文字列と手紙
薄明をそしきせよ
11-01 アンティゴネー/木陰のベンチ
雲は絶えず変化を続けている。夕方五時の空はまだ明るい。街の色合いは以前までと何も変わらない。遠くから救急車のサイレン。近付いてまた遠ざかっていく。
俺は公園のベンチに腰掛けて缶コーラを飲みながら考えていた。平日の放課後、着慣れたはずの制服のシャツがやけに自分に不似合いに思えて仕方ない。
公園の外周の夏草は誰が刈ったのだろう。俺たちが授業を受けているあいだにそれを仕事にしている人が刈ったのだろう。
ポケットの中で携帯が震えた。待ち人から「少し遅れるかも」と連絡。俺は缶コーラにまた口をつける。いつもと同じ味。少ししてまた携帯が震える。今度は妹の純佳から。帰りに買ってきてほしいものについての連絡。少し遅くなるかもしれないと返事をすると、不満そうな猫のスタンプが返ってきた。
また少しして、今度は足音が近付いてきた。
「よ」
と瀬尾青葉は言った。夏服に身を包んだ彼女は、俺を見てスカートの裾をおさえたあと隣に腰掛けた。
「ましろ先輩は?」
「まだ。少し遅れるって」
「ふうん」
彼女は俺の隣に座って、それから鞄の中から水筒を取り出した。ベンチは木陰になっている。すぐそばに池がある。涼しい風が吹き、彼女はふーっと長い溜め息をつく。
「生き返るねえ」
猫のように目を細めて彼女は笑った。俺はかすかに頬がゆるむのを感じる。
『薄明』をつくることについては、部員たちの全員に説明が済んだ。それが何を目的としているのかについては、俺と瀬尾以外の人間が知る必要はないように思えて、言っていない。だいいち、俺たちの目的だって、言ってしまえば書くということだけなのだ。
瀬尾は水筒に口をつけ、蓋をしめて鞄にしまい直したあと、俺の方を見た。
「でもさ、ほんとうに書けるの?」
「うん?」
「隼くんはずっとスランプだったじゃない?」
「っていうほど、大げさなものでもないと思うけど」
「でも、部誌の原稿、前も提出おそかったし」
「まあね」
書くこと。
そういえば、誰かとそんな話をしたっけ。ずっと前に……。
文芸ってなんだ、という問い。
いまもべつにわからないままだ。
俺はまだわからない。文章の正しい書き方。どうしたら、誰かに何かを伝えられるのか。文芸って、結局なんなのか。文字が伝わるなんて、狂気の沙汰じゃないのか。
「隼くんはさ」
と彼女は言った。
「どうして文芸部に入ったの?」
そう、そのときもそう訊ねられたのだ。
その問いの前で、俺は以前にも立ち尽くしたことがある。
それから俺はなにか変わっただろうか。
あの奇妙な空間での出来事。いくつもの夢と現実。その茫漠とした気配。いくつかの嘘のような真実。真実のような夢。なにかを受け取り、なにかを返しただろうか?
さまよいは俺をどこにも運ばず、弔いは常に既に手遅れで、得たものはたぶん、はじめからここにあったものだ。
俺は瀬尾青葉の手を握る。
水の揺れる音が背後から聞こえる。
「どうして文章を書こうと思ったの?」
どうしてだろう。
屋上から見下ろした街、夢の中で歩いた森、いつかの嘘。何度も読み返した本、アルラウネ。
ようやく見つけたように思えたなにかも、たぶんはじめからそこにあった。すべてはあらかじめここにあった。でも、ちがう。正確じゃない。
人はそんなふうに世界を眺めることができない。
「たぶん、理由なんてないんだと思う」
と言ったそばから俺はそれを否定するはめになった。
「いや、理由があったとしても、たぶんそれをひとつの出来事やきっかけに収束させることができない」
これも違う。これでは足りない。
「俺たちはなにかの出来事や結果をなにかの原因に結びつけようとするけど、それは事後的に紐付けされた後付のものにすぎない」
これでも足りない。
まだ足りない。
「理由はあるのかもしれない。でも不可視かもしれない。決して知ることのできないものかもしれない。あるいは……」
あるいは? 結局俺は何が言いたいんだ?
彼女の問いはシンプルだ。なぜ書くのか? それに対してどんな答えがある?
「理由を探すためだ」ということもできる。でもこれは何も言っていないのと一緒だ。楽しいからだ、とか、気持ちいいからだ、とか、そんな理由でもべつにいいだろう。でもそうじゃない。そうしたいと思うから、では理由にならない。その欲望のそのまた原因がどこかに逃れてしまっている。それに、これまでだって、楽しくないときも、やめてやろうかと思う瞬間はいくらでもあって、それでも俺は書き続けてきた。執拗に。
好きだから? そうじゃない。
「いつかきみにもわかる日が来る」と、まやかしめいた微笑をたたえるか?
