13-03 名前




 市川鈴音が文芸部の部室に顔を出すようになってから、何度か、あの奇妙な夢について話し合う機会があったのだけれど、彼女は徐々に、その内容について忘れていった。それでも最初の頃は、俺が言えば思い出していたのだけれど、時が経つにつれ、内容どころか、そんなことがあったかどうかさえ思い出せなくなってしまったようだった。


 菊池淳也のことも、俺が彼女と血縁関係にあることも、徐々に忘れてしまい、自分が部室に顔を出すようになったきっかけについても、ほとんど思い出せないようだった。そしてあるときを境に、覚えていようと思うことすら忘れてしまったようだった。


 そのせいか、俺と市川鈴音のあいだには奇妙な距離が出来た。べつに俺のせいではないし、彼女のせいでもないと思う。そして、部室に顔を出すうちに大野と顔を合わせることが多くなった市川鈴音は、徐々に彼とのしがらみを自分のなかで消化していったようだった。なんらかの話し合いがあったのかもしれないが、大野も市川も俺にはなにも教えてくれなかったし、それでいいと思う。


 あるとき、市川と大野がふたりで並んで話しながら下校していく姿を見た。


 彼らは俺とすれちがうときこちらに笑って手を振った。その風景は奇妙にうつくしかったけれど、それがどうしてうつくしいのか、俺にはわからない。


 雅さんがいなくなり、市川が忘れてしまった今となっては、

 俺たちが見ていた夢がほんとうのものだったのか、それとも俺の空想にすぎないのかも確認のしようがない。

 

 あるいは『アルラウネ』であったことすらも、俺の夢だったのかもしれなかった。もっとも、はじめから夢のような話だったのだけれど。


 市川がどうして忘れてしまったのかとか、雅さんがどうして姿を消したのかとか。

 そもそも、あれが本当にあったことなのかとか、考えたって仕方のないことだ。


 


 夏休みの直前、俺は校門の近くの桜の木の下にむかったけれど、そこにはもう入り口は存在しなかった。怜に「行ってみたほうがいい」と言われた理由がもうわからなくなったけれど、もう考えても意味のないことだ。


 ぜんぶが夢だったとしても、俺の記憶のなかにそれらはたしかに存在している。……それもいつまで存在しているんだろう? 俺もいつかは全部を忘れるのだろうか。あるいは、すべてが曖昧になって、「ああ、そんなようなことがあったような気がするけど、でも、あんなことがあるわけもないんだから、夢と勘違いしているんだろうな」と思ってしまうのだろうか?


 考えてもわからないことだ。


 考えても、わからないことだらけだ。


 

 その日の夜、俺は夢を見た。

 夢のなかで俺は夜の学校を歩いていた。そして以前のようにそのなかをさまよい、そして地下へつながるエレベーターを見つけた。俺は下りのボタンを押し、その狭い箱のなかに乗り込む。


 エレベーターは駆動音を流しながらたっぷりと唸ってから、不意に静止して扉を開けた。


 その先は、埃と古い紙の匂いがする図書館のようだった。

 高い書架が並べられた広い部屋は見通しが悪く奥行きがわからない。その奥には扉があり、扉の先もまた同じような部屋になっていた。


 そこで俺は市川鈴音に会った。夢のなかで市川鈴音は、俺を見て驚いた顔をした。


「どうしておまえがいるんだ」と俺は言ったが、それが自分の声だったのか、それとも別の声だったのかは自信がない。以前見ていた夢のように、現実感はなかった。映像を眺めているような気分で、自分が主体的に自分を操作しているという感覚がなかった。


「わたしの台詞だよ」と市川鈴音は言った。


「おまえはまだ夢のなかにいるのか」


 と俺は市川に訊ねる。彼女は困り顔で首をかしげてから頷いた。


「なにをしているんだ?」


「わからない」と彼女は言った。


「ただ夢をみるだけなの」


 その言葉の意味を考える前に、俺は目をさまして、やがて夢の輪郭は消えていった。そんな夢を見た記憶について市川に話したけれど、彼女はそんな夢は知らないという。嘘か本当かはわからない。


 でも、夢というのはもともとそういうものだ。夢は、誰かと繋がったりはしない。


 それはそれとして、市川は部室に顔を出すようになってから、少しだけ明るくなった。ちせと大野も頻繁に顔を出すようになり、青葉はたいそう機嫌がいい。夏休みが近づくと、「みんなで遊べたらいいねえ」なんて言って、あれこれと予定を立てて提案しはじめたりもした。不思議と誰もそれに文句を言わなくて、部の雰囲気というものも変われば変わるものなのだなと俺は変に感心した。



 そのあたりの一連の顛末について、俺が相談する相手はいつもましろ先輩だった。瀬尾には話せるだけすべてを話したけれど、奇妙な一連の出来事についてちゃんと相談できる相手は、もうましろ先輩しか残されていなかった。


