10-04 静止した一瞬





 家に帰ると、ソファで純佳が眠っていた。彼女をそのままに、一度自分の部屋に戻り、荷物を置いて着替えを済ませる。


 なにかが落ち着かないような気がした。それが瀬尾との関係のせいなのか、瀬尾との会話のせいなのか、それとももっと別の理由からなのか、自分でもうまく説明できない。


 窓の外の日はもう沈みかかっていた。


 夜が来るのだ、と俺は思った。


 あの、審問の日以降、俺は例の夢を見ていないし、市川もそうだと言う。

 

 俺の日々は当たり前の日常を取り戻した。隠されているものは何もない。すべてのことはもう、なにもかもがむき出しになっている。


 リビングに戻る。純佳はまだ寝ている。


 ふと思い立って、俺はキッチンに立った。冷蔵庫の中身を確認する。それから炊飯器を洗い、米を研いだ。純佳は眠っている。つけっぱなしのテレビをそのままにしておくと、見覚えがないのに見たことがあるようなコマーシャルが何度も繰り返し流れた。窓の外、空のむこうに飛んでいく鴉の群れの姿が見える。


 鮭の切り身、人参、葱、大根、キャベツ、豆腐に油揚げ。


 何かを思い出しそうだった。


 怜からの連絡は来ない。

 あれから、『アルラウネ』にも行っていない。

 

 夢はもう見ない。


 俺は何を思い出そうとしているのだろう。

 

 たぶん、違う。もう、何も隠されていない。最初からそうだ。俺の内側には何も隠されていない。何も、見つけなければならないものなんてない。俺は最初から、十分に俺だ。


 だからわからなくなった。


 部屋の掃除をしないと。

 本棚の整理をしないと。

 テスト勉強をしないと。

 

 きっと、テストが終わったら部誌を出すという話になるだろう。

 そうこうしているうちにあっというまに……いろいろなことがあっというまに……過ぎていくだろう。


「兄」


 眠たげな声が、ソファのほうから聞こえた。


「帰ってたんですね。おかえりなさい」


「……うん」


「……どうしたんですか?」


 こんなふうに、あたりまえに過ぎていくのだろうか。なんとなく、過ごしていくのだろうか。


 何かがわかりそうだった。それがなんなのかわからない。


「わたし、晩ごはん作ります」


「……あ、ああ」


「兄は休んでてください」


「でも、純佳も部活で疲れてるだろ」


「慣れてます。気にしないでください」


「……」


 いくつのことを見逃してきたのだろう。


「今日は俺も手伝うよ」


「そう? じゃあ、お願いします」


 純佳はお気に入りの水色のエプロンをつけて髪を後ろでひとつに束ねた。夕陽がさしこんだキッチンは茜色の縁取りのなかで俺たちの表情に陰を落とす。


 おかしいな。

 おかしいよな。


 仮に、仮にこれが物語で、俺が主人公だったら、筋書きはこうだったはずだ。


 妙な夢のなかで、自分の出生の真実を知った主人公は、その真実を受け入れ、日常に帰る。そして、疚しさから踏み出せなかった好きな女の子との関係を、先へと進める。その勇気を手に入れる。過去、見逃してしまった痛みを弔い、その痛みを抱えたまま生きていく。


 物語なら、そうだ。


 そういう結末で、たぶん、十分だ。


 なら……これでいいのだろうか。

 この、当たり前の日々。当たり前の日常のなかで。


 それが不十分だというのは、誰に対しても失礼な話だ。


 瀬尾にも、市川にも、いま隣にいる純佳にさえ。


 だから、ここで十分だと……思わないといけない。


 思わないと、いけない、と、思うってことは。


 それともこの不十分さは……、日々の、日常の、当たり前の「不足感」なのだろうか?


 きっと、大団円なんてどこにもない。

 そう、なのだろう、おそらく。


「兄」


「ん」


「考えごとしながら包丁を扱うのは危ないです。ソファで寝ててください」


「……ん。ごめん」


「ううん。いいんです。……さっき、夢を見ました」


「……夢?」


「うん。あのね、兄が迷子になる夢です」


「……迷子」


「うん。迷子になって、帰ってこない夢」


「……変な夢」


 俺は笑った。


「うん、でも、夢はとても長かった」


「……」


「夢って、いつもそう。どうしてなんだろう。たった十分の居眠りが、数時間のようにも感じる。時には、一晩の夢なのに、何週間も閉じ込められたような気だってする。それなのに、目をさますと、ああ、夢だったのか、って一瞬で思って、ぜんぶが圧縮されたみたいに、数コマの映像しか残らない。でも、とても長い、悪い夢だったときは、そのことだけは覚えてる」


「俺はいなくならないよ。……純佳は、さいきん、寝てばっかりだな」


「……うん。どうしてなんだろう」


 純佳は、まだ夢を見ているように見えた。


「兄がいなくなる夢を見るの」


 彼女は繰り返した。


「森のなかで迷子になって……帰ってこない夢を見るの。わたしは途中で、ああ、これは夢だって思う。さめろ、さめろって思う。でも、そう思ってる時間が長いの。夢のなかでわたしは、どんどん歳をとって、どんどん大人になって、兄はそれでも帰ってこない。わたしは当たり前に歳をとるの。……そんな、長い長い夢を見るの」


