10-02 しあわせ


 結局のところ、なんだったのだろう、と考える。


 放課後の文芸部室に、部員たちはみんな集まっていた。


 瀬尾青葉、宮崎ちせ、大野辰巳。……それから、市川鈴音も。


「テスト前期間だからね」


 つまり、部活動は休止なのだけれど、顧問にいって、「みんなで勉強をするから」と鍵を借りている状態だ。

 もともと部活動を俺たちに任せきりだった担任は、そのへんに関しても適当というか放任というか、鍵の管理さえ雑にしか行っていない。

 

 俺たちは、本を広げるかわりに教科書とノートを広げ、文章を書くかわりに英単語や数式とにらめっこをする。


 大野は、市川がいることに戸惑った顔をしていたし、市川も、大野がいることに戸惑っているようだった。でもどちらかというと彼女は、自分自身がここにいることに戸惑っているのかもしれない。


 いつのまにか暗い季節になっていた。雨が降り、湿気はひどく、窓を開け放っても風すら吹き込んでこない。東校舎の部室にはエアコンがないかわりに、誰が持ち込んだのかもわからない古い扇風機だけがかろうじてあった。


「場所があるのはありがたいけど」


 と市川鈴音は言う。


「……これなら、ファミレスかどこかのほうがいいんじゃない?」


「たしかに」


 と瀬尾も頷いた。


「……移動する?」


 開け放した窓からは風が吹き込まない。狭い部室のなかで数人で集まって勉強するというのは、俺や大野だけならともかく、他の部員たちにとっては居心地悪そうなことだ。


「ファミレスかあ……」


 下敷きで顔を仰ぎながら、瀬尾は眉を寄せる。俺が彼女の方を見ていることに彼女は気づき、さっと視線をそらした。


「ファミレスもいいけど……」


「じゃあ、わたしの家いく?」


 みんなの視線が市川に集まった。俺でさえ驚いた。


「いいの?」


「え? ……うん」


 それに対して、市川はあくまでも普通の態度だった。俺はそれをどう受け取ればいいのかわからなかった。


「みんなって、みんなで?」


「うん。いいよ、うち、広いし」


「……そう、なんだ?」


 誰も市川の家の場所を知らない。





 

 市川の家は、けれど高校から十五分ほど歩いたところにあった。


 自転車通学の大野はひとりで自転車を引いた。他の人間は歩きだった。瀬尾の提案で、途中でコンビニに寄り飲み物と食べ物を買った。


「さいきんの推しはこのワッフルです」と、彼女はチルドコーナーにあった四つ入りの生クリームの入ったワッフルを買った。みんながみんな、市川の突然の提案を否定する理由も見つけられず、ぼんやりとついてきているように思えた。


「誘っちゃったけど」


 と、コンビニの軒先で他の人間の買い物を待つあいだ、市川は俺にむけて言った。


「大丈夫?」


「なにが」


「気にしないならいいけど。……わたし、おばあちゃんと暮らしててね。おばあちゃんの家はお父さんの実家だから」


「ああ」


 やっぱりその話だった。


「……考えないようにするけど」


「お父さんのアルバムがあるよ」


「……」


「見る?」


 俺はちょっと笑った。


「ちょっと見てみたいかもな」


 市川も笑った。


 そして辿り着いた市川の家は、大通りからそれて裏道を抜けた先の雑木林のなかにあった。広い平屋の和風建築は石塀の奥に隠れ、庭にはツツジやキンモクセイや松が植えられており、玄関までの石畳の途中には小さな池があり、いつのものかわからないような枯れ葉が寂しく浮かんでいた。玄関先には何も植えられていない古い鉢植えが二つほど並べられている。


「どうぞ」と招かれて入ると、他人の家の独特の匂いに迎えられる。家の中は綺麗に整っていて、靴はほとんど並んでいない。市川は玄関にのぼると、入って左手側の障子のむこうが広い客間だからそこに入ってくれと言った。俺たちは彼女の声に従って、脱いだ靴を揃え、廊下を通って客間に入り、各々に荷物を置く。「大きい家だねえ」と瀬尾が言った。


 客間には大きな和机が置かれていた。市川はエアコンのスイッチを入れ、部屋の奥の収納から座布団を用意して適当に並べると、「コップをとってくるね」と言って部屋を出た。「手伝うよ」といって瀬尾が追いかけようとしたが、「大丈夫」と言って市川は断った。


 俺たちはいまいち状況がつかめないまま、とりあえず各々に座る場所を決め、それから思い出したように勉強の準備をはじめた。


「大きい家だねえ」と瀬尾は繰り返した。


 市川は客用らしいコップをいくつかと、自分用らしい水色のマグカップをもってきた。飲み物はみんな買ってきていたから、それぞれ好きなように使ってくれ、という感じに渡される。


