10-03 弔いはいつも手遅れ



 日が赤く染まり西の空に近付いていった頃、市川のお祖母さんが帰ってきた。彼女は市川が友人を連れてきたことにいたく感激したらしく、大喜びで俺たちに話しかけ、お菓子を用意してくれたが、もう遅い時間だということで解散することになった。また来てね、と声をかけられたけれど、俺はなんと返事をしたらいいかもわからないまま苦笑いするほかなかった。


 大野は自転車を漕いで先に帰ってしまった。俺と瀬尾は駅のほうへと向かう。ちせは少し寄り道をするといって、市川の家の前で俺たちと別れた。


 エアコンの効いた部屋から出ると空気はまだ蒸すけれど、昼間よりはだいぶましに感じる。空が紫に染まるにつれて吹く風がひんやりと冷たく、俺と瀬尾は言葉もなく同じ方向へと歩きはじめた。


「隼くん」


「ん」


 呼ばれて返事をすると、彼女はこちらを見ていなかった。


「隼くん、隼くん、隼くん……」


「な、なに……」


「練習」


「……へんなやつ」


 短い橋の上を渡り、古い家の立ち並ぶ細い路地を抜ける。俺は自分たちの影が雑木林の木に隠されたりそこから抜け出したりするのを不思議な気持ちで見ていた。


「隼くん、隼くん……」


 まだ瀬尾は繰り返している。


「……青葉」


「……はい」


「青葉、青葉……」


「ごめんなさい、わたしが悪かったです」


 瀬尾は気恥ずかしそうに小さな声で謝った。


 何か考えなきゃいけないことがある気がする。

 でも、瀬尾と一緒にいると、俺は瀬尾のことばかり考えている。


 たぶん、そういうものなんだろう。


 でも。

 じゃあ、考えなくていいのか?


 俺は、市川の父親のアルバムを見なかった。

 それでもあの家は、市川の父親が、俺の父親がいた家なのだろう。


 それが何を意味するのか、何も意味しないのか、それがわからない。


「隼くん、あのさ」


「うん」


「……すきだよ」


 なにかを確かめるみたいに、どこか縋るような調子で、瀬尾は急にそんなことを言う。俺は立ち止まって彼女の方を見た。


「うん」

 

 このあいだよりは、かなり落ち着いて、そう返事をする。彼女をまっすぐに見る。それが許されているような気がした。


「ちゃんと言ってなかった」


「ん」


「俺と付き合ってくださいって」


「……ん」


 瀬尾は短く頷いた。


「こちらこそ、よろしくおねがいします」


「……」


「って、いうものなんだよね、たぶん」


「わかんない」


 俺は、なんとなく、彼女に手を差し出した。

 彼女はその手をとり、俺たちはなんとなく、全部がおかしく思えて笑った。並んで歩こうとすると、自然と指が絡まるのだと俺にもわかった。


「なにか考えてるね」


「うん」


「どんなこと?」


「テストのこと」


 嘘だった。




 結局、なんだったのだろう、と考える。


 あの夜の夢は……俺をどこに運んだのだろう。

 

 あの、いくつかの、根拠をめぐる問い。

 

 どうすればいいのか、片付かないままだ。


 夢は、ひとりで見るなら、自分の頭のなかだけにある。

 あの夢は、俺と市川とがつながっていた。だから、「頭のなかだけ」ではなくなってしまった。


 それと同じように、この現実も、俺と、他の人が同じものを見ているから、「頭のなかだけ」ではないのだろうか。


 べつに、他人に心があるのかどうかとか、他人と自分が同じものを見ているかどうかとか、そんな独我論をいまさら始めたいわけじゃない。


 問題はこうだ。


 ちどりは死んでいた。ちどりを埋めた。怜がちどりを探していた。怜が俺を裁こうとした。俺は市川鈴音の兄であり、市川鈴音の父は俺の父でもあり、俺は母の子であるが父の子ではなかった。


 それはそれとして、俺はべつになにも失っていない。俺の身にはなにも起きていない。むしろ俺は瀬尾青葉と手をつなぎ、今歩いている。


 しあわせってなに、と問いながら、俺はこの瞬間に満ちている。

 

 そして、そうなっている自分を斜め後ろから見ている自分が、これでいいのか、と問いかけてくる。


 罪の重さを……考えてもみろ。


 だから何も解決していない。


 あの夢と、そこからの脱出は、俺をどこにも運んでいない。何も変えていない。俺はまだ償いを果たしていない。


 ……けれど、ほかにどうすればいい。


 どうすればいい?




