終演の手順
10-01 ほんとうの青空
◇
翌週、俺は当たり前のように学校に通い、当たり前のように授業を受けた。なにもかもが当たり前のように平坦だった。それは日常だった。何も変わることがない。あの夢を見ても見なくても、あのなかでちどりと出会っても出会わなくても、それまでとなにひとつ変わらない日々が続いていく。
誰かが言ったとおりにテストが近かった。雨が降りそうな天気だったら傘を持って出かけた。ときどき純佳と一緒に買物をして荷物を持った。ちせとましろ先輩からは、いまのところ特に連絡はきていない。
市川鈴音は相変わらず渡り廊下で本を読んでいる。今度はボルヘスの『伝奇集』を読み始めたみたいだった。
当たり前の日々、当たり前の、三枝隼としての生活。
本来の、とか、本当の、とか、そういう枕詞さえつかない、『当たり前の』、日常。
瀬尾とは、あまり話せていない。何を話せばいいのか、俺自身よくわかっていない。何かを話さなければならないことはわかっている。でも何を?
何が自分を押さえつけているのか、何が自分を不自由にしているのか、それがわからない。それがもしかしたら自分自身なのかもしれないと、気付いてもいる。
でも、違う。
屋上に寝そべって、日の光を浴びて、そのあたたかさの下で、俺は考える。
この空は、なんなのだろう。
この忸怩たる思いはなんだろう。
投げ込まれている、と思う。
空の青さにさえ暗澹とした気持ちになる。
暗澹とした気持ちで眺める空の青さは苦い印象を拭えない。
この青空。当たり前の青空。当たり前になにかに含まれている青空。
雲が走り、なぞるように鳥影が弾かれる。
◇
投げ込まれている、という気がした。
三枝隼、としての生活。この当たり前の生活に、気付けば、投げ込まれている。
最初からそうだ。
投げ出されている。
記憶のはじめから、俺は、三枝隼だった。三枝隼として、気付いたときには、いた。気付いたときには、俺は、三枝隼だった。
三枝隼、として、俺はここにいる。
十センチ左でもなく、十センチ右でもなく、俺は、ここにいる。まんなかに。まんなかにいるものとしての、三枝隼として、ここにいる。
ここにいるものとして、俺はここに投げ込まれている。
そこに足りないものはない。そこに余計なものもない。
あとは俺が、それを引き受けるかどうかの問題……なのだろうか。
俺が俺として、俺のようにあること。
三枝隼としての。不貞の子としての。誰かを苛むものとしての。カッコウの卵としての。誰かを見殺しにしたものとしての。誰かの助けを呼ぶ声を聞き逃したものとしての。
俺としてあること。
気付いたときには、俺はそのようにある。
選べたものもあれば、選べないものもあった。その結果として、俺はいまここにいる。
そして俺は、今この瞬間の俺のこの気分のなかで、青空を見ている。
俺は、この青空しか知らない。
三枝隼として見る青空以外を知らない。
当たり前の……特別じゃない、青空。
それが青空で、それが当たり前で、だから、「ほんとうの青空」なんて、どこにもない。あったとしても、触ることができない、見ることができない。
「ほんとうの青空」がないとしたら。
この、気分に左右されるすべて、腹立たしいときには刺々しく、敵対的に見える景色が、喜ばしいときには祝福に満ち、親和的に見える景色が、これが「当たり前の」、青空だとしたら。
俺が見ている景色が、俺の見ているまま、当たり前の景色だったとしたら。
俺の夢と、俺の現実はどう違うのだろう。
『アルラウネ』で目をさましたとき、雅さんは、「十五分前に眠った」と俺に言った。
なるほど、そのとき俺は眠ったのだろう、『アルラウネ』のなかで。
そしてそのとき、俺は、夢を見なかった、と思った。
でも。
この現実が、夢ではないとどうして言える?
