13-04 世界でいちばん小さな海



 純佳はその日の夜、めずらしく俺の部屋にやってきた。彼女のノックはささやきみたいに小さかった。ベッドに寝転がって本を読んでいた俺を見て、なにか言いたげな顔をしたまま、勝手に椅子に腰掛けて、その上で膝を抱える。


「どうした」


 訊ねると困り顔で笑った。


「ううん。なにかあるわけじゃないんです」


「嘘だろ」


「嘘です。嘘、ついちゃいました。……兄は、疲れてるみたいですね」


「うん。……うん」


 なにもかもが曖昧に、曖昧になっていった。俺だけが覚えていること、俺だけが知っていること、俺だけが見た光景の全部は、それを知らない世界の過半数に塗りつぶされて、まるでなかったことになっていくみたいだ。


 なかったことになんて、ならない。そう思うけれど。


「むかしのことを話そうと思ったんです」


「……むかしのこと?」


「はい。ちどりちゃんがいなくなった日のこと」


「……」


「あの日、兄はほんとうは、ちどりちゃんと一緒に行くつもりだったんですよね」


「……どうかな。あんまり覚えてないよ」


「……うん。そうかも」


「純佳も、覚えてるんだな」


「……やっぱり、兄も覚えてるんじゃないですか」


 そう言われてから、俺は自分がつくづく馬鹿だと思った。


「兄は……ほんとうは、あの日、ちどりちゃんと一緒に出かけるはずだったんですよ」


「……嘘だよ。俺は断った」


 肩をすくめた。俺だって覚えている。

 純佳が風邪を引いたのだと嘘をついて、俺はちどりと怜の誘いを断ったのだ。


「いえ、断っていません」


「……」


「ごめんなさい」


「……何を謝ってるんだ?」


「兄だってわかるはずです。少し考えたら、わかるはず」


「……なにを」


「兄が、夜出歩こうとする怜ちゃんを止められるはずがない。それについていこうとするちどりちゃんを止められるはずがない。だったら兄は、絶対に、自分もついていこうとするはずじゃないですか」


「……なんで」


「心配だから、です」


「でも俺はそうしなかった。買いかぶりだ」


「いえ、そうしたんです」


「……純佳、言っている意味が……」


「……ごめんなさい」


「純佳、おまえは……」


 何を知っているんだ、と問いかけても、きっともう返事はないのだろう。純佳はそれを俺に話すつもりがきっとない。


 まなざしが、俺の瞳にむかってくる。

 彼女の瞳のなかの光が揺れている。


「わたしは……」


「純佳、もういいよ」


「でも……」


「いいよ、純佳。おまえのせいじゃないから。……だから、そんな顔するなよ」


 そう言ったのに、純佳の瞳から大きなしずくがひとつ落ちた。

 追いかけるようにぽろぽろと、そのしずくは増えていく。

 

 俺は起き上がって、彼女のそばに寄り、その手を握った。

 純佳は一瞬おどろいたように身をひこうとしたけれど、すぐにためらいがちに握り返してくる。


「大丈夫だよ。俺は、おまえの言ってることなんて、なんにもわかんないけど、全部大丈夫だよ」


「兄は知らないんです、なにも」


「それがなんだよ」と俺は言った。


「おまえだって、きっと、なんにも知らないよ」


「……そんなこと」


「そんなこと?」


「……そうなのかな」


 俺は純佳の頭をぐしぐしと撫でた。「うあー」と鼻声でうめいた純佳が、ごまかすみたいに笑った。涙はとまらなかった。


 それを見ていて胸が詰まった。俺のほうが、泣きそうになった。


 なんでだろう。


 急に瞳の奥が熱くなって、体温が上がった気がして、ほんとうに、なんで、そんなふうになるんだろう。このもどかしさ、この息苦しいような気持ち。


 悲しみの理由もわからないのに。

 どうしてこいつの悲しそうな顔が俺に伝染するんだろう。俺にわかるんだろう。


 そう思うとぜんぶ、ぜんぶが不思議だ。

 こんなことが起きるのに、こんなことはいままでにもたくさんあったはずなのに……どうして俺は、世界が、自分の頭のなかにあるのかもしれない、なんて平気で言えたんだろう。


 純佳が俺を見上げた。俺は彼女の瞳を覗き込んで、目の端の涙を指先ですくった。


 泣き止んでほしい、と、そう思う。

 どうしてだろう、と、何度問いかけてもきっと答えはない。


 でも、どうしてだろう、と問うのは、たぶん、本心から不思議に思うからだ。


 この不思議さ、この不可解さ、この、伝わらなさ、歯がゆさ、もどかしさ。

 

「わたしは……」


「いいよ、純佳」


「……はい」


 鼻声のまま返事をして、純佳は苦しげに眉を寄せる。

 何を言えるのか、言ったところで届くのかだってわからない。俺の言葉になんの効き目がある? 目の前で泣いている子に、何を言ってやれる? そんなのわからない。わかるわけがない。


「純佳はきっと、がんばったんだよな。なんのことかぜんぜんわかんないけど、たくさんがんばったんだよな」


「……」


「ぜんぜんわかんないやつに、こんなこと言われたって嬉しいのか、わかんないんだけど。それでもさ、俺は、よくがんばったなって言うよ。よくがんばったなって……そう言うしかないよ」


「……うん」


 こんなの、賭けだ。

 

 届くかも伝わるのかもわからない言葉を、効き目があるかもわからないおまじないを、それでも唱えるようなやりとり。


 そう思って、わかった気がした。


 たぶん、ずっとこれが続くんだろう。


 祈りみたいだと思った。


 純佳がぎゅっと俺の手を握った。俺はまだ、何を言おうかを考えている。これ以上何を言うべきなのか、それとも言わないべきなのかを考えている。


 そんな俺をそのままに、純佳は顔をあげて笑った。


「……もうすぐ、夏休みですね」


「……だな」


「兄は……たくさん、遊べばいいと思う」


「ん」


「ほんとは、一緒にお祭りとか、いけたらいいなあって思ってたんです。でも……」


「……でも?」


「兄、彼女できたみたいだし、邪魔したら悪いですね」


「……なぜ知ってる」


「……気づかれないと思ってたことが意外です」


「……」


 そんなにわかりやすいんだろうか、俺は。


「幸せに……」


「ん」


「幸せになってくれるとうれしい……」


「いや、死ぬのかおまえは。急に幸せを祈るな」


「……むむ」


 ちょっと口をとがらせたあと、


「……へへ」


 ごまかすみたいにまた笑う。


 そのあと、純佳はまたうつむいて、何かを言った気がした。その声は小さすぎて、俺の耳には届かなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る