橘の孝之

第1話 羅城門の雨


 羅城門には、ぽつぽつと雨が降り始めていた。


 夏の蒸し暑い空気もすっかりと鳴りを潜め、秋のひいやりとした空気の中に混じりだした雨粒の匂いは、鼻の奥に染みついた秋特有の土臭い匂いを洗い落としてくれる。


 たちばなの孝之は、本降りになり始めた雨の音に耳を澄ましながら、ぼんやりと空に呟いて羅城門の大柱に身を預けた。


「さて、どうしたものか……」


 孝之がそう呟いたのは、つい四、五日前に滝面たきめんの武士に任じられたからであった。

 しかし、それを孝之のことを知らぬ者が知れば、まず孝之の言葉を疑うか、彼が何者かに騙されていると思うだろう。

 何故ならば、滝面の武士とは、今上帝を始めとするこの葦和の国の皇統の守護を行う、選び抜かれた精鋭のことである。

 当然のことながら、滝面の武士に任じられる者には、実力のみならず血統や実績など、数多くの条件が必要になる。


 しかし、孝之は朱塗りの鞘に聖柄をした安い太刀を腰に下げ、色の褪せた小豆色の水干と柿色のくぐり袴を着込んだ姿をした、見るからに貧乏貴族のそのものの男である。

 ただ、辛うじて首から下げた神鋼ミスライト製の鏑だけが、貧乏ながらも武官の職務についている証として、胸元できらきらと白銀色に輝いている。


 事実、孝之はもとを正せば、検非違使けびいしの端くれとして兵衛府ひょうえふに勤めている末端の武官であった。


 辛うじて貴族の位にありこそすれ、明日の飯にも事欠くような単なる木っ端貴族に過ぎない孝之がこの役に任じられるというのは、よほどの幸運でもなければ起こり得ない事態である。

 事実、孝之はとある偶然から今上帝の目に止まり、滝面の武士として斎王さいおう、つまりは今上帝の妹君を護衛する任を与えられたのである。


 つまりは、孝之はその余程の幸運を掴みえた、当代稀にみる福男と言えるだろう。

 しかし、その裏に隠された事情を知れば、むしろ、幸運と言うよりも、不運、それも我が身に振りかかったその身の不幸さ加減の余りに、思わず神を呪いたくなってしまうほどである。


 何故ならば、


「……よもや、斎王様を斬れとはな。そんなことなど、できようハズもあるまいに」


 それが、孝之が滝面の武士に任じられた真の理由であったからである。

 当然そんなことをすれば孝之の首は飛ぶ。それも比喩ではなく、物理的にだ。

 しかもこの件でことさらに孝之が頭を抱えているのが、皇室に関わる仕事である以上、下手に断ろうものなら、これまた物理的に首を飛ばされるという事だ。

 いや、下手に断ろうが、上手に断ろうが、まず間違いなく、首が飛ぶ。


 何故ならば、斎王の殺害は当代の摂政を務める宇治原うじわら道比等みちひとによる厳命であり、彼の言葉に逆らうということは、国の命令に逆らうという事と同義だ。

 つまりは、斎王を殺せば大罪を犯した国賊となり、斎王を殺さなければその咎で逆賊となるわけである。

 どうあがいても死は免れぬ。理不尽不条理極まれりと言ったところである。


 いっその事、このまま逃げ出してしまおうか。

 孝之は、知恵の回る男ではない。秋の冷たい雨の中に、その身を投げ出してしまうほかに、この身の安全を守る方法を思いつかなかった。

 然しそれは同時に、辛うじて残った貴族としての位を捨てることでもある。

 恐らく、生計たつきを立てるとすれば、賊に身を落とすほかあるまい。


 それ自体は、孝之にとって望むところであった。

 国賊逆賊になるのを避けて、いっそ本物の賊になるというのは、事ここに至ってはむしろ奇妙な趣があるというものだ。元々、宮仕えの身分が性に合っていると思ったことも無い。

 そうは思いつつも、いまいち踏ん切りはつかなかった。


「……ここで逃げれば、墓参りには行けなくなるな」


 我知らず口にした言葉に、思わず舌打ちした。

 逃げなければ墓も何も無いというのに、それでも、この期に及んでそんなつまらないことに囚われている自分に辟易する。一方で、その言葉と同時に脳裏に甦った約束が、自分の足を逃げることから押し留めてしまう。


 受ければ斬首、断れば斬首。逃げることもできず、隠れる当てもない。

 自分の身を振り返ると、余りの不幸ぶりに思わず笑いがこみあげてしまうほどだ。

 そうして、苦笑とも失笑ともつかぬ笑いに身を任せていると、柄にもなく、曇天を見上げながら弱音を吐いてしまう。


「従えば国賊、逆らえば逆賊。進むは能わず、退く道は無し。ただ、首が落とされるのを待つのみ、か。出処進退窮まるとはこのことかよ……」


 するとその時だった。


「どうやら、お困りの様だねい」


 


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