11-05 アンティゴネー/欲望
◇
「ほんとうにいいのかな」
と、そう思っているのを、瀬尾は俺に隠したがっているように見えた。
どうしてか、彼女が考えていることが、いまの俺にはわかるような気がするのだ。
「ほんとうに、変えてしまっていいのだろうか?」「どんな、何の権利で、それが自分たちに許されるのだろう?」「余計な干渉なのではないのだろうか?」
そんなことを考えているように見えた。
どこかピントのズレたような夏のはじめ頃に、俺と瀬尾は文芸部にこもり、せっせと部誌を作り続けた。昼休みも打ち込んでいるようなありさまなのだから不思議なものだ。
放課後は、ちせや大野には気付かれないように次回の分を。昼休みは瀬尾とふたりで平成四年分を。
結局俺たちは書き続けた。
市川鈴音は渡り廊下のベンチに座って本を読んでいるし、家に帰れば純佳はやっぱりソファで眠っている。
そんな日々のなかで、瀬尾と俺の距離感だけが微妙に変わったような気がした。
彼女はあきらかに以前よりくっつきたがったし、なにかをごまかすみたいに口数が多くなったかと思うと、ふとしたときに黙ってこちらを見ているような瞬間が増えた。なにか言いたいことか聞きたいことがあるのだろうと思うが、その心当たりがありながらも、向こうから言ってくるまで待っていようと思っていた。
ましろ先輩と雅さんには、俺たちの本当の目的は黙ったままにしている。
その日の昼休みも、俺と瀬尾は部室で扇風機を回しながら原稿にむかっていた。うんざりするほど暑い日が続いた中で珍しく一日中雨が降った日だったが、蒸し暑くて屋内はかえって息苦しかった。
そんな天気の日には瀬尾の顔つきはよりいっそう物憂げに見えた。俺はいいかげんなにかを言うべきなんじゃないかと思った。
「青葉」
名前を呼ぶと、彼女は慌てたみたいに顔をあげて、「なに?」と誤魔化し笑いをした。少し上の空だったのだろう。
「休憩しよう」
「あ……うん」
ほっとしたような顔。
「……結構進んだかな?」
「どうかな。……半分くらいはいったかも」
困ったことに、平成四年の『薄明』を捏造し、それを根拠にあたらしい文章を書こうというわけだから、先にそっちを完成させるか、少なくとも見通しがついていないとまずい。
つまりこうだ。俺たちはまず十本以上の小説と、散文と自分を仕上げ、さらに他人のふりをして編集後記を書きあげなければならない。印刷の具合や紙質まで考えたら時間がいくらあっても足りない。そしてそれだけ手間暇をかけても、うまくいくとは限らない……というより、本来的にうまくいくわけがない。文章を書いてなにかが変わるなんて、狂気の沙汰だ。
でも、もしそうなら俺たちの日常はそもそも狂気の沙汰だ。俺たちはテクストのなかで生きているのだから。
「隼くんは、進んでるの?」
「一応。大部分は終わってる」
「早い。いちばん量多かったよね?」
「俺がはじめたことだから」
そういうと、彼女は困ったように眉を寄せたあと、なにも言わずにノートに視線を落とした。
「捏造」をする以上は、それぞれの原稿を書いている人間が同一人物だと知られてはならない。雅さんから聞いた情報をもとに、それぞれの部員たちひとりひとりの個性を割り出し、それを文体に投影する。
何も本当に別人である必要はない。登場人物の性格を決め、それに応じた台詞を書くのと同じように、言葉の選び方や漢字の開き方、センテンスの長さを調整し、わざとらしくならないように調整する。そして、その背景を考える。
