10-05 Your eyes have all the answer
◆
夜、俺は夢を見る。
俺のからだは、見覚えのある場所に投げ出されている。俺はそこが、自分が通っていた中学の校舎裏なのだとわかる。動物小屋の前に、ひとりの女の子が膝をかかえて座り込んでいる。
とても綺麗な女の子だった。
俺はどうしてその子がそこにいるのかわからない。
どうして自分がここにいるのかわからない。
彼女は俺の存在に気付き、すぐに目をそらした。彼女にとっては、それが俺でも俺じゃなくても同じことだった。
夢のなかの俺は、彼女に声をかけた。
俺は彼女に何かを言って、彼女も俺に何かを言った。それで彼女は少し笑った。
そこで俺たちは、少しだけ話をした。
俺は、それが夢なのだと気付いた。
「せんぱいは、わたしのこと、知らないの?」
「さあ」
どうだろう、と俺は思った。
知っているといえば、知っていた。俺は彼女のことを知っていた。俺の通っている中学では、ずっと噂になっていた。一個下の学年に、『異様に』かわいい女の子がいるんだと。その子が、誰々をどうしたとか、誰々に嫌われているとか、そんな噂。
噂はいつのまにか、真実のように扱われていた。
「どうでもよさそうだね」
「そんなことない」
「嘘だよ」
嘘だった。
「嘘かもしれない」
これは夢だ。
俺は知っている。
「どうしてここにいるの」
と俺は訊ねた。
「……どうして?」
彼女は質問の意味がわからないといったふうに首をかしげた。どうしてか、彼女の表情も、顔つきも、なにもかもが曖昧で、俺が今まで出会ってきた人たちのモンタージュのようだった。……どうしてか、もなにもない。俺はきっと、彼女の顔を、ほとんどろくに見ていなかったのだろう。だから、思い出せないのだろう。漠然とした印象しか。
髪型も、背丈も、体型も、なんとなく思い出せる。
思い出せないのは、顔と声。
それなのに、彼女の声はそこにある。
「どうして泣きそうな顔をしているの?」
と彼女は俺に訊ねた。
「わからない」
と、俺は答えた。
「たぶん理由なんてないんだろうな」
「そうなの?」
「きみは死ぬんだ」
「……」
「もうすぐ死ぬ」
「……そうなの?」
「俺は何もしなかった」
へんなの、と彼女は笑った。
「せんぱいのせいじゃないよ」
「名前も思い出せない」
「どうして気にするの?」
「どうして……?」
どうして。
ずっと前のことだ。
もう、気にしたって仕方のないことだ。
どうにもならないことだ。
「せんぱいはさ」
俺は。
「わたしを助けたかったわけじゃない。わたしを助けられなかった自分が嫌なだけ」
「……」
「わたしのためじゃない」
俺は言葉を返すことができなかった。
「もっと言おうか」
彼女は言葉を重ねる。
「せんぱいは、死んだ人間を弔いたいわけじゃない」
「……」
「自分のことを、忘れて生きるような薄情な人間だと、思いたくないだけ」
「……」
そうかも。
そうかもしれない。
「だってせんぱいは、わたしの顔を思い出せないでしょ? 名前も、思い出せないでしょう?」
「……」
「わたしのためじゃない」
「……うん」
そう、かもしれない。
ああ、これは彼女ではない。
これは夢で、ここにいるのは彼女ではない。
ここには誰もいない。俺しかいない。
そんな夢を、俺は、ひさしぶりに見たような気がする。
「傲慢だよ」
と彼女は言う。蔑むような言い方だった。
「たった数度、話しただけの相手じゃない。……べつに、わたしたちのあいだには、何もなかったじゃない。そんな相手に、どうしていつまでもこだわるの?」
俺は、どうしてここにいるんだろう。
「間違ってるって思った。なんで、悪いことをしてない人間がいなくなって……俺みたいな人間が、のうのうと生きてるんだろう?」
「……」
「のうのうと、幸せになろうとしてるんだろう?」
「知らないよ」と彼女は言う。
「関係ないよ、わたしには」
「俺はなにもしなかった」
「……そうだね。なにもできなかった」
「違う」
俺は言った。
「俺には何かができたはずなんだ。……でも、なにもしなかった」
「……何ができたっていうの?」
「……」
