10-05 Your eyes have all the answer




 夜、俺は夢を見る。


 俺のからだは、見覚えのある場所に投げ出されている。俺はそこが、自分が通っていた中学の校舎裏なのだとわかる。動物小屋の前に、ひとりの女の子が膝をかかえて座り込んでいる。

 

 とても綺麗な女の子だった。

 

 俺はどうしてその子がそこにいるのかわからない。

 どうして自分がここにいるのかわからない。

 

 彼女は俺の存在に気付き、すぐに目をそらした。彼女にとっては、それが俺でも俺じゃなくても同じことだった。


 夢のなかの俺は、彼女に声をかけた。


 俺は彼女に何かを言って、彼女も俺に何かを言った。それで彼女は少し笑った。

 そこで俺たちは、少しだけ話をした。


 俺は、それが夢なのだと気付いた。


「せんぱいは、わたしのこと、知らないの?」


「さあ」


 どうだろう、と俺は思った。

 

 知っているといえば、知っていた。俺は彼女のことを知っていた。俺の通っている中学では、ずっと噂になっていた。一個下の学年に、『異様に』かわいい女の子がいるんだと。その子が、誰々をどうしたとか、誰々に嫌われているとか、そんな噂。


 噂はいつのまにか、真実のように扱われていた。

 

「どうでもよさそうだね」


「そんなことない」


「嘘だよ」

 

 嘘だった。

 

「嘘かもしれない」


 これは夢だ。

 俺は知っている。


「どうしてここにいるの」


 と俺は訊ねた。


「……どうして?」


 彼女は質問の意味がわからないといったふうに首をかしげた。どうしてか、彼女の表情も、顔つきも、なにもかもが曖昧で、俺が今まで出会ってきた人たちのモンタージュのようだった。……どうしてか、もなにもない。俺はきっと、彼女の顔を、ほとんどろくに見ていなかったのだろう。だから、思い出せないのだろう。漠然とした印象しか。


 髪型も、背丈も、体型も、なんとなく思い出せる。


 思い出せないのは、顔と声。

 それなのに、彼女の声はそこにある。


「どうして泣きそうな顔をしているの?」


 と彼女は俺に訊ねた。


「わからない」


 と、俺は答えた。


「たぶん理由なんてないんだろうな」


「そうなの?」


「きみは死ぬんだ」


「……」


「もうすぐ死ぬ」


「……そうなの?」


「俺は何もしなかった」


 へんなの、と彼女は笑った。


「せんぱいのせいじゃないよ」


「名前も思い出せない」


「どうして気にするの?」


「どうして……?」


 どうして。


 ずっと前のことだ。

 もう、気にしたって仕方のないことだ。

 どうにもならないことだ。


「せんぱいはさ」


 俺は。


「わたしを助けたかったわけじゃない。わたしを助けられなかった自分が嫌なだけ」


「……」


「わたしのためじゃない」


 俺は言葉を返すことができなかった。


「もっと言おうか」


 彼女は言葉を重ねる。


「せんぱいは、死んだ人間を弔いたいわけじゃない」


「……」


「自分のことを、忘れて生きるような薄情な人間だと、思いたくないだけ」


「……」


 そうかも。

 そうかもしれない。


「だってせんぱいは、わたしの顔を思い出せないでしょ? 名前も、思い出せないでしょう?」


「……」


「わたしのためじゃない」


「……うん」


 そう、かもしれない。


 ああ、これは彼女ではない。

 これは夢で、ここにいるのは彼女ではない。

 ここには誰もいない。俺しかいない。


 そんな夢を、俺は、ひさしぶりに見たような気がする。


「傲慢だよ」

 

 と彼女は言う。蔑むような言い方だった。


「たった数度、話しただけの相手じゃない。……べつに、わたしたちのあいだには、何もなかったじゃない。そんな相手に、どうしていつまでもこだわるの?」


 俺は、どうしてここにいるんだろう。


「間違ってるって思った。なんで、悪いことをしてない人間がいなくなって……俺みたいな人間が、のうのうと生きてるんだろう?」


「……」


「のうのうと、幸せになろうとしてるんだろう?」


「知らないよ」と彼女は言う。


「関係ないよ、わたしには」


「俺はなにもしなかった」


「……そうだね。なにもできなかった」


「違う」


 俺は言った。


「俺には何かができたはずなんだ。……でも、なにもしなかった」


「……何ができたっていうの?」


「……」


「せんぱいにわたしを助けられた? わたしをあらゆる苦しみから守ることができた? わたしを捕まえることができた? 何ができたっていうの、先輩に、なにが? なにもできなかったの。なにもできなかったから、ぜんぶ、ぜんぶ終わったことなの」


