第18話 八百比丘尼の雪月、宇治原の道比等に対面するのこと。
道比等が紫宸殿に現れるなり、孝之と雪月は殿上人の群れと共にその前に並んだ。
今更、頭を下げて道比等の前に並んでいると、言いようもないやるせなさが腹の底から湧き上がってくる。
わざわざ自分を殺す様に仕向けている爺さんを相手に頭を下げ、わざわざ殺される為の仕事に就く。しかも、その為に莫大な借金まで背負うのだから、尚更に笑えない。
何と言うか、生贄の為に捧げられる牛はこんな気持ちなのかと思わずにはいられない。
そんな孝之の前に現れた道比等は、紫宸殿に集まった殿上人を見渡して、如何にも厳かに口を開いた。
「
その声と共に孝之たちが顔を上げると、以前と変わらぬ厳しい顔つきをした老人が、黒の束帯に身を包み、孝之たちを見下ろしていた。
「さて、それでは詮議を始めよう。先ずは、東国で起き始めた動乱についてだ」
そう道比等が切り出すと、地方の貴族が勝手に武士を取り立てているだの、寺社勢力が税金をがめているだのと、色々と議題は上がるものの、肝心の孝之の任官については触れる事なく詮議は進んだ。
何やら重大な事を話しているのだろうことは分かるのだが、そもそも話の流れが分からない上に、孝之には殆ど関係の無い話ばかりなので、余りの退屈ぶりに何度もアクビを噛み殺した。
もしも隣で雪月がアクビをする度にその横腹をつつかなければ、もしかしたら途中で寝ていたのかもしれない。
そうして、道比等の長々とした説明に半ば眠りこけそうになりながらも詮議を聞き続けていると、ついに孝之の名前が呼ばれ、孝之は雪月と共に道比等の前に出た。
すると道比等は、自分の前に進み出た孝之の顔を見るなり、皮肉げな笑みを口許に浮かべた。
「橘の孝之殿。随分と返事を待たされたのう。この
道比等はそう手痛い皮肉を切り出したが、孝之は頭を下げたまま、軽く嗤いながら皮肉を返した。
「申し訳ございません。ですが、私はご覧の通りに地を這う様にしか生きられぬ人間でございます。この葦和で最も清浄な場所に足を踏み入れるべきではないと思い、それを摂政殿も良くご理解されていると思いました故、返事を出すのも憚られました」
「言うてくれるではないか。だが、昇殿を果たしたと言うことは、主上の申し付けを引き受けてくれると言う事でよろしいのか?」
その言葉に、流石に孝之も言い澱んで身動ぎしたが、それでも隣で同じ様に頭を下げている雪月の姿が視界の端に映り、口を引き締めて顔を上げた。
「無論。お引き受けいたします。主上が何一つ不満を抱かないように事を丸く収めて見せましょう」
孝之がそう胸を張って言うと、道比等は鼻を鳴らして扇を開いた。
開いた扇で口許を隠した道比等は、身動ぎする様に孝之の隣で今も尚、頭を下げている雪月に視線を送った。
「して、一つ気になるのは、そこな女人だ。一体、何故にこの紫宸殿に女人を連れて来たのだ?仮にも主上の
その質問に、孝之は思わず黙り込んだ。
半ば予想はしていたとは言え、実際にどう答えれば良いものか、ここに来るまで良い考えは浮かんでいなかった。
その為、どう言い繕おうかと迷ったその時だった。
「摂政、宇治原の道比等様を前にして、ご無礼承知の上で申し上げたきことがございます。その為に、ご尊顔を拝見する事、許してもらいたく」
頭を下げたまま静かに口を開いた雪月の言葉は、作法にのっとった宮中言葉だった。
そんな雪月の様子に道比等は訝しげな視線で月を見下ろしていたが、やがて肩をすくめた。
「ふむ……。良い、許す」
重々しくかけられた道比等のその言葉を聞き、雪月はゆっくりと顔を上げた。
