第8話 何かがおかしい。ショックな出来事が立て続けに

 従姉妹の急死の次は、クリニックに於いて外来、在宅共に最長老の102歳、107歳の患者が相次いでの他界だった。年相応と言われればそれまでだが、偶然にしてはこうも次から次へと続く訃報に、女は軽い鬱になりそうだと不安を覚えるのだった。


 新種の感染症もじわじわと周りを固めて来た。緊急事態宣言が発令されて、不要不急の外出を避ける様に屋外のスピーカーから毎日定時にアナウンスが流れる。それを聞き流しながら、後期高齢者たちはどこ吹く風で元気にグラウンドゴルフの練習を集団で行っていた。市町村が運営している運動場は借りられない為、個人的に借りている運動場に集中していた。

 

 またそれとは別に、1月下旬から2月下旬に連続した近隣や隣県の大規模な山火事発生が追い打ちをかけ、まさに大規模な山火事発生中に愛猫が突然死してしまった。あと3ヶ月で14歳になる所であった。

 毎日毎日早朝から夕刻まで、消火活動応援の為の防災ヘリが頭上を行き交う。患者たちはこの歳まで生きているが、この様な酷い有様は見た事が無いと口々に言っていた。

 近隣での大規模な山火事は、4月になっても発生した。その時には、遠縁の現在は空き家となっている家が全焼した、と耳に入った。引っ越しをしてしばらく経つが、住んでいなかっただけ良かった、と話していた。慰める言葉も出なかった。


 何かがおかしい。


 何かが狂っている。


 何故自分はここにいるのか。


 何故躰が違うのか。


 何故二点しんにょうなどが存在するのか。

 何故心臓がど真ん中にあるのか。


 何故従姉妹や愛猫が突然死したのか


 何故何故?


 一体何が起きて自分がここにいるのか?


 こちらに来なければ、猫も死ななかった?従姉妹も死ななかった?

 近所の高齢者も亡くなった。

 マンデラ体験をしてからというもの、入って来る知らせは悲しい出来事が殆どだ。嬉しい知らせなど皆無に等しい。

 帰りたい。以前のなんでもなかった世界線へ帰りたい。戻りたい。なんでもなかった事があんなに幸せだったなんて。知らなかった。

 SNSでは:見た事も無い極彩色の植物や昆虫、動物たちが日々発見されているが、そんな事はどうでもいい。

 世界地図や日本地図が日々変化しているらしいが、自分には全く影響が無い。それこそ遠い世界の話の様だ。

 何故こんな世界線ところに来てしまったんだ。

 いや、自ら選んで来たわけでは決してない。

 女は、まるで自分が首根っこを軽く掴まれて、ひょいと扉を開けられ、異なる世界線へと強制的に放り込まれた感覚に陥っていた。

 理不尽な仕打ち。自らの意思ではなく、まるで脳移植をされたかと思う程の躰との違和感。病を得た身。

 自ら望んで来たわけではない。外部から何らかの力が加わっているとでも言うのか。 


 次第に女はあらゆる現象の根源であると思い込む「マンデラエフェクト」と、世界線に嫌悪感を抱き、日々を怒りと虚無感で埋め尽くしていった。

 見えないに怒りを覚え、自力で元の世界線へ戻れない絶望感に全身がどっぷりと浸かった状態で生きていた。



 それは2月の半ば過ぎの事件であった。

 その前に、職場環境について触れておく。

 これは大昔の話になるが、女が就職する以前は、クリニックの環境設備は古かった。医療事務は電卓で会計をし、レセプト(診療報酬明細書)作成は3名による手書きで行われていた。

 だが、女が夏休みを使って前任者から仕事を教わりながらアルバイトをする、と決められた時、クリニックにレセコンと呼ばれる医療事務用パソコンがリースされた。

 気の毒な事に、前任者は残り10ヶ月で転職をするというのに、女の為にパソコンを学び使いこなし、高校の卒業式前日に事務長となる女に全てを教えてから退職をする羽目になった。前任者も女も素人同然であった。