「うそでしょ」と瀬尾は言った。


「なんでわかった?」


「付き合い長いもん。顔みればなんとなくわかる」


「そうなのか」


「うん。たぶん。三割くらいの確率で」


「そっか」


「ほんとは、なにについて考えてたの? ……怜さんのこと?」


「……怜のことも、かな」


 あれから、怜には何度か連絡をしたが、返信は来ていない。


「……前も、一度、聞いたことがあったよね。隼くんは、罰を待ってるのかって」


「……うん」


「いまも、そんなふうに見える。気もそぞろ」


「……」


「ちょっとくやしい」


「なにが」


「わたしは隼くんのことでけっこう頭がいっぱいなんだけど、隼くんは他のことを考える余裕があるもんね」


 そう言って、彼女は手のひらを握り直した。そんなこともないんだけどな、と俺は思った。


「わたしの考えを、言ってもいい?」


「うん」


 いつのまにか、長くまっすぐ伸びる影。俺と彼女の影はつながっていた。


「ほんとうに、間違っていたらごめんなさい。でも、わたしには、隼くんが悪いって、どうしても思えないの。それでも隼くんは責任を感じてる。罪だと思ってる。罰を待っているように見える。でも隼くんの罪っていうのがなんなのか、わたしにはよくわからない。助けられなかったことなのか、見て見ぬふりをしたことなのか……。それとも、生き延びてしまったこと、それ自体なのか」


 生き延びてしまったこと。

 誰かが死んで、その誰かよりも明らかに未熟で、明らかに邪悪で、明らかに身勝手な人間が、それでもなお生き延びて、幸せになろうとしていること。


「それとも、死んでしまった人に何もできないままで生き延びることが罪なのかな」


「……」


 弔いは死者にとって意味をなさない。

 死者は既に死んでしまっているからだ。 


 でも、死者は正しく弔われなければならない。

 そんな気がする。


 弔いは、けれど無効だ。


 じゃあ、どうすればいいのだろう。





「たとえば、この世に確かといえる正しさなんてものが、仮になかったとする。


 でも、だからといってそれは、『何をしてもいい』ってことじゃない、ってこと。そして、『何もできることがない』からといって、『何もしなくてもいい』ことにはならない、ってこと。


 でもそれは、べつに根拠があるわけじゃないの。そこには根拠がない。


 確かといえる根拠がないなら、『何もしてもいいわけじゃない』といえる根拠がない。『何をしてもいいわけじゃない』と思うことそれ自体を正しさの根拠にする人もいるかもしれない。それはそれで正しいのかもしれない……。


 でも、それは万人に共有されてるわけじゃない。たとえ自分のせいで誰かが傷ついても、たとえ自分のせいで誰かが死んでしまっても、それに気づかない人がいる。自分のせいだなんて思えない人がいる。


 もしかしたらそれが正しいのかも。過剰に何かを引き受けることって、自己陶酔なのかもしれない。『引き受けること』を正しいと思う人もいれば、『引き受けないこと』を正しいと思う人もいる、かもしれない。


 いずれにしても『正しさ』に従ってるけど、その正しさは共通の基準に従ってるわけじゃない。そうなると、人はみんな、各々の『正しさ』に閉じこもることになる。共通の『正しさ』がない。判断の基準がない。根拠がない。


 でも、『正しさ』が共有されないからと言って、『何をしてもいいわけじゃない』。そう言うことができる。それがどうしてなのか。わたしたちが、社会のなかに生きていて、その社会のなかでルールが決まってるから? それとも、ルールを守ることが結果的に利益になるから? それとも、相手を思うのは『お互い様』だから? 


