13-02 たちまちに行き過ぎる
「ありとあらゆる失敗の刻印のむこうに
あたりまえの青空がある
そんなあたりまえのことを
気にしすぎているみたい
たぶんこんな薄明も
夕暮れも夜もなにもかも
あたりまえにとおりすぎて
あとにはなにものこらない
いろんなことをもうぜんぶ
あっというまに忘れるみたい
わたしたちはきっと
たちまちに行き過ぎる
おぼえていられたらいいなと
たくさん考えたんだけど
やっぱり忘れてしまうみたい
あなたのことも あなたのことも
あの日 あなたが泣いていたことも
ぜんぶ忘れて 忘れたわたしの頭上をこえて
日々は
たちまちに行き過ぎる
なにもかもわすれて
たちまちに行き過ぎる
あなたの悲しみを知っていたことも
わたしはもう
忘れてしまった
そこにだけ
あたりまえの青空がある」
(『薄明』平成四年春季号 たちまちに行き過ぎる/弓削 雅)
◇
待ち合わせ場所は、例の、噴水の公園だった。
すっかり日の長くなった夏の夕方、俺は公園のブランコに腰掛けて怜を待っていた。今日まで、怜と会ってなにをどう話せばいいのかわからないまま、だらだらと会うのを先延ばしにしてきたのだけれど、けっきょく向こうから連絡があっては逃げるわけにもいかない。
怜は待ち合わせ時間ぴったりにやってきた。
「やあ」
と怜は言った。
「やあ」
と俺も言った。
「ひさしぶり。元気だった?」
「うん」
「……あのとき以来だね」
例の脱出劇のあと、なにかを話すべきだったのに、なにも話せないままだった。
怜は俺の隣のブランコに腰掛ける。古びた鎖が錆びたきしみで鳴く。まだ空は明るい。たぶん、日没まではまだ時間があるだろう。それでも高台から見下ろす街は薄暗く暮れはじめている。どこかから子供の笑う声が聞こえた。
「怜は……」
「うん?」
「どの怜が、ほんものだったんだ?」
「……さあ」
「おまえはいま、どの怜なんだ?」
「……たぶんさ」
「うん」
「ぜんぶ、わたしだったんだよね。でも、なにか、切り離されて……なくなっちゃったんだろうな。そんな気がする」
「あれからおまえは、あっちに行ったのか?」
「……どうかな」
答えは、奇妙な、諦念めいた苦笑で曖昧にされていた。
こどものころ、怜はこんなふうには笑わなかった。それももうきっと昔の話だろう。
「わたしはずっと考えてたんだけどさ」
「……うん」
「ちどりはきっと、わたしのことも、隼のことも、責めたりしないんだろうな」
俺は返事をしなかった。
徐々に茜色に染まっていく空の下で、たぶん俺と怜は同じようなことを考えていたのだろう。
なにかが曖昧に終わっていくなかで、俺たちはどうしようもない日常にただ投げ出されていく。そこにはもう新しい物語はない。新しい事実はない。
あるのはただ、誰かが死んで、そのむこうに俺たちのあたりまえの生活があるという事実だけだ。
俺たちはその向こう側を生きていかなければならない。
でも、
どのようにして?
というのがたぶん次の問題で。
その問題はもう、場当たり的にやっていくしかないのだろう。
「……とりあえずさ」
「うん?」
「バイトでも始めようと思うんだよね」
「……隼が? バイト?」
怜は笑った。
「できるの?」
「わかんないけど。やってみたいなって」
「なにするの?」
「わからん。……コンビニとかかな」
「隼が……コンビニ?」
なにがおかしいのかわからないが、怜はくすくす笑った。そんなに似合わないだろうか。
「……急だね。なんでコンビニ?」
「わかんないけど。なんでもよくて……思いついたのがそれだったから」
「そっか……うん、いいと思う」
「ちょうど、もうすぐ夏休みだしな」
「……ねえ、隼」
「うん?」
「わたしのことは、許さなくていいよ」
「あんまり甘えるなよ」
「……ん、ああ……そっか。これは甘えてるのか……」
なにかを考えるように俯いてから、怜は二度うなずいた。
「うん。そうだね」
それから、思い出したみたいに立ち上がって、大きく伸びをした。
「隼、ふたつほど伝えておくことがある」
「うん?」
「行けるなら、もう一度むこうに行ってみるといい」
「……なんで?」
「まあ、なにもできないと思うけど……見てみたほうがいいと思うから。それから、最近、『アルラウネ』に行った?」
「……いや」
「見てきたほうがいい」
「……」
怜はそれきり黙ってしまった。
それを最後に、俺と怜は会わなくなった。
たぶん、原因は俺だろう。
大げさな言い方をすれば、俺は怜と違う位置で生きることになったのかもしれない。
◇
怜に言われたその日の夜、俺はまず『アルラウネ』に行った。
いつものように駅を出て、おなじみの道を歩く。地下への入り口から通路を歩く途中のは、以前にも見たラーメン屋のチラシが貼られたまま、剥がれかかって埃を被っている。
奥へと通じる扉。その先が『アルラウネ』だ。
けれど、看板がない。
扉には一枚の張り紙がされていた。内容はだいたい次のようなものだった。
◯月✕日、店主都合のため急ですが閉店することになりました。長らくご愛顧いただきありがとうございました。云々。
ドアノブをひねると、扉は不思議と開いた。中は薄暗く、既になにもかもがなくなっている。もぬけの殻だ。なにか受け入れられなくて、俺は店のなかに足を踏み入れ、俺たちが何度も入ったあの部屋へと向かう。ベッドがふたつある、あの保健室めいた部屋。
そこもまた、もうからっぽになっていた。
俺は雅さんに連絡をとってみようとしたが、やめた。
『薄明』をつくるとき、あの捏造には雅さんにも手伝ってもらった。あの『薄明』のなかで、弓削雅名義のものだけは、たしかに雅さん本人が書いたものだ。
俺は溜め息をついたあと、もと来た道を引き返した。
たぶん、連絡はもうつかないだろうという気がした。
雅さんは何を求めていたのだろう?
夢は、見るものに何かを求めている。彼女はそう言っていた。でも、いまさらのように思う。ほんとうは、あれは雅さん自身の話じゃないだろうか。
夢が見るものに何かを求めているのではなく、雅さんが、何かを求めてくれることを夢に求めていたのではないだろうか。
けっきょくあの人のことはよくわからなかった。
ただ、想像でしかないのだけれど、たぶん、雅さんたちにもまた、なにかがあったのではないだろうか。なにか……俺たちと同じように……『薄明』をめぐる奇妙な出来事が、あったのではないか?
けっきょく、彼女はそれを教えてくれなかったけれど、『夢をみる人』なんて奇妙な都市伝説もまた、もしかしたら『薄明』と関係があるのだろうか。
あるいは……。
結局、すべて想像にすぎない。
そう思って、俺は『アルラウネ』だった場所を後にした。
怜と会うことがなくなったように、それから雅さんのことも目にしていない。
あるいは……。
俺たちが捏造した『薄明』が、雅さんを消してしまった、なんてことは、さすがにないだろうけれど。……さすがに、タチの悪い空想だ。
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