13-05 柔らかい君の音
◆
眠りもめざめもない人を森に置き去りにしたままに、その置き去りに心を痛め、その痛みに自作自演めいた陶酔を見出しては嫌気がさし、その嫌気に自罰の気配を感じてまた自嘲し、そのなかで、そのなかでこれからすべきことはたぶん、これ以上まちがわないように振る舞うことだけだが、それによってなにも許されはせず、許されはしないからと開き直りもせず、さりとて、忘れないように、誓うだけではなく忘れないように、なにもかもがたちまちに行き過ぎ、いつか薄れてしまうとしても、こんなゆるい幸福にときおり何もかもが嘘になったような気がしながら。その営みが終わらないことを祈りながら、どこかで、とってつけたような結論を拾わないように祈り、それを営みのなかに、教会でも書き物机の上でもなく、街で、路上で、学校で、家で……可能なかぎりを、常に痛みつづけることが不可能だとしても、また間違うとしても、間違いに居直らずに……祈ること。あるいは、生活を、すること。
たぶん、言葉のように綺麗にはいかない。
でも、そんなふうに過ごそう。重くもなく、軽くもなく、あるいは、重くもなり、軽くもなり、そういう繰り返しを……。
なにも忘れはしない。
なにもなかったことにはならない。
◇
「あのさ」
「うん?」
「……こんな絵、壁に掛けてあったっけ」
「え? ……うん。ずっと」
◇
一学期の終業式のあと、文芸部には部員たちが全員集まっていた。話題は夏休み中の活動予定について……だけれど、結局のところ、おおまかな日取りだけ決めたあとは、自由参加ということになるらしい。鍵を管理するのが部長の青葉だから、青葉の予定が合う日だけが、週に何日か部活予定ということになる。とはいえ、何を練習するわけでもない以上、集まってなにをするというわけでもない。単に顔合わせをするだけになりそうだ。
俺は部室の壁に掛けられた絵を眺める。青葉が言ったとおり、たしかに、前からずっとあったのだろう。今まで意識していなかったのか、それとも存在を忘れていたのか。その絵はたぶん、ずっとここにあったのだ。……それがどうして、いまさら目につくのだろう?
海と、空と、グランドピアノ……だろうか。なんの画材で描かれたのかすらよくわからない。それでも俺は、それを綺麗な絵だと思った。
部室の長机の周りには、それぞれがいつのまにかに決まっていた定位置に腰掛けている。俺と青葉、大野、鈴音、それからちせ。
俺の手元にはボルヘスの『伝奇集』がある。
読んでもさっぱり内容は理解できない。小難しく書かれているせいなのか、それとも俺の側の問題なのか……。たぶん後者だろう。読むのに時間がかかって仕方ない。
『伝奇集』であちこちに手紙を送った……と言っていいのかわからないが……のだが、結局それに対しての返事はなかった。届いたのは、ちせが見つけたあの一通だけだったというわけだ。それ以来、この本からはなんの音沙汰もない。とはいえ、それはそれでいいのだろう(本当にあちこちからわけのわからない手紙が送られてきても困る)。
俺たちは予定を話し合うのも早々に、揃って部室をあとにした。みんなで下校して、どこかに寄っていこうという流れになった(そんなことが起きるなんて誰が思っていただろう?)。俺は「寄っていくところがある」と言って、みんなと別れる。「こんな日に?」と大野に怪訝げな顔をされたけれど、「まあ」と一言で済ませた。
といっても、どこにむかうかはみんなにもすっかりわかるはずだ。彼らは下り階段を、俺は上り階段を進んだからだ。
いつものように、胸ポケットのなかの鍵をとりだして差し込む。かちゃりという音がして鍵が開く。この扉はいつも簡単に開いてしまう。そのせいで、なにか大切なことを忘れそうになる。ほんとうは、この扉を俺が開けられるのは、単なる偶然にすぎないということさえも。あのマンドラゴラのキーホルダーと、ましろ先輩の気まぐれと……。
扉を開けた瞬間、ひかりがまぶしかった。それでようやく、さっきまでいた場所が、薄暗かったのだと知る。吹き込んだ風が汗ばんだ肌を撫でる。空は青く、雲は白く、低い。扉のむこうがもう夏だったのだと知る。
空が、どうしてか近い。そんな気がする。
フェンスへと歩み寄り、そのむこうの街を見る。
木々は緑、夏草は茂り、風に揺れる。校舎のあちこちから、誰かの話し声と、笑い声がきこえる。開放感からか、誰もがうれしそうに、楽しそうに見えた。たとえそれだけでなかったとしても、少なくともいま、俺自身も、それに少し当てられている気がする。
不意に俺はなにかのうたをくちずさみそうになったけれど、喉から出かけたそのメロディーがどんなものなのか、口にする前からわからなくなった。
歌?
