの。種明かししてくれるんやろ」
「今日するとは言ってねえだろ」
「えー、ケチ!」
ぶうぶうと唇を尖らせる麻黄耶の横っ面を押し返しながら、風眞は壁にかかる時計とレッスン室の扉を見やった。レッスンの開始までまだ時間があるし、講師である丹和もまだ来そうにない。
「僕も風ちゃん先輩のマジック見たいなぁ」と那央がねだる横で、静珂もうずうずと腕を組んでいる。言葉にはしていないが気になっているらしい。
「仕方ねえな。どっちから見たい?」
「やった! ほんならコイン!」
リクエストに応えてコインを取り出し、親指の付け根に乗せる。呪文を唱えてやってみせると、那央と麻黄耶は拍手してくれたし、静珂は眉間にしわを寄せたり目を丸くしたりと、表情をコロコロ変えてくれた。
「どうやってるの? 糸で吊ってるわけでもなさそうだし」
「手の筋肉で飛ばしてんだよ」
「筋肉?」
「ほとんど感覚でやってるから説明するの難しいんだけどな。こう、手のひらでコインを挟む感じで持って、クイッてやって飛ばす」
「後半の説明が雑過ぎない?」
「その〝クイッ〟の部分が分からへんねんけど。オレにも出来る?」
麻黄耶の手にコインを乗せてやると、見よう見まねで飛ばそうとしていた。だが実際は飛ぶどころかひっくり返りすらしない。
「すぐ出来るものじゃねえんだよ。人によって手の形とか違うしな。一、二週間で出来る奴もいれば、五年かかっても出来ない奴もいる」
「風ちゃん先輩はどれだけかかったの?」
「三年くらい。思うように出来たのはつい最近からだ」
「そうやったんや……! ほんなら、あれは? 杖消してしもたマジック」
「あれも単純な仕掛けだよ」
麻黄耶から再び杖を借りて、教室で披露した際と同じように手元から消してみせる。三人が目を丸くしたところで今度は杖を出現させれば、なにかに気づいたのか、静珂がにやにやと笑っていた。
「分かった。耳でしょ」
「正解」
言われてもよく分からなかったのか、那央と麻黄耶は自身の耳たぶに触れながらどういうことかと目を見合わせている。
風眞は体の向きを変え、先ほどまでと反対の面、杖を振る右側を彼らに見せつけた。その状態でマジックをすればすぐに種はバレる。
「あ! 耳んとこにある!」
「そういうこと」
杖を手のひらに二度当てたあと、素早く右耳に挟むのだ。左手に注目するよう観客に言っておけば、右手に向ける意識が疎かになる。その油断をつくマジックだ。
マッスルパスに比べれば難易度が低く、数回の練習で初心者でも簡単にできる。しかし簡単だからこそ、いかに観客を楽しませるかが個人の技量にかかってくる。
「お前みたいに視線の誘導に引っかからないひねくれ者もいるしな」
「誰がひねくれ者って?」
「なあなあ、他はどんなマジック出来んの? トランプ
「空中浮遊とかも見てみたいなぁ」
「トランプはともかく、あと二つはここで出来ねえって」
それならあれは、これも見てみたい、と一年生二人が次々にリクエストを送ってくる。まるで初めてマジックを見た子どもだ。楽しんでもらえるのは嬉しいし、次はもっと難易度の高いものを披露しよう、そのために練習しようという気になる。
――多分、親父も同じ気持ちだったんだろうな。
――俺と姉ちゃんがあれもこれもってせがむから、いっぱい覚えて、そのぶん練習もして。
「へえ」静珂がなにやら指を伸ばしてくる。白く細いそれは風眞の頬をつんつんと押した。「お前ってちゃんと笑えるんだね」
「はあ?」
「歌とかダンスの練習してる時とか、ユニットのあれこれ決めてる時とか、ずっと仏頂面だったでしょ。社交辞令でも笑えないくらい表情筋が固いのかと思ってたけど、なんだ、笑えるんじゃん」