そして『薄明』というひとつの部誌を、ひとつの作品のように完成させる。
「……やっぱりだめだ、わたし」
「なにが?」
「……だめだあ」
「な、なんで泣く!」
弱った声につられて視線をむけると、瀬尾は目からぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
「書かないと、書かないといけないのに……」
「……お、落ち着け……とりあえず」
「なんでわたし……」
「……青葉?」
「わたし、も、書かないとなのに……」
「な、なに……」
「隼くんの……」
「……俺の、なに」
瀬尾は俯いた。
「隼くんのことばっかり、考えてます……」
「……えっと」
……なんて返事をすればいいんだ、これは。
冗談かと思ったら、瀬尾はほんとうに落ち込んでいるみたいだった。俺は立ち上がって、とりあえず彼女の頭をぽんぽんと撫でてみる。
「うう……」
「なんで泣く……」
瀬尾は俺の制服の裾をつかみ、座ったまま鼻先を俺の胸のあたりに寄せてきた。
「ちゃんと、書かなきゃ、って思うのに……さっきからずっと」
「……ずっと?」
「もっと、喋りたいなあ、とか、近くにいきたいなあ、とか……」
「……うん」
「前まで、こんなことなかったのに……やらなきゃいけないことがあるのに」
「うん」
「隼くんにとって、これが大事なことなんだって、わかってるつもりなんだよ。なのにわたし……自分のことばっかり考えてる」
「ちがうよ。……俺が自分のことしか考えてなかったんだ」
「ずっと不安なんだ」
吐き出すみたいに、こぼすみたいにそう言った。
「わたし、めんどくさくて……ごめん」
「……や。めんどくさくないけど」
「うそ」
「いまちょっとめんどくさいって思った」
「……ごめん」
ちどりのこと。中学のときの後輩のこと。
俺の居場所のこと。
そんなの、瀬尾には関係のないことで、瀬尾はそれでも、俺を手伝ってくれる。
「あのさ、嬉しいよ、俺は。俺は……信じられないかもしれないけど」
「うれしいって、なにが」
「瀬尾と一緒にいられることも、瀬尾がこうして俺のこと考えてくれるのも」
「……急に名字呼び」
「あ」
「……呼びやすいなら、それでもいいけど」
「いや……。とにかく俺は、俺は……」
俺は……。
なにを、言うんだっけ。なにを言えるんだっけ。
「俺は……」
いや、決まってる。
「青葉が好きだよ。……好きだよ」
涙で濡れたふたつの瞳がこちらを見た。
かすかな頬の赤み。それは見える。彼女はそれを知らないだろう。彼女はそれを見ることができない。いまこの瞬間、俺だけが彼女の表情を知っている。
俺はどんな顔をしているんだろう。
「……な、なんで」
と、瀬尾は急に俯いて、
「急に言うの……」
「……言わなきゃと思って。不安にさせてたんだったら」
「……うん」
瀬尾は、顔を上げてごまかすみたいに笑った。
「へんだよねわたし。キャラじゃないよね。こんなはずじゃないんだ。こんなはずじゃなくて……」
「変じゃないよ」
「へ、変じゃないか。そっか……」
「俺が……」
「……うん?」
「俺が、『薄明』でなにをやろうとしてるのか、って」
「……うん」
瀬尾はうなずいた。
「死んじゃった女の子のためだよね」
「……うん。いや、ちがうか。『ため』じゃないな」
「うん?」
「俺のせいなんだ」
「……うん」
「だから書かなきゃいけない」
それは、瀬尾を不安にさせてまで?