 女は高2の春休み中にクリニックに就職が決まり、高3の夏休みや冬休みに現職先輩事務員から指導を受けた。院長先生や院長夫人、職員から何かにつけ「今の事務員が転職したら、全部独りでやらなくてはいけないからね」と脅迫まがいの発言をされて、鉄が熱いうちに激しく打たれた。

 当時はコピー機は勿論のこと、ファクシミリも無かった。

 ファクシミリは就職して数年後、コピー機に至っては10年以上経ってから設置された。女は待ってましたと言わんばかりに保険証のコピーに務めた。

 手書きでカルテ作成を行う際に、記載ミスがあったとしても、しっかりと写しが保存されている。間違いが探しやすい。女は保険証が更新される度、社保や国保等に変更がある度に、コピーを取って最低5年は保管しておいた。

 保険証の記入を誤ると、カルテを元に医師が様々な診断書を作成するので、公的文書の訂正などと、多方面に迷惑を掛けてしまう。

 時折、記入の際に難解な字に遭遇すると、保険証を幾度も拡大コピーに継ぐコピーを取り、その上、医師や看護師にも「私の字が読みにくかった場合はこちらを参照してください」の意を込めてカルテ表紙上部に貼り付けておいて、ミスを未然に防ぐ努力をしていた。


 お分かり頂けたであろうか。保険証の確認は毎月行うのは勿論のこと、普段からカルテ表紙の記入ミス防止に細心の注意を払っていた女であったのだ。


 話は2月半ば過ぎに戻る。

 後期高齢者の保険証は、毎年8月に更新される。女がマンデラエフェクトに遭ったのは10月上旬である。既に殆どの患者の保険証はコピーして保管してあった。後は毎月確認作業を繰り返すだけであった。

 この確認作業に於いても、女は一度痛い思いをしていた。一部負担割合が更新された翌月に更に変更されていた過去があった。

 「えっ?あれっ?先月変わったばかりで、また変更があったのですね?今月と先月の負担割合が変わっておりますから、頂くお会計も変わりますから……」

 患者はとても言いづらそうに口ごもる。

 「ええ……申告漏れがあったみたいなんですよね」

 ……女は脱力した。

 追徴課税がどうのこうの、と説明を始めた患者の言葉は次第に遠のいた。


 この出来事よりも更にショッキングな事件が起きたのだ。

その日は、よくある夫婦での来院、受診だった。

 女はしんにょうの入った氏名の患者の保険証には毎月毎月特別の注意を払っていた。 

 その夫婦は苗字にしんにょうが入り、尚且つ難しい漢字が使われていた為に特に注視していた。

 マンデラエフェクト後、スマホの漢字変換には2点しんにょうが出現したが、保険証にはその日まで使用されておらず、パソコンの表示も以前と変わらなかったので、女は安心しきっていた。

 いつも通りに受け取って、カルテを用意しようとして、女は身動きが取れなくなった。 


(え!何これ!何!何?なんで!いきなり2点しんにょうが!!って言うか、しんにょうの横の字形も違う!!)

 新患受付も再来受付も会計も窓口は一緒である。保険証の確認一つにそんなに時間をかけられない。

 だが、女は、他の患者など目に入らない。夫婦の保険証に目が釘付けになった。

 (あっ!そうだカルテ!表紙に以前の拡大コピーを貼ってあるんだった!)

 そこで再び女は固まった。


 信じられない事に、カルテ表紙に貼ってあった物は、今、女が手にしている保険証の字体と全く同じである。

 (は?どういう事!?私は保険証をコピーして何回も拡大コピーして貼ってそれを見てカルテ表紙を作ってる!ずっと前から◯辺さんは、難しい字の方の◯辺さんだから、それをじっくり見つめて書いたのに!!!)

 (そうだ今年の保険証のコピー!!)

