13-04 世界でいちばん小さな海
◇
純佳はその日の夜、めずらしく俺の部屋にやってきた。彼女のノックはささやきみたいに小さかった。ベッドに寝転がって本を読んでいた俺を見て、なにか言いたげな顔をしたまま、勝手に椅子に腰掛けて、その上で膝を抱える。
「どうした」
訊ねると困り顔で笑った。
「ううん。なにかあるわけじゃないんです」
「嘘だろ」
「嘘です。嘘、ついちゃいました。……兄は、疲れてるみたいですね」
「うん。……うん」
なにもかもが曖昧に、曖昧になっていった。俺だけが覚えていること、俺だけが知っていること、俺だけが見た光景の全部は、それを知らない世界の過半数に塗りつぶされて、まるでなかったことになっていくみたいだ。
なかったことになんて、ならない。そう思うけれど。
「むかしのことを話そうと思ったんです」
「……むかしのこと?」
「はい。ちどりちゃんがいなくなった日のこと」
「……」
「あの日、兄はほんとうは、ちどりちゃんと一緒に行くつもりだったんですよね」
「……どうかな。あんまり覚えてないよ」
「……うん。そうかも」
「純佳も、覚えてるんだな」
「……やっぱり、兄も覚えてるんじゃないですか」
そう言われてから、俺は自分がつくづく馬鹿だと思った。
「兄は……ほんとうは、あの日、ちどりちゃんと一緒に出かけるはずだったんですよ」
「……嘘だよ。俺は断った」
肩をすくめた。俺だって覚えている。
純佳が風邪を引いたのだと嘘をついて、俺はちどりと怜の誘いを断ったのだ。
「いえ、断っていません」
「……」
「ごめんなさい」
「……何を謝ってるんだ?」
「兄だってわかるはずです。少し考えたら、わかるはず」
「……なにを」
「兄が、夜出歩こうとする怜ちゃんを止められるはずがない。それについていこうとするちどりちゃんを止められるはずがない。だったら兄は、絶対に、自分もついていこうとするはずじゃないですか」
「……なんで」
「心配だから、です」
「でも俺はそうしなかった。買いかぶりだ」
「いえ、そうしたんです」
「……純佳、言っている意味が……」
「……ごめんなさい」
「純佳、おまえは……」
何を知っているんだ、と問いかけても、きっともう返事はないのだろう。純佳はそれを俺に話すつもりがきっとない。
まなざしが、俺の瞳にむかってくる。
彼女の瞳のなかの光が揺れている。
「わたしは……」
「純佳、もういいよ」
「でも……」
「いいよ、純佳。おまえのせいじゃないから。……だから、そんな顔するなよ」
そう言ったのに、純佳の瞳から大きなしずくがひとつ落ちた。
追いかけるようにぽろぽろと、そのしずくは増えていく。
俺は起き上がって、彼女のそばに寄り、その手を握った。
純佳は一瞬おどろいたように身をひこうとしたけれど、すぐにためらいがちに握り返してくる。
「大丈夫だよ。俺は、おまえの言ってることなんて、なんにもわかんないけど、全部大丈夫だよ」
「兄は知らないんです、なにも」
「それがなんだよ」と俺は言った。
「おまえだって、きっと、なんにも知らないよ」
「……そんなこと」
「そんなこと?」
「……そうなのかな」
俺は純佳の頭をぐしぐしと撫でた。「うあー」と鼻声でうめいた純佳が、ごまかすみたいに笑った。涙はとまらなかった。
それを見ていて胸が詰まった。俺のほうが、泣きそうになった。
なんでだろう。
急に瞳の奥が熱くなって、体温が上がった気がして、ほんとうに、なんで、そんなふうになるんだろう。このもどかしさ、この息苦しいような気持ち。
悲しみの理由もわからないのに。
どうしてこいつの悲しそうな顔が俺に伝染するんだろう。俺にわかるんだろう。
そう思うとぜんぶ、ぜんぶが不思議だ。
こんなことが起きるのに、こんなことはいままでにもたくさんあったはずなのに……どうして俺は、世界が、自分の頭のなかにあるのかもしれない、なんて平気で言えたんだろう。
純佳が俺を見上げた。俺は彼女の瞳を覗き込んで、目の端の涙を指先ですくった。
泣き止んでほしい、と、そう思う。
どうしてだろう、と、何度問いかけてもきっと答えはない。
でも、どうしてだろう、と問うのは、たぶん、本心から不思議に思うからだ。
この不思議さ、この不可解さ、この、伝わらなさ、歯がゆさ、もどかしさ。
「わたしは……」
「いいよ、純佳」
「……はい」
鼻声のまま返事をして、純佳は苦しげに眉を寄せる。
何を言えるのか、言ったところで届くのかだってわからない。俺の言葉になんの効き目がある? 目の前で泣いている子に、何を言ってやれる? そんなのわからない。わかるわけがない。
「純佳はきっと、がんばったんだよな。なんのことかぜんぜんわかんないけど、たくさんがんばったんだよな」
「……」
「ぜんぜんわかんないやつに、こんなこと言われたって嬉しいのか、わかんないんだけど。それでもさ、俺は、よくがんばったなって言うよ。よくがんばったなって……そう言うしかないよ」
「……うん」
こんなの、賭けだ。
届くかも伝わるのかもわからない言葉を、効き目があるかもわからないおまじないを、それでも唱えるようなやりとり。
そう思って、わかった気がした。
たぶん、ずっとこれが続くんだろう。
祈りみたいだと思った。
純佳がぎゅっと俺の手を握った。俺はまだ、何を言おうかを考えている。これ以上何を言うべきなのか、それとも言わないべきなのかを考えている。
そんな俺をそのままに、純佳は顔をあげて笑った。
「……もうすぐ、夏休みですね」
「……だな」
「兄は……たくさん、遊べばいいと思う」
「ん」
「ほんとは、一緒にお祭りとか、いけたらいいなあって思ってたんです。でも……」
「……でも?」
「兄、彼女できたみたいだし、邪魔したら悪いですね」
「……なぜ知ってる」
「……気づかれないと思ってたことが意外です」
「……」
そんなにわかりやすいんだろうか、俺は。
「幸せに……」
「ん」
「幸せになってくれるとうれしい……」
「いや、死ぬのかおまえは。急に幸せを祈るな」
「……むむ」
ちょっと口をとがらせたあと、
「……へへ」
ごまかすみたいにまた笑う。
そのあと、純佳はまたうつむいて、何かを言った気がした。その声は小さすぎて、俺の耳には届かなかった。
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