それは事実かもしれない、いつかわかるかもしれない、時を経て、いくつもの暗い洞を抜け、そうしてしか接し得ないものがあるかもしれない。これだ、このためだったのだ、と、たどり着けるものがあるのかもしれない。
でも、今の俺には、そんなものなにも見えちゃいない。確信だってない。
俺は正しい文章の書き方を知りたかった。ほんとうの青空が見たかった。
なんのために?
理由なんてない、といえたら楽だった。菊池があのとき言っていたように。でも俺はそれを否定したのだ。理由なんてない、それなら、書くことも、書かないこともできない。根拠がないなら、なにもできない。できないことさえもできない……。
「……隼くん? おーい、隼くんー」
「……」
幻聴の正体を知りたかったのは。……不快だったからだ。
ひとりきりの夢を見たかったのは。……不快だったからだ。
ちせを探したのは。……不快だったからだ。
じゃあ、瀬尾をさらわれたと思って、怜を追ったのは。……それも、不快だったからだ。
不安だったからだ。
そうしていたくない、そうなってほしくない、そうありたくない……。
そう、なのだろうか? 快不快。それが答えなのだろうか? ……たぶん、それも違う。
「……これはまたトンでるな、隼くん」
『だから』も『ゆえに』もなく、『どうせ』も『こそ』もなく、『書く』。……そんなことは、できない。少なくとも、最初は。どうしてこんなことが大事なんだ? なぜ、なぜと問わねばならない?
「隼くーん、寝るなー、こら起きろー」
ぐらぐらと揺れている。景色が。
足場がない、底がない……。
「起きないとちゅーするぞ」
根拠。
功利でもなく、条理でもなく、善意でもなく。
どんなものが、書くことが駆動しうるのだろう?
「ほんとにしちゃうぞ、いいのか」
でも、手紙は書かなくちゃいけない。
なぜ。
たぶん……。
「……無視しないでよう」
俺は瀬尾の手を握る力を強めた。
「わ」
「……たぶん」
「ん?」
「わかんないな、いまは。これは後で分かるって意味じゃなくて。そのうち分かるって意味じゃなくて……そうじゃない。そうじゃないんだけど、たぶん……理由が先にあるわけじゃない。っていう言い方も違う。なんだろう、どう言えばいいんだろう……」
「もういいよう……」
「……あれ、瀬尾、なんか疲れてる?」
彼女はむっとした顔でこちらを睨んだ。
「……なんか怒ってる?」
「なんでもないよう」
すねたみたいに呻く。
理由があるから、書く。それは正しい。
でもその理由は、俺のなかにはない。
なぜ書くのか、と聞かれたとき、まっさきに浮かぶのは、あの、まなざし。
あの日、たしかに合った目。
誰も知らない。彼女と目が合ったことを。
俺に書く理由がもしもあるのだとしたら、たぶんあれだ。
俺のなかにあるなにかじゃない。
俺の頭のなかのなにかでもない。
この世界のどこかに「ある」のでもない。
その理由はたぶん、「ない」のでもない。
俺はそこにいた。
だから、でも、ゆえに、でも、だけど、でも、なんでもない。続かない。繋がらない。
目が合った。
彼女に見られたものとして、俺は存在している。
順番がちがうんだ。
「ん」
と、
瀬尾は不意に俺の肩に口を寄せた。
そして、俺の肩をその歯で甘噛する。
とつぜんに、しびれるような感覚。
「なに」
「噛んでみました」
「なんで」
「噛みたかったから……」
「なんで……」
「なんとなく……」
わかんないよ。
わかんないな。
瀬尾の顔は真っ赤に染まった。
顔が熱くなる。
なんなんだ。もう。こいつは。
ほんとうにわかっているのか。
「隼くん、顔まっか」
「……あのな。人が考えごとをしてるときに」
「ふたりでいるときに考えごとに熱中するほうが悪い」
「……」
返す言葉もなかった。
「もう理由は聞かない」
「ん」
「書かなきゃいけないんだもんね、隼くんは」
「……青葉は……」
「手伝う」
「……」
「たぶん、そうしないといけないと思う。わたしも……」
「……」
「わたしも、たぶん……」
「お熱いねえ」
と正面から声が聴こえた。
「や」
ましろ先輩が手を挙げていた。
瀬尾はとっさに繋いでいた手を離そうとする。
俺はその手を離さなかった。
「あらあら」
「……ましろ先輩」
「うん」
「『薄明』について教えてください」
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