第16話

四限。

基礎数学の講義が再び行われた。

しかし、ある物が足りなかった。


「あれ、そう言えばさっきのテスト返却されたっけ。」


「返されていない。」


講義は平然と始まった。

蓼科は学生に五ページ目を開かせて、簡単な関数の解き方について説明しだした。

まるで、三限時のテストはなかったかのようだ。

学生達は戸惑いながらも、指定のページを素直に開き講義を聞く。


控えめに言って、退屈であった(あくまでも個人の感想です)。

まさか医療系の専門学校の臨床工学科で、まさか未来の医療従事者を育てる専門機関で、こんな簡単なことを『教えられる』とは思ってもいなかった。

英琳は普通科の高校で、二年生で理系学級を選び、物理と化学と応用数学を選択した。

彼女の高校生活にとって数学とは日常で、他愛もない会話のようなものであった。

だから、まさか専門学校に入ってまでも高校レベルの簡単な数学を学ぶとは思いもしなかったのである。


「最中、この問題、解ける?黒板にこの問題の解説を書いてみてくれ。」


「…はい。」


ただ眠たくて、一点だけを見つめていただけの英琳は突然、呼びかけられた声に少し驚いた。

どの問題のことを差しているのかも不明だったが、こんな簡単な問題を解けないはずはないので取り敢えず返事はした。

『どこ?』小さな声で咲和に尋ねた後教科書を持って教壇に上がった。

今時専門学校や大学で黒板を使用しているのも珍しいが、上下可能の二重式黒板なのも珍しい。

丁度良い高さの位置に問題を一行書き、勉強の苦手な人でも分かるように、嫌味を込めてわざと細かく書いた。


「よし、最中の書いてくれた通り、一次方程式とは…」


蓼科は英琳の書いた細かい解説をもとに、誰にでも理解できるように細かく説明を進めていった。

彼女は暇なので、どうしようかと思ったが教科書の問題を全て解き、蓼科に提出することにした。

流石に出席や評価などに甘そうな蓼科でも無断でさぼったり内職をしたりしたら、気を悪くするだろう。

しかし教科書の内容を完璧に説明できるレベルであると証明すれば文句の付けようがない。

そう考えた英琳は早速、自前の紙(英琳はノートやルーズリーフではなく、ただの白紙の状態のコピー用紙を使用していた。)に次々と問題を解いていった。


「え…、どこやっているの?それ。」


「ちょうど半分位のところかな。この教科書、問題少なくて参考にならないね。」


「おいおい。半分って、この九十分で?」


「そうだけど…?」


「『はてな』じゃないよ。凄すぎだろう。」


「え、皆高校で数学やらなかったの?」


「やったけど、入学までの期間で忘れた。」


「ああ、俺も忘れたわ。」


皆、高校で学んだ内容をたったの数ケ月で忘れてしまうという事実と、何の予習も無しに医療系の学校へ進学したという事実に、英琳は驚いた。

しかしその事実を皆に知らせるのは良くないと分かっていた。

そんな気持ちや驚いた心境などをカミングアウトでもすれば、周囲の人間から見れば自分は凄く嫌な人間に見えると考えたからである。




数学の講義が終わると皆、ぞろぞろと帰宅準備を始めた。

終盤間際には荷物をまとめ終わっている者もいた位である。

この専門学校には様々なクラブが存在するらしいが、英琳達一行は誰もそれに興味は示さなかった。

教室の殆どの学生が三分以内に退出したのにも関わらず、彼女達は優雅に帰宅準備をしていた。

黒板に書かれた白チョークの文字を消し終えた蓼科は、教室にまだ英琳が残っているのを発見し声を掛けてきた。


「最中、君は数学が得意なのかな?」


「はい、なので教科書の問題全て解いたら、講義には出るので時間を好きに使って良いでしょうか?」


英琳の思い切った問い掛けに、咲和や竜之介などは驚いた。


「…それはちょっと…」


『無理でしょう』と小さな声で怜音が言いかけたその時、蓼科は気分の良さそうな顔をした。


「ああ、丁度その話をしようと思ったんだよ。教科書の内容は大体把握している感じかな?」


「はい、応用数学の方も見ましたが特に問題なく解けてしまいそうです。」


「成程ね。じゃあ、今日はこの後時間あるかな?プリント用意するから時間あるときにやってもらって、それを提出すれば後はテストも講義も免除する。」


「分かりました、自習室で待機していて良いですか?」


「直ぐ持って行くと思うけど、こいつらと雑談でもしてて。」


「お疲れ様です」


蓼科はそれだけ言うと小柄な身体ですたすたとエレベーターへ向かって歩いて行った。

英琳達がもたつきながら帰りの準備をしているうちに、十分程経ってしまった。

既に夜間の学生が教室に入ってきていた。蓼科と話していて英琳は殆ど準備ができていなかったので、皆で彼女の荷物をまとめて必要最低限の者だけを彼女の鞄に無理矢理入れると急いで教室を後にした。


「夜間の人達って結構早く来るんだな。」


「全然早くないでしょ。あの人たち十分前だよ。」


「あ…、早くなかったね。」


この学校には昼と夜がある。

昼の学生は九時から十六時十分まで、夜の学生は十六時二十分から二十一時二十分までである。

だから、昼の学生が講義を終えて直ぐに学校へ着くようにしていると『遅い』と言うことである。

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MEロマンス〜最央英琳の挑戦〜 玉井冨治 @mo-rusu

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