橘家当主、橘の孝之

第9話 八百比丘尼の雪月、橘の孝之の屋敷に入る。

 雨も上がり、羅城門から雪月を連れて帰宅した孝之は、早速この遊女の姿をしたバケモノに力を借りたことを後悔した。


「風呂はどうしたねい?雨に降られて凍えてしまったことだし、まずは風呂に入って暖まりたいものだがねい?」


「おや?服はこんなものしかないのかい?女物がないのは仕方ないにしても、男物もこんなに野暮ったいのしかないのかい?」


「全く、何だいこの貧相な飯は?折角この私が力を貸すと言っているのに、気の利かない男だねい?」


「酒はどこだい?客人相手に酒も出さないってのは、一体どういう了見だい?」


 孝之は、帰宅するなり、不平と不満と文句と小言しか言わない雪月に翻弄され、雪月がすっかりと部屋で寛ぐ頃には、絶体こいつを殺すと心に誓っていた。

 そうして、雪月のわがままにてんやわんやした孝之が一息ついた時には、雪月は、厨房で見つけた酒を、酒杯も使わず、瓶子に口をつけて直接かっ喰らいながら月見に興じていた。

 そんな雪月を尻目に、一息ついた孝之は、あり合わせと残り物を持ち寄った飯を食い始めた。

 そんな孝之を見て、雪月は月見に興じながら、孝之を揶揄う様に笑いかけた。


「いやしかし、橘の旦那が言っていた事は本当だったんだねい」


「あ?一体何のことだよ?」


 孝之は行儀の悪い飲み方をする雪月に、思わず眉を顰めて見せた。

 今雪月が呑んでいる酒は、今上帝を犬神から庇った時に下賜された酒だ。

 別に酒好きではないので、呑まれたところでどうと言う事はないが、こうまで遠慮なく口にされると、腹が立つ。

 しかし、どうやる雪月は相当酔っているようで、孝之の心境も察しようとはせず、如何にも上機嫌な様子で孝之に話しかけた。


「旦那が雅楽師の出で、それもあの、早瀬の橘氏の御曹司だと言う話さ。正直言って、口からついて出た嘘か冗談だと思ってたんだがねい」

 

「……まぁ、お世辞にも見てくれでそれを判断しろというのは無理かもしれんが、お前が話せと言うから話したのに、随分なことを言うじゃねえか」


 雪月からの質問に、孝之は一瞬、飯を口に運んでいた手を止めると、やや棘のある言い方でそう言った。

 しかし、酒に酔った雪月は、孝之のそんな様子に気づかなかったようで、肩を竦めると、ケラケラと笑いながら話を続けた。


「貴族の間じゃよくある話だからねい。自分の家に箔をつけるために、名のある貴族の氏を名乗るってのは。だから、旦那もそういう口かと思ってたよ」


「……随分と貴族のことに詳しいんだな。客にしてるのはそういう奴らばかりなのか?それとも、余程の上客に閨でも聞いたか?」


「随分な口の効きようだねい。何か癇に触れたかい?」


 苛立ちを募らせる孝之に雪月がからかうようにそう言った時だった。

 おもむろに孝之は手にした食器を起くと、今までになく強い目付きで雪月を睨み付けた。


「……お前は、さっきから貴族があーだこーだと言って笑ってるがよ。それは要は他人の家庭の事情に首を突っ込んで、面白がってるってことだぞ。親だの何だのに文句のねえ奴が、この世にいないわけねぇだろ。それなのにへらへら笑いながらそう言うのを娯楽にされて、心穏やかでいられるわけねぇだろうが」 


 その目付きは、今までのどこか余裕のある眼差しとは違う、強烈な殺意に満ち満ちた目付きだった。

 今までになく、強い殺意をたぎらせる孝之の様子に、流石に雪月も遠慮が無さすぎたと思い、はたと黙り込んだ。





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