そうして、道比等の前で身を起こした雪月は、薄く口元を歪ませた酷薄な笑みを貼り付けて、道比等を見上げた。
「見ての通りに、私は遊女を務めておりますれば、諸所雑多な事に通じておりまする。琵琶弾きや連歌詠み、舞まで、命じられれば何でも出来ましょう。その芸の一つを、本日は摂政殿にご覧入れたく存じます」
胸に手を当てながら流れる様にそう言う雪月をみて、道比等は呆れた様に溜め息を吐いた。
恐らくは、内裏にまできて平然と自分を売り込む遊女の姿に辟易としたのだろう。
そんな孝之の感想を裏付けるように、道比等は不機嫌な声で雪月に話しかけた。
「ほう。言うではないか。女子が立ち入る事を憚るられるこの内裏に上がり込んでできることが琵琶弾きとはな。さぞや大層な芸であろう。こちらで琵琶を用意してやる故、早速弾いてみるが良い」
あからさまに悪意の篭った命令は、雪月よりもむしろ孝之の方が怒りを覚えるほどであり、思わず道比等に掴みかかりそうになった。
しかし、雪月はそんな孝之を目線だけで制すと、道比等の命令に涼やかな声で応えた。
「摂政殿、ご安心くださいまし。琵琶ならば、こちらで用意してございます」
そう言うと、雪月は懐から一枚の札を取り出すと、その札を右手の人差し指と中指で挟んだまま、左手で指笛を吹いた。
すると、雪月が取り出した札は、琵琶袋に包まれた琵琶へと姿を変えた。
鮮やかに行われた雪月の魔術に、思わずその場がざわつく中、雪月はするすると琵琶袋を解いて中に入っていた琵琶の雪月を取り出した。
雪月の手にした琵琶を見て、道比等は身動いだ。
「その琵琶、よもや橘家に伝わる三名器の一つである雪月、ではあるまいか?」
「さすが、摂政殿。お目が高うございます。こちらにございます橘の孝之殿に私の腕前を認められ、この度、この琵琶を譲られました。記念に私の名前も琵琶の名前に変えましてございます。どうぞ、これよりは孝之殿の雪月とお呼びください」
「ふむ。なるほど、なるほど……。どうやら、見た目通りの遊女では無いようだな。先ずは、其方の腕前見せてもらおう」
そう言う道比等に雪月は、はい。と淑やかに答えると、口許に手を当てながら、艶然と微笑んだ。
「ですが、このままでは少々味気のうございます。折角の天下の三名器。その音を楽しめる様、場を整えさせて頂きとうございます」
そう言うと、雪月は新たに袖口から赤、青、黄、白、黒の五色の色紙を取り出すと、それを小さくちぎり始めた。
不思議なことに、雪月が千切った色紙は幾ら千切っても小さくならず、やがて雪月の前には大きな色紙の山が出来上がった。
そうして出来上がった色紙の山に、雪月は勢いよく息を吹きかけ、色紙がまるで吹雪の様に舞い散った。
すると、舞い散った色紙の欠片は途端に蝶の様に羽ばたき始め、紫宸殿の空中を奔放に舞い始めた。
幻想的な光景に、その場にいた殿上人の多くが言葉を失っている中、雪月は撥を弦に当てて、軽やかに琵琶を奏で出した。
雪月の奏でる琵琶の音は確かに素晴らしく、美しい音色が紫宸殿の中に響き渡り、その場にいた多くの者が雪月の琵琶の音に聞き惚れた。
やがて、琵琶を弾き終えた雪月は、琵琶を床の上に置くと、パチリと指を鳴らした。
すると、床に置かれた琵琶も宙を舞っていた色紙の蝶も一瞬で消え失せ、代わりに雪月の右手に一枚の札と五枚の色紙が握られていた。
そうして、呆然とする殿上人を前にして、艶然とした笑みを浮かべた。
「これにて、座興は仕舞いに御座います。楽しまれて下さいましたら、これ以上の喜びはございません」
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