「教室で見せてくれた時もニッコニコしとったやんなー」
「おいやめろ。お前までつついてくんな」
「僕もやらせてぇ。わー、風ちゃん先輩のほっぺもちもちだぁ」
「もちもち具合はボクの方が勝ってると思うけど?」
「変なとこで張り合うんじゃねえ」
交互につついてくる三人の手をなんとか払いのけて、風眞は己の頬をぐにぐに揉んだ。
マジックは楽しい。自分が覚えた技を見せるのも、それによって人々の笑顔が花開くのも、なにものにも代えがたい幸福感がある。
――でも俺が成ろうとしてるのは、マジシャンじゃなくてアイドルで。
自分が進もうとしている道は果たして正しいのか。アイドルになりたくないと言えば、この期に及んでまだ言うかと静珂が怒るだろう。
答えが出せないまま、丹和が来たためダンスレッスンが始まった。
考えごとをしていては体がろくに動かない。ダンスに集中しなければ。意識をうまく切りかえられたおかげか、昨日より軽やかにステップを踏めた気がする。
「実際はステージで歌いながら動くから、どちらか一方に気を取られないように注意も必要だぞ。動きながらでも音程がぶれないよう、今から慣れておいた方がいい。歌の練習はなにをしているんだった?」
「ランディエのデビュー曲です。基礎を整えるにはちょうどいい、と副所長が」
「じゃあ試しにそれを歌いながらステップを踏んでみよう」
緊張で力み過ぎだと副所長に言われたのを思い出し、肩の力を抜いて声を出す。前ほど裏返らなくなったけれど、動きが加わると音程がふらついた。そちらを正確にしようとすれば、今度はステップが鈍くなる。
風眞だけでなく、那央と麻黄耶も戸惑っているようだった。常に頬が緩みがちな二人ですら、顔から余裕が消えてしまう。だが三十分もすれば慣れてきて、三人とも動きや歌からぎこちなさが取れた。
「四人の中だと善利くんが一番スムーズだったな。身近な目標として、三人はまず彼と並べるくらいを目指すといい」
「分かりました」
「歌に関しては俺からどうこう言わないよ。口を出すとテルヤスが怒るからな」
「テルヤス……?」
副所長のことだろうか。名字は〝磯沢〟だったような気がするが、下までは覚えていなかった。
「そういえば、君たちは実際にランディエのパフォーマンスを見たことあるのか」
「カラオケ行ったときにずっと映像は流してたので、それだけなら」
「麻黄耶は?
「んー、歌は何べんも生で聴いたことはあるけど、そういえば踊っとるとこはちゃんと観たことはないかも」
「……生で聴いたことあるなら観てるんじゃねえの? なに? 興奮しすぎて覚えてねえとか?」
「ていうかオレ、ライブ観に行ったことあらへんねん。お金足りひんからチケット買えんくて」
会場の外で音漏れを堪能していたということだろうか。そこまでランディエのファンとは思わなかったけれど。
ふむ、と丹和は一つうなずき、少し待っているよう言いおいてレッスン室を出て行った。二十分程度で戻ってくると、スマホなり手帳なりでカレンダーを確認するよう促される。
「来週の木曜日――子どもの日だな。四人とも予定は空いてるか?」
那央と麻黄耶はこっくり首を縦に振る。風眞と静珂も、幸いモデルの仕事は入っていない。面倒を見てくれる副所長や丹和にも休みが必要だからレッスンも無かったはずだ。
「じゃあ悪いんだが、この日の昼から予定を入れても構わないだろうか」
「良いですけど、レッスンですか?」
「レッスンと言うか、ある意味勉強ではあるかもしれない」
四人が揃って首を傾げると、丹和はにっこり微笑んだ。
「観に行くんだよ。ランディエのステージをな」
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