うたなんて、ぜんぜん、ほとんど、口にしたことがないのに、どうしてだろう。
そんなことを思ったときに、なにかがわかった気がしたのに、それはそんな気がしただけで、俺の頭のなかではなんにもつながっていない。ここ最近そんなことばかりだ。
不意に、うしろから足音が聞こえた。
「遅いぞ」
青葉がそこに立っている。
どうしてか、彼女がここに来るのがわかっていた。
というよりも。
俺は彼女を待っていたのかもしれない。
「みんな待ってる」
「なんでだよ」
「……なんでって、なんでってこともないけどさ」
「……そりゃそうか」
そういうものだ。きっと。
なんで、なんで。
口癖みたいに呟いている。いいかげん、やめにしないと。そう思っても、たぶんこれからも、何度も繰り返すのだろう。それでも問うのだろう。
なにもかもが不思議だから。
青葉は俺のそばまでやってきて、そっと俺の手をとって、あたりまえみたいに握った。
「なんだよ」
「だめ?」
「……だめじゃないよ」
わかってるよ。でも、なんでなんだろう。
本当に不思議なんだ。
風が吹き抜けた。
そろそろいかなくちゃいけない。
そのとき、ふと、俺は校門の、あの桜に視線を向けた。
「……」
校門から出ていく生徒の群れたちからはずれて、桜の木の下にひとり、佇んでいる少女を見つける。その少女と、俺は目が合ったような気がした。
ふとした、まばたきの一瞬、その一瞬にたしかに、俺は、その桜の木に、満開の花が咲いているのを見た。
あの薄桃色の花びらが、枝を覆い、その下に少女が佇み、こちらを見ている。
そんな一瞬の幻視のあと、少女の姿は消えていた。
桜の木に、もう花はない。
それは、たぶん幻、なのだろう。
けれど……。
隣にいる青葉が、つないでいないほうの手の甲で目をこすった。
「……ね、今さ」
「見えた?」
「……隼くんも見た?」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
「なんだろうね、いまの」
「さあ」
「どうでもよさそう」
「ましろ先輩に、報告しとかないとな。……メッセージ送っておこう」
「だね」
それから風がまた吹いた。
「青葉」
「ん」
「そろそろ行くか」
「……うん!」
そうして俺たちは、屋上の扉に鍵をしめた。
◇
日陰になっている昇降口の入り口で、部員たちは待ち構えていた。
俺と青葉に気がつくと、大野が困ったふうに苦笑した。
「仲のいいことで」
「……あ」
青葉が慌ててぱっと俺の手を離す。急に宙ぶらりんになった俺の手は所在なさそうに少し揺れた。
ちせが俺たちを見てくすくす笑った。
そのとき、俺のポケットのなかで携帯が震える。
さっき送ったメッセージの返信が、ましろ先輩から来ていた。
「ありがとう」
と一言だけ。
俺はどう返事をしようか迷って、そのままポケットに携帯をしまい直した後、やっぱり何か返事をしたほうがいい気がして、また取り出した。
「これで、鍵の代金はチャラにしてください」
すぐあとにまた、メッセージが飛んできた。
「うむ。ほめてつかわす」
今度こそ俺はポケットに携帯をしまった。
「それで、どこいくの」
俺が訊ねると、みんなが顔を見合わせた。
「とりあえず、それを決めるために……どこかに寄って、涼もうかって話になったよ」
「……なんだそりゃ」
俺は笑った。
それから俺たちは歩きはじめる。べつに並んだりもせず、さりとて散らばりもせず、各々好き勝手に話しながら。
「ねえ」
と青葉が、俺にだけ聞こえる声で言った。
「なんだかさ、ぜんぶ、夢みたいだね」
「うん」
と、俺は頷いた。
さっきの、桜の木の下の少女を思い出す。
夢のような一瞬。
幻視のような光景。
確かめる術はずっとない。
でも、その光景を俺が見たことは、俺にとってはどうしようもなく真実だ。
◇
長い歴史を持つらしいうちの高校の文芸部の、長い歴史を持つらしい部誌『薄明』は、どういう経緯で作られたかはさておき、とりあえず今も部室の戸棚のなかに眠っている。俺が書いた長すぎる文章も、誰かの詩も、誰かの手紙も、たしかにそこにある。そんなひとつひとつの文章たちに、「なぜそこにあるのですか」と改めて問う人ははじめからいないだろう。それははじめからそこにあって、これからも付け加えられ、たぶんいつか、ずっとむこうでなくなってしまう。
奇妙な言葉や奇妙な出来事、理由の説明がつかないこと。どうして、と問いかけても返事が帰ってくることはないもの。たぶん、俺が生まれてここに生きていることと同様に、どうして、の答えはない。それは単にそこにあるし、そこにあった。俺の知らない物語がそこに眠っているのだろうし、あるいは息づいているのだろう。この街がそうであるように、どのような文章にも。
そこにまた俺は何かを書き足すかもしれない、何かを引き継ぐかもしれない、何かを見出すかもしれない。たぶん、そうなるのだろう。
手元にあるものだけで、「なぜ」に答えることはできる。
けれど、そこにはまだない何かがそこに付け足された瞬間に、まったく違う「なぜ」の答えが……意味が、立ち現れるかもしれない。
これで終わりだと決めた先に、まだなにかが付け足される余地がある。
文章を物語ることは、そういう仕事なのかもしれないと思った。
それはもしかしたら、誰かがいつか言ったように、種蒔きに似ているのかもしれない。
ここにあるものすべて、それをもちいて、意味を、理由を、「なぜ」の答えを物語る。その答えが、暗く悲しみに満ちたものかもしれない。
でも、そこにあたらしい何かが付け足されたら、それは別の姿に変わるかもしれない。まったくちがう相貌をあらわにするかもしれない。それはまだ見えない。まだここにはない。ここに到来してはいない。けれど、それはいつか訪れるかもしれない。
文章を書くことは、たぶん、そのようにして新たなものを受け入れ、意味を書き換えることなのかもしれない。それさえもきっと、これから何度も、意味を変えていくかもしれない。
それさえも……錯覚、なのだろうか?
なにも忘れはしない。
なにもなかったことにはならない。
風が不意にまた吹き抜ける。街路樹の枝葉が揺れる。
夏のひざしは嘘のように明るくて、何もかもが夢だったようで、でも、それが夢じゃなかったから自分がここでこうしていることを、俺は、たしかに知っている。
柔らかい夏風のなか、自分の足音を聞きながら、俺はそんなことを思った。
靴箱のなかの生活 へーるしゃむ @195547sc
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