あの、生々しい夢を見たあとに、いつもこんな感覚になった。
すべてが俺のなかで、俺の感覚として、立ち現れているならば、「当たり前の景色」が、「当たり前の青空」が、俺の感覚を基準にして立ち現れているものにすぎないなら、「世界」は俺の認識と一致する。
俺の頭のなかに閉じ込められてしまう。
――俺にはそうは見えない。
――おまえには違うように見えるかもしれない。そういうこともあるだろう。けれど、俺は見間違えていない。俺はこいつを愛しているし、こいつも俺を愛している。だから俺はこうすることができる。俺はおまえよりもこいつのことを知っている。こいつは嫌がっていない。
だからこうなる。
俺の認識と、現実は、一致する。
妄想と現実、夢と現実の境目がなくなる。「認識したとおりに世界は存在する」ことになる。
……あきらかに、間違っている、と思う。でも、ではどのように間違っているのだろう。
俺の認識と、世界の差異。そう、そこには差異がある。「ほんとうの青空」は、どこかにある。でも、俺は俺である以上、この三枝隼である以上、三枝隼としてのこの位置からしか、青空を見ることができない。けれど「ほんとうの青空」が、けっして見えない「ほんとうの青空」がある。
「ほんとうの青空」を見ることができないなら、
俺はたとえば、誰かが嬉しそうにしていても、それを本当に嬉しがっているのだと確信できず、誰かが悲しんでいるように見えたとしても、それが自分の勘違いにすぎない可能性を否定できず、誰かに好きだと言われたとしても、それが聞き間違いや、願望が投影された錯誤である可能性を否定できない。
断絶。
明らかに、生活感覚に反しているのに、それを否定できない。
俺は、世界が俺の見たとおりであることを信じきれないし、信じるべきではないと感じる。信じるにはあまりにも、俺はたくさんのものを聞き逃し、見間違えてきた。俺たちは、俺たちの気分に、投げ込まれている。それはさまざまなものを時に覆い隠す。
けれど、俺は、世界が俺の見たとおりではないと考えながら生き続けることもできない。そんなことは正気の沙汰ではないように思える。何もかもを疑ったまま、人間は何かを考えることはできない。
こうしたことを考えるとき、俺はいつも頭のなかにいる。
青空は、頭のなかにある。
……そんなわけがない。
◇
不意に、鉄扉が開く音がして、
そちらを見ると、瀬尾青葉がいた。
「よ」
と彼女は言う。
「よう」
と俺も返事をする。
彼女は、寝そべったままの俺に近付いて、見下ろしてくる。
「スカートのなか、見えるぞ」
「……副部長、それよく言うよね」
彼女は制服の裾を押さえてかがんだ。言うといっても、一度くらいだったと思うけれども。
「いい天気だね」
「うん」
「こないだ、ごめんね。……変なこと言って」
「うん……」
「生返事だなあ。昨日の晩ごはんなんだった?」
「えっと……なんだったかな」
「ぼんやり生きてるね」
「待って。思い出す……。たぶん白身魚のフライとか」
「おいしいからね」
「うん……」
俺はからだを起こして、瀬尾を見た。
視線を向けると、彼女は戸惑ったみたいにこちらを見る。視線が重なる。その揺れ、震え。思ったよりも、距離が近くなった。息遣いのリズムがわかる。
これが夢なら、たとえば彼女をとつぜん抱きしめたりしても、誰も咎めはしないだろう。だって、夢だし。『頭のなか』の出来事だし。
……やってみる?
……バカか。
「副部長」
「ん」
「……なんでみるの?」
ああ、もう。
その、瞳の丸さ。まなざしの角度。声になる前の呼吸の動き。
生きている、生きているように見える。これは夢なのだろうか。
「……わかんない」
馬鹿馬鹿しい。
何かを断言してくれる上位の審級などありはしない。
これが世界だとか。
これが理由だとか。
これが本当だとか。
そんなものがあるとしても、それらはたