第8話 八百比丘尼の雪月

 自分を殺せ。そう願う遊女に対して、孝之は迷うことなく即答した。


「分かった。それでいいなら、いつでも殺してやるよ。それじゃあ、俺を助けてくれ」


 遊女の頼みを聞いた孝之は、そう言うと尻を叩いて服についた汚れを落とした。

 余りにもあっさりと遊女の頼みを聞き入れた孝之の様子に、遊女は目を丸くして驚くと、小首をかしげながら孝之に質問した。


「……随分と簡単にうなずくんだねい。先ほど見た通り、私を殺すのは簡単ではないよ?何より、こう言う頼みをされた時は、普通は事情を訊くものじゃないかねい?」


「話したいのか?その事情とやらを?それとも、本当は死にたくないのか?」


「いやあ、そう言う事ではないがねい……。ただ、本当に訊きたくはないのかと思ってねい」


「悪いが俺は、僧侶でもなきゃ神官でもない。ましてや、殺しに躊躇いがあるような奴でもない。そう言うやつだから、お前も俺に殺してくれなどと頼み込んだのだろう?」


 本当に心から興味が無さそうにそう言う孝之に、遊女は口元を抑えながら、静かに笑った。


「確かにねい……。旦那の言う通りさ。私は旦那なら、何も言わずに私の殺してくれると思ったから頼んだよ。それでも、私は首を切っても死なないような奴だよ?旦那に殺せるかねい?」


「知るか。とりあえず、死ぬまで斬り続ければ、死ぬだろ」


 遊女からの疑問に、孝之は答えにもならない答えを吐き捨てた。

 そんな孝之に、遊女は今度こそ心底から可笑しそうに声を上げて屈託なく笑い出した。

 やがてひとしきり笑い終えると、目許の涙を指先で拭いながら、孝之の顔を見た。


「いやいや。こんなにも笑うなんて、随分と久しぶりだ。笑いすぎて、腹が裂けて死ぬかと思ったほどだねい」


「そりゃ良かったな。お前の望みが叶ったじゃないか。……まあ死なれたら、俺が困るわけだが」


「そうだねい。確かに、今死ぬわけにはいかないねい。それじゃ、橘の旦那。ひとまずは、この雨が上がったら、旦那の家に招かれようかねい」


 如何にも艶のある笑顔を浮かべながらそう語る遊女に、孝之は、はいはい。と口にしながら肩を竦めると、ふと遊女に質問した。


「ところで、お前は一体何者なんだ?首を斬っても死なない人間何ざ、俺にはバケモノとしか思えないが、本当にバケモノじゃないのか?」


 心底不思議そうに訊ねる孝之に、遊女の方は一瞬だけどう答えようか考えこむと、ふと何かの悪戯でも思いついたかのような笑みを浮かべて、孝之に向かって片眼を瞑って見せた。


「人によっては、私のことは弁天様。と呼ぶねぇ。他には天女という人もいたねぇ。どうだい?旦那も私の事は、女神と呼んで崇めても良いのだよ?」


「はぁ?ふざけんのも大概にしろ。本当に神仏の類だってんなら、俺の窮地を知らない訳がねぇ。わざわざ俺から話を聞かなきゃいけない道理はないだろ。そんなことをする以上、少なくとも神や仏の類いであるはずがない。いいかげん、化けの皮を剥いだらどうだ?」


 意外にも芯を捉えた孝之からの質問に、遊女は目を丸くして驚くと、口許を手で押さえながら笑い転げた。


「ここに来てもバケモノあつかいかい?……本当に失礼極まりない男だねえい。そんなに言うんだったら、当ててみな。一体私は何だと思うんだい?」


 そうからかうように聞いてくる遊女の様子に、思わず孝之は返答に窮した。

 

 なるほど。確かに神仏の類いではあり得ないのは、孝之が指摘したとおりだ。

 だが、目の前の遊女は首を刎ねられても死なず、弁天様と言っても通じるだけの美貌はある。

 言われてみれば、一番近い存在は神仏や天女の類いなのかもしれなかった。

 そう、孝之が思った時、ふと、頭に過ぎる文字があった。


「……人の身で死なねえバケモノ……、八百比丘尼かなんか?」


 特に本気でそう思ったわけではなく、ただ何となく呟いた言葉だったが、その言葉を聞いた途端、遊女は目を大きく見開いて孝之を見た。


「驚いた……。まさか当てられるとは思わなかったよ。一体どうしてわかったんだい?」


「え?嘘だろ?本当にィ?」


 思わず孝之が目を剥いて驚くと、遊女の方も心底驚いた様子で孝之を見つめていた。

 すると遊女は、一度咳払いをすると、孝之に向き直り、胸に手を当てて改まってみせた。


「たしかに、世に名高い、人魚の肉を食い、浅ましくも浮世をさ迷う、八百比丘尼とは、私のことさねい。よくまあ、当てたもんだねい」


 そう言って、明るく笑う遊女の様子に、孝之は少しの間、呆然とすると、思い出したように八百比丘尼に訊ねた。


「それで?結局お前は、一体何て名前なんだ?俺は何と呼べばいい」


「そりゃあ、旦那がお決めになればいい。八百比丘尼でも弁天でも。何なら、昔の女の名前でもお付けなさるかねい?」


「ふざけろ。クソが」


 如何にも婀娜っぽい流し目でこちらを見る遊女に孝之は思わず悪態をつくと、遊女をどう呼ぼうかと考え込んだ。

 そこでふと、思いついたことがあり、孝之は遊女を見た。


「八百比丘尼、遊女の格好をしてるってことは、楽器は弾けるか?」


「ん?……まあ、琵琶なら少々使えるがねい。それがどうかしたのかい?」


 その答えを聞いて、孝之はそれだ。と、指を鳴らした。


「なら、お前の名前は雪月ゆづきだ。雪の月で、ゆづき。俺はお前のことをそう呼ぶ」


 孝之がそう言うと、遊女はしばらく口の中で自分の名前を噛みしめるように、何度かその名前を呟いた。


「ゆづき、ゆづき、雪の月か……。悪くない名前だねい。気に入ったよ」


 こうして、弁天様こと八百比丘尼改め、遊女の雪月と橘の孝之は出会うことになった。






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