「でも俺はそこにいたんだ」


 彼女を見た最後の日、俺は、廊下で彼女を見た。

 そのとき、目が合った。


 彼女は、そのとき、俺を見た。

 俺も、彼女を見た。

 

 俺はそのとき、そこにいた。

 

 目をそらした。


 彼女の言うとおりだ。

 

 彼女と俺のあいだに、たいした関係なんてなかった。

 こうして引きずるほどの思い出なんてなかった。


 彼女の顔も、もう思い出せない。声だって、本当にこんなふうだったか、覚えてもいない。


 でも、目は合った。そのときのことをまだ覚えている。


「きみは俺を見た。俺もきみを見た」


「でも、せんぱいは目をそらしたじゃない。なにも、しなかったじゃない。……なにができたっていうの、せんぱいに」


「わからない」


「なにもできなかったじゃない!」


 なにも。

 なにも、できなかった。


 でも、目が合った。

 あのとき、彼女は俺を見た。


 たぶん、世界中の誰も知らない。


 彼女がいない今、俺しか知らない。


 俺しか知らない。……誰も。俺の記憶のなかにしか、俺の頭のなかにしか、その事実は存在しない。もう、どこにもない。それは捏造された記憶かもしれない。本当はそんなことはなかったのかもしれない。俺の錯覚だったのかもしれない。……彼女とほんのすこしだけ言葉を交わしたことさえも、もう、どこにも記録されない。俺がいなくなれば、そんなことは誰にも知られなくなる。


 誰も知らないこと、誰も覚えていないこと。

 

「助けてって」


「……」


「助けてほしいって、冗談めかして言ったんだ。この場所で。俺は、きみがそう言うのを聞いたんだ」


 誰も知らないから、誰も覚えていないから……それで、なかったことになるだろうか。無に、なるのだろうか。あの、彼女のまなざしは。


 これはたぶん、独りよがりな夢だ。


 わかっている。


 彼女は、不意にこちらを振り向いた。

 俺を見た。

 

 目と目が合う。


 なかったことになんかならない。

 無になんかならない。

 なにも、なにも。


「なんで、きみがいなくならなきゃいけなかったんだろう」


「たぶん、理由なんてないんだよ」


「なんで、この世界はきみを傷つけるだけだったんだろう」


「きっと、考えたって無駄なことなんだよ」


「そんなの……世界のほうが間違ってる」


「でも、そういうふうにできてるんだよ」


「狂ってるのは世界のほうだ」


「でも、もうせんぱいはそのなかに生きてるんだよ」


 彼女は笑った。


「たぶんね、そのなかで幸せになっていくんだよ」


「……俺は」


「……まだわたしに、なにかしたいの?」


「……俺は」


 今に、不満なんじゃない。

 何も欠けてなんていない。

 

 足りないものなんて、きっとない。当たり前に人は死ぬ。いつだって、俺たちはそういう場所で暮らしている。


 満ち足りている。欠けていない。それでも、それでも……。

 

 なぜなのか、と、ありもしない根拠を求める。

 どうして、こうでなくてはならなかったのか。

 どうして、ほかのかたちではありえなかったのか。


「ねえ、せんぱい」


 彼女の瞳は俺を囚えている。


「――わたしのことを、助けてくれないかなあ」


 その言葉は、ただの反復だ。記憶の、ただの繰り返しだ。その笑い声さえも、ただの……ただの、記録だ。

 

「俺は……」


 これは、夢だ。

 死者は何も語らない。


 死者を代弁するのは、越権行為だから。 


 彼女が、生きたかったはずだ、とか、そんなことさえも言えやしない。


 だからこれは俺のエゴなのだろう。


 納得がいかない、という、ただそれだけのエゴなのだろう。


 彼女は俺を見た。俺と彼女は目が合った。「助けてほしい」という、その声を聞いた。それはなかったことになんかならない。


 俺はその声に返事をしなければいけなかった。


「ねえ、せんぱい」


 彼女は、俺を見ている。


「本当にわたしのことを捕まえていてくれる?」

 

 夢は不意にそこで途切れた。






 

 

 

 

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