空は拉がない
12-01 誤配と名前
◆
真っ暗なところにひとりで立っている。左右には壁があり、少し低い天井がある。
あたりの空気は湿気と黴の臭いに侵されている。足を一歩踏み出すと、石を叩く靴音が聞こえる。
それがやけに響いていた。
切れかけた裸電球が等間隔でぽつぽつと薄暗く通路を照らしている。
その明滅の隙間に、通路の先の暗闇がぽっかりと口を開けている。
背後を見ても同じ様子。自分がどちらから来て、どちらに向かっているのか、もうわかりそうもない。
しばらく俺は立ち尽くし、そしてやがて歩き始めた。
時間の感覚がなく、どれだけ歩いても一瞬だという気もするし、ずいぶん長い間歩いてきたという気もする。
ただ電灯が明滅している。
そして俺はそれと出会う。それがそこにあることを俺はあらかじめ知っていた。
だから俺は挨拶をする。
「やあ」
「やあ」
とそれは返事をした。
「調子はどうだい?」
「どうだろうな」と俺はとぼけて見せた。
夜は黒い竹編みの椅子に悠然と腰掛けていた。
「ところで……おまえ、誰だ?」
俺の質問に、彼は笑った。
「ただの囚人だよ。……おまえが俺をここに呼んだんだ」
「……これは夢だな?」
「そうかもな。……いずれわかるさ」
はっきりと、彼は笑みをつくる。
「……が、それは今じゃない。俺が話したいのは別の話だ」
「……そもそも、誰なんだよ、おまえ」
「おまえが俺を呼んだ」
「呼んでねえよ」
彼は笑った。俺は笑えない。
「夢だと思えばいいさ。……単純なことだ。感謝しなくちゃいけないな。おかげでどうにかなりそうだ。おまえに付き合っていれば、そのうち、この場所から出られるかもしれない」
「なにを言ってるんだ?」
「冷たいな。おまえの仕事を手伝ってやったのにな、俺は」
「……」
「おまえはちゃんと過去を書き換えたよ。だから、新しく生まれた」
……夢、だろう、これは。
「だから、俺もまだ続けられる」
「……おまえ、誰だ?」
「べつに、誰でもいいよ。呼び方も、どうでもいい。でも、なにがしたいかはおまえと一緒だ」
「……一緒?」
「外に出たいのさ。おまえと一緒だ。……たぶん、また会うだろうな、おまえとは。でも、今日のところはこんなところだ。ずいぶんと荒唐無稽な夢を長く見ただろうが、心配するな。もう、全部夢になる。安心しておけ」
「……」
この、不穏な感覚がなんなのか、自分でも言語化できない。
俺は、どこかで間違えた……そんな気がした。
「次はまた、べつのかたちで会おう」
不意に頭上の電球が明滅し、
もう一度点いたときには、彼の姿はそこにはなかった。
◆
目をさますと、俺は眠っていた。目をさましたのだから、当たり前といえば当たり前だ。
でも、いつから眠っていたのか、わからない。
何か夢を見ていたような気がするが、はっきりとしない。
体を起こすと、屋上だ。見慣れた屋上。俺だけが鍵を持つ、秘密の場所。
昼寝をしていたらしい。
「隼さん、またサボりですか」
ドアが開く音が聞こえて、そちらをむくと、ちせが立っている。
「……ああ」
むっとした顔のちせを眺めながら、俺は返事をする。
「もう。大野先輩も青葉さんも怒ってますよ」
「……怒らせときゃいいんだよ。第一、部誌だって出来上がったんだし、顔出す理由もそんなにないだろう」
「でも……」
ちせは何かを言いたげに俺の方を見た。
「……隼さん、ひとつ聞きたかったんですけど」
「ん」
「隼さんが書いた小説のタイトル。あれって、どんな意味があるんですか?」
「ん。読んでわからなかった?」
「はい、まあ……」
「つまりさ……次の日が土曜日で休みだろ」
「……?」
「だから、ずぶ濡れになって踊ろうって意味」
「……よくわかんないです」
俺は起き上がって空を仰いだ。
瞬間、
空が拉いだ。
……そんな、気がした。
でも、それはただの錯覚だ。
世界は書き換えられたりしない。
何も変わらない。
俺たちはたぶん、失敗したんだろう。