そう問われたら、どう答えよう。
自分のなかでは、矛盾しないのに、振る舞いとして矛盾しているようにみえるだろう。
「過去を……」
「うん」
「過去に、干渉するってさ。わたしの知ってるなかだと、みっつ、パターンがあると思ってて。ひとつは、過去に対する干渉が、既に現在に織り込まれてて、何も変わらないってパターン。もうひとつが、変えた過去が、並行世界に枝分かれするってパターン。もうひとつが……改変されちゃうってパターン」
「……うん」
「隼くんは、過去を書き換えようとしてるんだよね? 死者に触れようとしているんだよね? それがどんなかたちなのか、わからないけど」
「……」
「ましろ先輩がやったみたいに、現実に影響を与える。それを、過去に遡及させる。なんとなくだけど、隼くんがやろうとしてるのってこういうことだよね。でも、それって……いまあるわたしたちは、どうなるのかなって思う。もしほんとうにそんなことができてしまったら、いろんなことがぜんぶ変わっちゃうんじゃないかって」
「……」
「わたしが思うのは、こういうこと。隼くんはきっと、今が全部変わっちゃうとしても、わたしとこうして過ごしている時間が、たとえ全部なくなっちゃうとしても、きっと、それでも『薄明』を書くんだろうなって、そう思うの」
しないよ、と即答はできなかった。
そうかもしれなかった。
「それって、なんでなんだろう、って思うの。ヤキモチ焼いてるわけじゃないんだよ。不満なわけじゃない。どうしてなんだろう……思い上がってるつもりじゃないけど、わたしと一緒にいるだけで、それだけで隼くんがいっぱいになれないのが少し悲しくて、それってでも、あたりまえのことで……だからね、こんな、こんな話をしたかったわけじゃないの」
胸がぎゅっと締め付けられたような気がした。
それでも、ここまで言われても、俺は書くだろう。書くのだろう。
なにが足りないわけじゃない。
不満なんてあるわけがない。
満たされないから書くわけじゃない。
「俺は……」
たぶん、やっぱり、自分のためだ。
「俺は、青葉と一緒にいたい。青葉と一緒にいてもいいと思うために、俺は書くんだと思う」
だから、これは自己満足で、身勝手な懺悔で、死者を利用するおこないなのだろう。そこに、許されていい理由なんてかけらも存在しないだろう。
世界は、俺たちの外に存在する。誰も知らなかった過去も、そこにはたしかに存在した。誰も知らない、見られたことがない木がこの世のどこかにあったとしても、その木は、誰かに見られてから存在するわけじゃない。その木は、はじめからそこにあって、誰かがそれを見つけただけだ。見るものは、世界に遅れている。見ることが先にあるのでも、見ることと同時に生まれるわけでもない。
事実がどうかは、結局確認不能かもしれない。でも、少なくとも、俺たちの身に世界はそういうものとして差し出されている。
誰にも知られていない過去は、存在した。だから過去に、書き換えられる余地なんて、あるわけがない。
文章を書くことで、書き換えられる過去は、もっとささやかなものだ。
「……俺の都合だな、ぜんぶ」
「……ううん」
瀬尾は、少し赤くなった目で、俺をまっすぐに見る。
「書くよ、わたし。……それに、これはたぶん、わたしのためでもあるんだ」
「……どういう意味?」
「わかんないけど……そう思う」
わかんないなら、しょうがないや。
そう思って、俺は瀬尾を抱きしめた。
「わ」
「もっとからっとしたやつだと思ってた」
「……うう、べたっとしててごめん……」
「いいよ」
「否定しないんだ……」
「欲望だ」
「ん?」
「俺も、青葉と一緒にいたいなとか、青葉にさわりたいとか……思うよ」
「……さわ」
「……」
「……隼くんて」
「ん」
「そういうのあるんだ……」
「あるよ……」
「勝手に、欲望とかないひとだと思ってた」
「欲望ないやつが、誰かを好きになったりするかよ」
「……そかな。好きって、必ずしも欲望じゃないと思うけど」
「……そうかな」
欲望じゃないもの、って、なんだろう。
考えたってわからなかった。
◇
俺たちは書くしかなかった。
他にやりかたを知らなかった。
なにを言えば、なにを書けば、どうすれば、わかるだろう。伝わるだろう。
あの森のなかに閉じ込められたちどりに。
あの日、目が合ったあの女の子に。
俺が言いたいのは、こういうことだ。
たぶん、みんな否定する。
みんな、俺のせいじゃないと言う。
違う、と俺は言いたいのだ。
俺は、何かをすることができた。
そして俺は、何もしなかった。
だから……。
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