 ファミレスでチョリソーを噛み切って「からい」とうめきながら、彼女は言った。


「そりゃ、わたしにもよくわからないけどさ」


「……ですよね」


 そうだ。

 わからないことばっかりだ。


「でもわたしがいま思うのはさ……」


「はい」


「それでもいいんじゃないかってこと」


「……そんな適当でいいんですか?」


「たぶんね。だって……意味や理由なんて、ぜんぶ後付だから」


「……っていうと?」


「そのまんまの意味」


 俺は溜め息をついてメロンソーダに口をつけた。


「でも、言えることがあるとしたら、こういうこと」


「……どういうことですか?」


 彼女は大学ノートとシャープペンを取り出して、


「たとえばここに線を引いてね」


 彼女はページの中央にまっすぐの線を引く。そして左側に丸を書き、


「これがわたしたちの世界」


「世界」


「んで、こっちがべつの世界」


 と、今度は線のむこうに丸を書く。


「べつの世界って?」


「いま、図示してるからわかりやすく見えるけどね。たとえば『薄明』についてとか、後輩くんが見た夢のこととか、たくさんわけのわからないことが起きたよね。ぜんぜんルールがわかってないこと。たくさんある。でもね、これって、図にするみたいに俯瞰して見ることってきっとできないの。わたしたちは超越的な視点をもっていない。だから、ぜんぶを把握することができない」


「……はあ」


「でも、起きたことは必ずどこかに影響を与えている……わたしたちはそれを認識できないだけなんじゃないかな。たとえばさ、後輩くんやわたしが『薄明』でしたことが、過去に影響を与えて並行世界みたいなものを生んでるかもしれないよね。ほら、こんな感じで……」


 と、ましろ先輩は線と丸をでたらめに並べはじめた。


「たとえばここは1-a、ここは1-b、1-c、んで、ちょっとしたに2-a、2-b。それから……もしかしたらこのへんからも繋がって、変なところで影響を与えて……」


「……元素周期表みたいですね」


「たしかに。……あれ、こんな話、前にもしたっけ?」


「……どうでしょう」


「まあとにかくさ」


 とましろ先輩はノートをぱたんと閉じた。


「いろんなことに振り回されて、わけがわからないことがたくさん起きて、そのなかに自分だけの物語を見出すのが人の性だけど……でもそれって、やっぱりどこかでフィクションだと思うんだよ」


「フィクション、ですか」


「うん。人は自分の物語に回収できないことを忘れてしまう。自分の物語のなかにあるものだけを覚えていてしまう」


 その言葉の意味は、まだいまいちつかめないけど。


「でもきみは、前よりすっきりした顔をしてるね」


「……まあ、どうなんでしょう」


 なぜなのか、もわからない。

 でも……。


「でも、少し怖いなって思います。『薄明』を使って、あんな奇妙なことがいくつも起こって、そうしたら、秋や冬にあたらしいものを書いたら、また何かが起きるんじゃないかって。そんなことになったら……」


「なったら?」


「世界は荒唐無稽ですよ」


「たしかに」


 ましろ先輩は笑った。


 でもさあ、と彼女は言葉を続ける。


「世界なんてたいがい、荒唐無稽なことばっかりだよ」


 それで済ませて済むならば、それでいいのだろうけれど。


「もし全部を把握できる人がいるとしたら」


 と彼女は言う。


「その人は全部を見て、全部を覚えていられる、神様みたいな人だけだろうね」


 神様。


 その言葉の意味について少し考えて黙り込んでいると、ましろ先輩はくすくす笑った。


「それでさ」


「……はい?」


「きみは何を得た?」


 突然のその質問に、俺は答えに窮した。


「何を……」


 何を得たのだろう?



 その日の夜、俺が家に帰ると、珍しく父親が帰ってきていた。


「ひさしぶりだな」とおおよそ息子に向けるとも思えない言葉を向けてこられて、俺は呆れた。ちょうどコーヒーをいれるところだったらしい純佳が、俺の分も用意してくれる。


 俺はこの人の息子ではない。

 そう思ったけれど、そのことをどう消化していいかわからない。


 たぶん、消化できないままなんだろう。


「勉強してるか、隼」


「それなりに」


「そうか。まあ、そうなんだろうなあ」


「……どういう反応だよ」


 父はやけに上機嫌だった。


「……そういえばさ」


「うん?」


「俺の名前って、父さんがつけたんだよな」


「おう。なんだ、突然。自分のアイデンティティを気にする年頃か」


「……や。まあ、そうかもしんない」


「年頃だなあ」


 ほんとうに年頃の息子相手だったら、そういう茶化した反応はまずいだろう、と思うけれど、別段怒る気持ちも湧いてこない。同じ家に住んでいるのに会うたびに会うのがひさびさなせいで、いまいち感情的な距離がつかめない。


「なんで」


「うん?」


「なんで、ハヤブサって漢字だったの?」


「……ふふ」


「なに笑ってんだよ」


「種小名っていうのがあって……いや、いいか、この話は」


「……なに?」


「どっちにしろ、悩むことない」


「悩んでないよ」


「俺が名前をつけたから」


 と父は上機嫌に言った。


「おまえはこれからどんなふうに生きても、三枝隼なんだよ」


「……」


「何だ、その顔」


「いや。どこかに婿入りしてやろうかと思って」


「……なんだ、彼女でも出来たか」


「うるせえよ」





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