 わたしは全部違うと思う。そんなの、後付の理屈だって思う。


 井戸から落ちそうな子供がいるとする。その子供のもとに慌てて駆け寄って、その体を抑えて落ちないようにするとする。そのときわたしはたぶん、そうすることが『お互い様』だからとか考えないし、『そうすることで利益があるから』とも考えない。『それがルールだから』とも考えない。わたしは、たとえば昔井戸に落ちそうになったことがあって、そのとき誰かに助けてもらったからその子を助けるわけでもない。わたしはたぶんそのとき、そんなことひとつも考えていない。


 わたしは社会通念の影響を受けて、『そうするべき』というルールを内在化して、それに突き動かされているのかもしれない……それは確認できないし否定もできない。でも、それは順番が逆っていう気がする。


『そうしなきゃいけない』すらない。『なぜそうしたか』の答えが浮かぶのは、たぶん、全部が終わってから。全部、後付だって思う。そうすることが正しいと思うからそうするわけでもない。だって、そんなの正しくもなんともないかもしれないじゃない? なんとなく正しいような気がするだけで、ほんとは正しくないかもしれない。『正しいか正しくないか』をいちいち検討してとる行為を決めたりは、きっとしない。してる人もいるかもしれないけど、わたしはしない。


 もし言えることがあるとしたら、『その子が井戸に落ちそうなとき、わたしはすぐ傍にいた』ってことだと思う。『わたしはそのとき、そこにいた』。だからその子の体が落ちないように駆け寄ってその体をつかむ。たぶん、そうしようとすると思う。正しいからじゃない。そうすべきだからでもない。『そこにいたから』、そうすると思う。


 でも、じゃあ、わたしが間に合わなかったら?

 

『そこにいたにも関わらず』、わたしの足は動かず、わたしの手の力が足りず、井戸に子供が落ちてしまったら?


 そしてその子が死んでしまったら、わたしはもう何もできない。

 

 それは、たぶん罪じゃない。わたしはたぶん、悪いことをしていない。


 でも、『だから関係ない』とは思わない。


 それって、罪じゃない。たぶん、そこでわたしが感じるのは罪じゃない。


 それは、責任。


 わたしには、もっと何かできるはずだった、という後悔、無力感。


 だからある意味では、正しさの問題ではないの。正しさとか間違いとか、そういう二元論じゃないの。徹底して個人的な感情の話なの。


 どうして、他人の死に責任を感じるのか、どうして、無力感で自分を責めてしまうのか、その理由まではわたしにはわからない。わたしにわかるのは、たぶん、それを感じない人だけでなく、それを感じる人も、この世界では生き延びてきた、ってこと。


『わたしのせいじゃない』と思うことは、たぶんできる。実際、わたしのせいではないのかもしれない。


 でも、『わたしがもっと多くのことができたなら』と思うことはできる。

 それは、もしかしたら『わたしが完璧な人間だったなら』『わたしが常に最善の選択をしていたならば』という、不可能を求める、陶酔めいた後悔なのかもしれない。そんなこと、たぶんできっこない。


 でも、その失敗の責任を、自分のものとして引き受けることは、できる。

 未来予知なんてできない。失敗して当たり前のわたしたちが、失敗を前に、「ああしていたら」と思う。


 それを万人に求めることは、たぶんできない。全人類共通の倫理に押し上げることは、たぶん、できないかもしれない。

 でも、わたしという個人が、わたしにそれを求めることはできる。


 責任を、引き受ける人も、引き受けない人もいる。悔恨を、抱く人も抱かない人もいる。


 死んでしまった人には、もう何もできない。


 でも、井戸の近くに危険の看板を立てることはできる。井戸を塞ぐことはできる。井戸の近くに柵を立てることはできる。

 

 何のために? 死んでしまった人はそれでも蘇らないのに? 