「お邪魔していいのかなーって思ったけど、部室にいるよりぜんぜん集中できそう。市川さん、ありがとう」


「大丈夫。おばあちゃんももうすぐ戻ってくると思うけど」


「お出かけ中?」


「今日はたぶん、近所の人の家にお邪魔してるんじゃないかな」


「そうなんだ」


「……勉強しよっか」


「あの、いまさらですけど、わたしもお邪魔してよかったんですかね?」


 これまで流れのままついてきたちせが、心細そうに声をあげた。


「学年違うし、勉強する範囲も違いますけど」


「いいんじゃない?」と市川は言った。家主に「いいんじゃない?」と言われてしまったら、いろいろと形無しだ。


「それに、わかんなかったら教えられる人もいるし」


「えーっと……いいんですかね」


「いいよね。ね、隼くん?」


「なぜ俺に訊く……」


「なんとなく」


 考えてみれば、市川鈴音と他の部員との関係というのはきわめて微妙なところがある。市川の存在をちせや瀬尾が認知したのは彼女が「目をさまさなくなってから」で、いろんなあれこれが落ち着いたあと、なんとなく部室にときどき顔をだすようになり、その延長線上で今日、この場につながっている。


 考えてみれば、ちゃんとした自己紹介すらしていないのではないか。


 問題は別にもある。


 ちら、と瀬尾のほうに視線を向けると、彼女も俺の方を見ていた。俺と瀬尾はなんとなく隣同士に座っている。俺のむかいには大野がいて、大野の隣にはちせがいる。ちせの隣には市川がいる。この並びでよかったのだろうか。


 俺と瀬尾は、例のやりとり以降、特にお互いの今後について話していない。俺は瀬尾のことを咄嗟に瀬尾と呼ぶし、瀬尾も俺のことを咄嗟に副部長と呼ぶ。


 お互いに、好きだと伝え、それでキスまでしたわけだけど、そのあとの話を何もしていない。たぶん俺からちゃんと話すべきだと思うのだけれど、何も言えていない。なんとなく落ち着かない雰囲気のまま、ここまで来てしまった。


 そして、大野と市川の距離感。俺は、市川だけが一方的に大野を気にしているのかと思ったけれど、そうでもない様子だった。それでも、大野から市川について何かを聞かれたことはない。俺たちが下の名前で呼び合うことについても、何の詮索もされていないし、俺も説明していない。


 なんともいびつで面倒な人間関係。

 これが今現在の文芸部の雰囲気そのものだ。


 それぞれに筆記用具を広げ、テスト範囲を確認する。お互いに「気が置けない」というほど親しすぎる距離感でもないから、自ずと脱線することは減る。


 誰かが集中していると、他の人間も気をうまくそらせなくなり、結果的に勉強は進んだ。ときどき隣の瀬尾がちらちらと俺の様子をうかがってきた。みんなが教科書に視線を落としているのを確認しながら、俺が視線を重ねると、彼女はまた気まずそうに目を伏せる。


 エアコンの駆動音すら聞こえるような静けさのなかで、何度かそれが続いたあと、俺はノートの端に「どうした?」と書いて彼女のほうへと見せた。


 彼女は迷ったような顔つきを一瞬した。俺はノートをそのままの位置に置き、教科書をまた睨む。瀬尾の距離が一瞬近付いた気配がした。


「どうもしてないよ」


 と、引き寄せたノートの端にはそう加えられた。俺のぶっきらぼうな筆跡の近くに、彼女の頼りなく柔らかい字が並んでいるのを見るのは、どうしてかひどく気恥ずかしい気持ちがした。


「さっきからこっち見てる」


 そう書くと、彼女はむっとした顔になり、またノートを引き寄せた。


「隼くんがこっち見てるから、わたしも見ただけ」


「俺は瀬尾がこっちを見てるから見ただけ」


 瀬尾はまたむっとした顔をした。


「青葉」


 今度は俺がむっとした顔になった。そして、青葉という字を、彼女の名前としてノートに書く自分を想像して恥ずかしくなった。それは声に出すよりもよほど恥ずかしいことのように思えた。


 しばらく、教科書を見るふりをしてそのままの時間が過ぎる。瀬尾のほうも、とりあえずは自分の筆記用具に向き合いながらテスト勉強をしていた。


 数分がすぎた頃、不意に俺の膝のあたりが叩かれる。机の下に目をむけると、瀬尾の指先がすぐそばにあった。彼女はまたつんつんと俺の膝のあたりをつつく。


 視線をむけると、目が合う。すると今度は、彼女は机の上の俺のノートの端を指先で静かに叩く。


 青葉、と書かれたところを、音を立てずに指先で示す。


 目が合うと、彼女は真剣な表情で俺を見ていた。


 俺は苦笑した。


「えっと」


 と、机を挟んだむこうからちせの声がした。


「隼さんたち、さっきからなにやってるんですか?」


「……や。なにも」


「……なにも?」


「なにが?」と訊くべきだった、と思ったのは、俺たち以外のみんなが「やれやれ」という顔で苦笑していることに気付いてからだった。




 集中が途切れたのだろう。空気が弛緩したので、一度休憩することにした。


 俺は立ち上がってからだをほぐすために、一度玄関で靴を履いて庭で伸びをした。そうしていると、うしろから市川が追いかけてくる。


「つかれた?」


「ちょっとね」


「瀬尾さんと付き合ってるの?」


「……なんで?」


「みんなそう思ったと思うけど」


「……」


 俺は答えなかった。


「純粋に、聞きたいことがあるんだけど」


「うん」


「皮肉じゃなくてね」


「うん」


「隼くんはそれで幸せになれるの?」


「……」


「……答えにくいよね」


「幸せって」


「うん」


「……なんだろな?」


「……なんだろね?」




 

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