「……隼さん?」
「ん」
「青葉さん、待ってますよ、部室で」
「……うん」
「いかなくていいんですか」
「……眠いんだ」
「そんな隼さんに、ひとつ、報告したいことがあります」
「ん」
「図書室の本に、手紙が挟まってました」
「……手紙?」
「はい」
「なにに」
「ボルヘスの『伝奇集』です」
「……見せて」
「はい」
ちせは、その紙を既に持っていた。俺は奪い取るようにその手紙を手にする。
◇
「青葉先輩へ。
先輩がいなくなってしまってからせんぱいが落ち着かないです。たぶん、このまま先輩がいなくなったままだったら、せんぱいはずっと落ち着かないんだろうなあと思います。そう思うとわたしとしては、とっとと青葉先輩に帰ってきてもらって、せんぱいが普通に戻ってくれればいいなあと思ったりもします(先輩が落ち着かないのが見てられないって意味じゃなくて、青葉先輩のことばっかり考えてるせんぱいのことをわたしが見たくないからです。わたしはそういうところでけっこうこずるいのです)。
先輩からの手紙を受け取ったから、こうしてお返事を書いてるわけですが、これはちゃんと届くのでしょうか。どこに届くのでしょう? 少し心配です。だって、ポストに投函するのと違って、本に挟むだけで手紙がどこかにいったりするなんて絶対変だし、知らないあいだに本に手紙が挟まってるなんてどう考えてもおかしいから。
会ってから間もないけど、青葉先輩のことは、わたしはけっこう好きです。やさしいし、おもしろいし、でも、せんぱいと仲が良いのだけは、ちょっとずるいなあって思います。ずっとむかしから一緒にいるみたいに通じ合ってる感じがしてずるい。
でも、そういうの全部さしひいて、わたしは青葉先輩ともっと仲良くなりたいです。わたしはそういうのにあんまり恵まれなかったから。
でも、青葉先輩にもまあ、いろいろ、わたしが知らないようなことがたくさんあるんだろうと思います。それはあたりまえのことだと思います。だって、他人の心なんてわからない。それは悲しいことじゃなくて、他人というのは、わからないものとしてわたしたちに差し出されているから。
もしわかったら、それは他人の心じゃなくて自分の心じゃないでしょうか。そして、もし他人の心がぜんぶわかってしまう人がいたら、その人はひとりぼっちなんじゃないでしょうか。
わからないということは、わたしたちがひとりじゃないってことなんじゃないでしょうか。
何の話をしているかわからなくなってきましたけど、青葉先輩がいないと、わたしはけっこう寂しいです。そんな自分に気が付きました。
できたら、先輩が笑ってるといいなあと思います。
また会えたら、もっとたくさんお話したいです。
真中柚子」
◇
真中柚子。
これは、誰だろう。
どうして、瀬尾の名前がこの手紙に書いてあるんだろう。
いなくなった、って、どういうことだろう。
先輩、と書き分けられたせんぱい、は、誰なんだろう。
わからない、けれど……。
どうして、こんなにも、
俺はこの文章に、沸き立っているのだろう。
からだじゅうの血が、いま突然流れ出したような気がした。
ここに書かれていることがなんなのか、まったく理解できていないのに。
きっと、理解できることはないのに。
真中柚子。
その名前がなにか、重大な意味を持つような気がした。
それさえももしかしたら錯覚なのだろうか?
錯覚なのかもしれない。
けれど……ここにその名前がある。
名前がある。
意味を、考えることはできない。
ただ意味以前に、言葉以前に、その手紙の存在が、俺を存在させている、そんな気がする。
手紙をうけとったとき、俺は、手紙をうけとったものとして、存在する。
それがたとえ、誤配であったとしても。
そんなことをどうしてか……思った。
考えたのではなく、思った。
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