 それは意味のない行いなのかな。ないのかもしれない。べつに正しくはないのかもしれない。

 

 それでも、そうする。なんでかな。たぶん、それはそうするのは正しさとは関係ないんじゃないかな。


 じゃあ、同じような思いをする人が出ないようにそうするのかな。そうかもしれない。もしくは、代償行為なのかな。次を生まないことで、前の失敗を癒そうとしてるのかな。そうとも言えるかもしれない。……でも、そんなのたぶん、考えてないよ。


 たぶん、なにかしてないと落ち着かないんだよ。

 

 わたしはそれでいいと思う。

 償いも、弔いも、ぜんぶぜんぶ手遅れで、無効だったとしても。

 だからといって、何もしなくてもいいことにはならない。


 それでさ……、その何もできなさと、弔いの手遅れと、償いの不可能性と……自分自身で引き受ける責任と、それらを、悲しみじゃなく、苦しみじゃなく、罪としてではなく責任として引き受けたらさ……」




「たぶん、自分が幸せになること、なってもいいってことと、自分が果たさなきゃいけない責任のあいだには、関係がないってことに気がつく。……不幸な人がいるから、自分が幸せになっちゃいけないって話にはならない。つまり、わたしが言いたいのは」


「……言いたいのは?」


 瀬尾は立ち止まり、両腕を俺にむけて広げた。


「たとえばきみがわたしのことをぎゅって抱きしめてくれたら、わたしはたぶんめちゃくちゃ幸せな気持ちになると思う」


「……そんなキャラだっけ」


「笑うな。笑うな、まじめにいってるんだぞ!」


「……いいのかな」


「……だめかな」


 瀬尾は不安そうな顔つきになる。俺は、その顔をじっと見た。


 抱きしめたのはなぜだろう。


 そうするのが正しいからでもない。そうすることで彼女が幸せな気持ちになるから、でもない。そうするべきだから、でもない。かつてそうしてもらったことがあり、それがうれしかったから、でもない。


 ……なぜだろう?


 どうして彼女が好きなんだろう?


 俺になにかが欠けていて、その欠けたピースを彼女がもっているから……でもない。

 

 俺はたぶん、俺としてここにいて、べつになにも欠けていない。

 俺と彼女がふたりになって、それでなにかが完成するわけでもない。


 なぜだろう。……なぜなんだろう。


 それとはべつに、俺は彼女を抱きしめて、その髪に鼻をうずめ、匂いを呼吸し、背中にまわした腕を力いっぱいまきつけて俺の胸に彼女のからだを押し付けて、戸惑ったみたいに俺の胸に触れる彼女の指先を感じながら、静かに瞼を閉じる。


 ここに触れているもの。


 理由なんてあるのだろうか。


 あるのかもしれない、でも、仮になかったとしてもかまわないと思った。

 

 何かが決定的にわかったわけでも、変わったわけでもない。


 それでも俺も、少しだけ、なにかに気付いたような気がした。


 たとえ不可能だとしても、弔いをやめるわけにはいかない。

 俺が幸せになることを拒んだとしても、罪は許されない、責任は果たされない。


 そして、きゅっと胸がしめつけられるような気持ちで、彼女の息遣いを肌で感じたとき――その高揚を幸せと呼ぶのか、それとももっと単純な感覚に過ぎないのか、それはわからなかったけれど――泣き出したいような気持ちになった。


 何も、何も正当化されない。

 

 何も変わらない。償いも、責任も、果たされない。なにもできない。


 この「出来なさ」のなかで、身じろぎをするように、「それでも」、何かをしようとすること。


 これがなんなのか、まだわからないまま、それでも瀬尾はあたたかい。そして彼女の手が、俺の背中を何度かぱしぱしと叩いた。


 俺が腕の力をゆるめると、彼女はやっとと言う様子で顔を出し、苦しげに呼吸した。


「く、くるしい! ばか!」


「あ、ごめん」


「……許す!」


 瀬尾は照れると勢いがよくなる。そういうことがなんとなくわかってきた。



 


 

 


 

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