「夢だよ」


「さめない夢は、さめないままだと、夢だって気づかない。眠っていることに、起きるまで気付けないみたいに。だからたぶん、人って、自分が死んでしまったとしても、それに気付けないのかもしれないね。……それでわたしは」


 純佳は言った。


「……純佳は?」


「手紙を書くの」


「……誰に?」


「……手紙を書くの」


 純佳は繰り返した。そして、我に返ったように首を振り、


「お風呂掃除してきてください」


 と言った。


 俺は頷いた。




 

 人は、自分が死んでしまったとしても、それに気付けない。


 純佳の言葉の意味を、俺は考えた。


 人は死んだらどうなるの、と、考えるのは、くだらないことのように思えた。死んだら、何も感じられない。何も言えない。何もわからない。時間さえ流れないかもしれない。


 死んだら、無になる。


「……」


 無。


 無に、なるのか?


 もはや何にも影響を与えられないのだろうか。

 もはや、死んだ人間からは、何も受け取れないのだろうか。

 

 それができるのは、生きている、ということなのだろうか。


 影響を与えられることが、生きていることなのだろうか。


 ……。


 違うような気がした。


 なにか、間違っているような気がする。


 俺が死ぬ。俺が機能しなくなる。その瞬間、俺の意識は消失する。俺の意識の消失を死と呼ぶ。けれど……。


 死が訪れたその瞬間、俺の意識は消失する。だから「死」は、俺の意識から逃れる。俺の意識は死を認識できない。俺の意識は、意識が消失する直前の生の時点を最後に消える。消えたあとを認識できないのだから、「無」には「な」れない。死の一瞬後、永遠のブラックアウトが訪れたとしても、その一瞬を、消失した意識は乗り越えることができない。


 俺は、俺の生を、「死んだ」と感じることができない。「終わった」と思うことができない。


 何も感じられなくなってブラックアウトする。時が流れなくなる。空間を、感知できなくなる。それを「無」と呼ぶとしても、それは死んだ「あと」だ。


 どうして、「死んだ」と感じることのできない人間が、「死んだ」「あと」に行けるだろう。


「死んだ」と感じることのできる主体がいないのに、どうして「無」に、「なる」ことができるだろう。「俺」がそこにいないのに、どうして「なる」ことができるのだろう。


 ……こんな思弁が、どうして重要なんだ?


 こんなことをどうして俺は風呂掃除をしながら考えてるんだ?


 俺の意識の、その最後の瞬間、「感じる」ことができなくなるのだから、おそらく、「時間」もそこで止まる。


 だとしたら、


 意識は消失の直前の段階に閉じ込められる。

 眠りにつく前と、眠りにつく瞬間のあいだを、認識できないみたいに。

「俺はいま、眠った」と思うことができないように。


 俺は死んだことに気が付けない。

 そしてそこで時間は止まる。夢も見ない。時が流れない。もちろん、俺を除く世界は俺という意識の消失を認知するだろう。俺は死ぬだろう。弔われるだろう。


 けれど俺の意識は。

 俺の意識は歴史から放り投げられる、世界から宙吊りにされる、時間の流れからはじき出される。いつまで? いつまでなんてない。死者に時は流れない。俺は永遠にその静止のなかにいる。


 なにかに気付きそうだ。

 なにかがわかりそうだ。


 それは……こういうことだ。


 


 あの森のなかに、ずっといる。

 

 助けを求め、呼び叫ぶことに疲れ、痛む足のまま、おぼろげな意識をいまに投げ出しそうなその瞬間のまま、ちどりはあの森のなかにいる。そして、もはや彼女は、そのまま誰とも会うことができない。


 その眠りはさめない。

 さめないから、「眠っていた」と気付く瞬間がない。


 無になんかならない。

 公共的な時間から弾き飛ばされた意識は、そのまま、流れることのない時間のまま、そこにいる。


 無、にはならない。


 仮にそうでなかったとしても。


 現に俺は、ちどりを忘れてはいない。なくなってはいない。あの、死んでしまった、もう名前すらも曖昧なあの女の子のことも、忘れてはいない。


 そして彼女たちから何かを受け取ってしまっている。


 死んだ人間の書いた本が、書店に並び読み継がれていくように。あるいはそれほどわかりやすくなかったとしても、俺の生は、多くの生と死の影響下にある。

 

 死んだ人間は他人に影響を与えられない?

 死んだ人間から、何かを受け取ることはできない?


 どうしてそうなる?

 

 俺の安穏な生は、死の上に立っている。

 桜の木の下には、死体が……夥しい数の死体が埋まっている。


 俺はその死者たちから、既に、何かを受け取っている。


 受け取ってしまっている。ことのはじめから、受け取ったものとして、俺はここにいる。この日常、当たり前の風景のなかで、当たり前に暮らしながら。


 目眩がしそうな感覚。


 いままでの、自分の認識の狭さ、昏さに、怖気を覚える。

 その一瞬の空白のような変転のあと、また俺の意識は、当たり前の日常に戻る。

 

「兄?」


 と声がかけられる。


「ん」と返事をする。呼びかけに答える。


「ずいぶんかかってますね?」


「いや」と俺は返事をした。


「いま終わるよ」

 

 手紙を。

 手紙を書かないといけない。




  

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