 大急ぎで今年度の保険証のコピーを取り出す。

 更に固まる女。


 (ちょ、っと!!ちょっと!!いい加減にしてよ!!はマンデラする前の8月にコピーしたんだから!!)

 女には学習機能が不足していたらしい。昭和時代に製本された字典や辞書の中身が変わっていたではないか。

 しかし、女は自ら拡大コピーをして、それを凝視してカルテ表紙を作成したのだ。

 そのカルテ表紙は1で作成されていた。しかも、そのカルテ上部に貼附してあった拡大コピーは2

 女は焦った。マンデラする約2ヶ月前のコピーが2点しんにょう。

 (あっ!パソコンは!!こっちだって1点しんにょうなんだから!!)

 急いで開いた患者の画面には、しっかりと2が堂々と映っていた。今、手の中にある保険証と全く同じである。

 このパソコンは、インターネットには接続していない。改正がある度、ソフト会社からCDRが送られ、女がそれを用いて改正作業を行っていた。

 昨日直前まで、そんな作業はしていない。パソコンが自動的に変わってしまう事など有り得ない。

 (なんなのなんなのなんなの!!カルテ表紙だけは以前のままなのに!コピーが拡大コピーが保険証がパソコンが一気に◯邉に変わっちゃった!!)


 ハッとして、残りの5年分のコピーはどうだろう?と頭を掠める。

 気が付くと、夢中で◯邉さんを窓口へ呼び、「あのう。すみませんが、こちらの紙にお名前を書いて頂けますか」と更に本人に確認しようとしていた。

 全くこの女は、自らの非を認めたくないどころか、引導を渡される事が好みであるらしい。

 不思議そうに窓口へやって来た彼は、さらさらと保険証に記載されているのと変わらない文字を書いて女に渡した。


 女は目を見張った。いや、目玉が飛び出る勢いで彼の手元を凝視していた。 

 「あのう……、こちらは、いつからこの字になったんですか……?」

 キョトンとした顔をして、彼は答える。

 「え?ずっとこれですよ?」

 (嘘こけ今日からだよ!!!)

女は待合室に戻って行く彼の背中に向けて心の中で叫んだ。

 そうこうするうちに、医師や看護師からカルテの催促と患者からの会計の催促を受けると共に新患や再来患者がぽつらぽつらとやって来る。

 女は一旦、一連のショックから頭を切り離して、業務に戻った。

 そして、少々手が空いた時間に急いでカルテ保管部屋へ向かい、5年分の保険証のコピーを取り出して来た。

 ……まさかの5年分の保険証のコピーは全て、◯邉に化けてしまっていた。

 女が何故、無我夢中で彼に手書きで氏名を紙に書いてもらったのか。

 はっきりさせたいという一念もあったが、実は、平成13年から始まった高齢者のインフルエンザ予防接種の問診票にて、ほぼ毎年受けている彼の自筆を20年以上眺めて来たからである。

 そちらに記入した際には、当たり前の様に1点しんにょうであった。

 まさか、本人が今、この場で、2点しんにょうの◯邉を書くとは夢にも思わなかったのであった。


 午後になっても女は納得せずに頭を抱えていた。 

 何故だ。マンデラエフェクトに遭遇した日から今まで、ずっと1点しんにょうであった。なのに何故だ!

 難しい漢字の◯辺さんは、もう一家通院していた。

 女は祈る思いで拡大コピーが貼附してあるカルテと、今年度の保険証のコピー、また5年分の過去のコピーを見比べた。

 当然の様に、手書きカルテ表紙には1点しんにょうで、保険証のコピーは全て◯邊に化けてしまっていた。

 オマケにパソコンまで変わっていた。

 女はやるせない気持ちとやり場のない怒りを誰にどこにぶつけていいのか分からずに、悶々とした。

 それから数日後、近隣で大規模な山火事が発生し、次に愛猫が突然死し、女はどんどんと暗闇に巻かれて行くのであった。


 それらは、これから相次いで起きる事柄の前触れだったのかもしれなかった。

 まだまだ災難は続くのであった……。





           

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