「せんぱいにわたしを助けられた? わたしをあらゆる苦しみから守ることができた? わたしを捕まえることができた? 何ができたっていうの、先輩に、なにが? なにもできなかったの。なにもできなかったから、ぜんぶ、ぜんぶ終わったことなの」
「でも俺はそこにいたんだ」
彼女を見た最後の日、俺は、廊下で彼女を見た。
そのとき、目が合った。
彼女は、そのとき、俺を見た。
俺も、彼女を見た。
俺はそのとき、そこにいた。
目をそらした。
彼女の言うとおりだ。
彼女と俺のあいだに、たいした関係なんてなかった。
こうして引きずるほどの思い出なんてなかった。
彼女の顔も、もう思い出せない。声だって、本当にこんなふうだったか、覚えてもいない。
でも、目は合った。そのときのことをまだ覚えている。
「きみは俺を見た。俺もきみを見た」
「でも、せんぱいは目をそらしたじゃない。なにも、しなかったじゃない。……なにができたっていうの、せんぱいに」
「わからない」
「なにもできなかったじゃない!」
なにも。
なにも、できなかった。
でも、目が合った。
あのとき、彼女は俺を見た。
たぶん、世界中の誰も知らない。
彼女がいない今、俺しか知らない。
俺しか知らない。……誰も。俺の記憶のなかにしか、俺の頭のなかにしか、その事実は存在しない。もう、どこにもない。それは捏造された記憶かもしれない。本当はそんなことはなかったのかもしれない。俺の錯覚だったのかもしれない。……彼女とほんのすこしだけ言葉を交わしたことさえも、もう、どこにも記録されない。俺がいなくなれば、そんなことは誰にも知られなくなる。
誰も知らないこと、誰も覚えていないこと。
「助けてって」
「……」
「助けてほしいって、冗談めかして言ったんだ。この場所で。俺は、きみがそう言うのを聞いたんだ」
誰も知らないから、誰も覚えていないから……それで、なかったことになるだろうか。無に、なるのだろうか。あの、彼女のまなざしは。
これはたぶん、独りよがりな夢だ。
わかっている。
彼女は、不意にこちらを振り向いた。
俺を見た。
目と目が合う。
なかったことになんかならない。
無になんかならない。
なにも、なにも。
「なんで、きみがいなくならなきゃいけなかったんだろう」
「たぶん、理由なんてないんだよ」
「なんで、この世界はきみを傷つけるだけだったんだろう」
「きっと、考えたって無駄なことなんだよ」
「そんなの……世界のほうが間違ってる」
「でも、そういうふうにできてるんだよ」
「狂ってるのは世界のほうだ」
「でも、もうせんぱいはそのなかに生きてるんだよ」
彼女は笑った。
「たぶんね、そのなかで幸せになっていくんだよ」
「……俺は」
「……まだわたしに、なにかしたいの?」
「……俺は」
今に、不満なんじゃない。
何も欠けてなんていない。
足りないものなんて、きっとない。当たり前に人は死ぬ。いつだって、俺たちはそういう場所で暮らしている。
満ち足りている。欠けていない。それでも、それでも……。
なぜなのか、と、ありもしない根拠を求める。
どうして、こうでなくてはならなかったのか。
どうして、ほかのかたちではありえなかったのか。
「ねえ、せんぱい」
彼女の瞳は俺を囚えている。
「――わたしのことを、助けてくれないかなあ」
その言葉は、ただの反復だ。記憶の、ただの繰り返しだ。その笑い声さえも、ただの……ただの、記録だ。
「俺は……」
これは、夢だ。
死者は何も語らない。
死者を代弁するのは、越権行為だから。
彼女が、生きたかったはずだ、とか、そんなことさえも言えやしない。
だからこれは俺のエゴなのだろう。
納得がいかない、という、ただそれだけのエゴなのだろう。
彼女は俺を見た。俺と彼女は目が合った。「助けてほしい」という、その声を聞いた。それはなかったことになんかならない。
俺はその声に返事をしなければいけなかった。
「ねえ、せんぱい」
彼女は、俺を見ている。
「本当にわたしのことを捕まえていてくれる?」
夢は不意にそこで途切れた。
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