10-06 見るより先に





 ときどき、俺と瀬尾は、昼休みをふたり、屋上で過ごすようになった。

 

 空が雨を吐き出しつくしたように晴れの日が続いた。真昼の太陽の下で俺と瀬尾は昼食をとり、話をして、話題が尽きると思い出したように手を繋いだ。お互いがそこにいることが不思議でならないように、肌に触れ、互いの匂いをかいだ。そうすることに意味があるのかとか、そうすることが正しいとか、そんなことは考えなかった。食事や睡眠や、そうでなければ歯磨きや、あるいは散歩のようなものだった。

 

 瀬尾はふたりきりでいると不思議なくらいに口数が減った。それはためらいや狼狽というよりは、むしろ彼女のもっとも自然な姿がそうであるかのようだった。そういえば、瀬尾はそうだ。茶化して、ふざけて、調子に乗ったり失敗したりする瀬尾青葉よりも、こうしてふたりでいるときの、ただ静かに呼吸をしている瀬尾青葉が、彼女なりの本当であるような気がする。


 離れる理由もないままに、彼女はときどきくっついたまま本を読んだ。それは「燃えるスカートの少女」であったり「日々の泡」であったり「予告された殺人の記録」であったりした。彼女がそうしているあいだ、俺は彼女の髪に触れ、その感触の不思議さになにかおぼつかないような気持ちになった。


 陽の光に透き通る彼女の髪の一本一本が、何かを俺に訴えかけているような、それが単なる錯覚でもあるような……。


 彼女は本を読みはじめてしまうと、ほかのことはほとんど気にならないみたいだった。ときどき思い出したように俺をちらりと見て微笑んだけれど、そうしても読書の邪魔にはならないらしいことが俺には不思議だった。


 俺もときどき何かの本を開いてみた。図書室で借りてきたカフカやベケットやカミュや……とにかくそういうものだ。けれど、彼女のようにうまく読むことはできなかった。瀬尾青葉がすぐ傍にいるときに「異邦人」のムルソーについて考えるのは、俺にはとても困難なことに思えた。


 瀬尾とふたり屋上で過ごす昼、世界には夜なんてどこにもなくて、何もかもが覆いをとられてはっきりとしているように思えた。そのなかにあってはなにもかもが混沌としたまま整然としていて、光がつくる陰さえもがあたかも光のなかにあるようだった。


「不思議だよね」


 ある日のこと、彼女は俺の顔を見て、慎重に口を開いた。そのとき俺は石原吉郎の詩集をどうにかして読もうと四苦八苦していた。彼女はその本を俺からそっと取り上げて、笑った。


「ん」


「なんもわかんないのに、ぜんぶわかってるような気がする」


「……たしかに」


 彼女の言葉の意味さえもそうだった。

 なんにもわからないのに、どうしてか、わかるような気がした。


 小麦粉と卵と砂糖をまぜてつくったみたいな日が続いている。たぶんそれはぜんぜんそれだけでは完成じゃなくて、ほかのいろんなものが混ぜあって、そしてときどき俺たちは、そういう時間を過ごす。


「そろそろね、部誌をつくろうと思うの」


「うん」


「隼くんは、どうする?」


 その言葉の意味について考えようとして、やめた。言葉の意味なんて、もしかしたらそのとおりの意味でしかなくて、それ以上のなにかを受け取ろうとすること自体が間違いなのかもしれない。


「どうしようかな」


 俺は彼女の手から本をとりあげて、適当なページを開いた。彼女は困った顔をしていた。そこに並んでいる「罪」とか「責任」とかという言葉の重さは、かえって俺の考えごとの意味を軽くするような気がした。俺のような人間が、罪だの責任だのという言葉を並べ立てることがひどく滑稽で馬鹿らしいことのように思えた。


 孤独ということは<存在>と同義なのだ。


 という文字列が俺の目をよぎった気がするけれど、それがぱらぱらとめくって偶然編まれた言葉なのか、本当に書かれた言葉だったのか、俺には区別がつかなかった。それは俺が知っている言葉と同じ意味なのだろうか?


「……なにか考えてるでしょ」


「なにかって」


「そうだなあ」


 瀬尾は、ちょっとだけ考えた顔をした。風がまた吹いて彼女の髪を揺らす。


「なにか……悪いこと」


「……」

 

 俺は少しだけ驚いた。


「悪いこと、を、しようとしてる顔」


「……なんでわかるの?」


「ほんとにそうなの?」


「少し迷ってる」


「どうして?」


「悪いことだからだよ」


「……ふうん?」


 俺は反応に困った。


「あのね、隼くん。ましろ先輩が言ってたの。うちの部の部誌……『薄明』はね、それ自体が七不思議のひとつみたいなものなんだって」


「……うん」


「ましろ先輩が去年書いた、七不思議についての報告。ましろ先輩がどういうつもりだったのかは知らない。でも、ましろ先輩が書いたとおりのことが、わたしたちの身の回りで起きたよね」


「……うん」


 俺はどうしてか瀬尾の背中を後ろから抱きすくめた。彼女はべつになにも言わなかった。


「それって、どういうことなのか、わたしにはわからない。でもきっと、隼くんはそれをやってみたいんだよね。『薄明』を書き換えてみたいんだよね、たぶん」


「……」


「だからさ」


 と瀬尾は言う。


「『薄明』を作ろう。文章を書こうよ」


「……うん」


 俺はうなずいた。


 それはたぶん、狂ったことだ。

 あきらかに、おかしなことだ。


 誇大妄想だ。


「風がきもちいいねえ」


 たぶん、俺たちはどうかしている。

 ずっと、どうかしている。


 それが当たり前に思える。


 ずっとこうしてきたんだろう、ずっとこうやって、過ごしてきたんだろう。ずっと昔から、誰もが。


 呼吸をし、何かを食べ、そして排泄し、抱き合い、眠り、触れる。

 触れるのに、手のなかにはおさまらない。どれだけ近づいても、ひとつにはなれない。そのかすかなへだたりと一緒にいる。俺が生まれるより先に、俺が眺めるよりも先に、俺が知るよりも先に、世界はずっと、そんなふうにしてきたのだろう。


「……もうわかった」


「ん。なにが?」


「頭の外を信じる方法」


「……ん、よかったね?」

 

 何の話かわからない、というように、困った顔で、それでも瀬尾青葉は笑った。

 


 

 

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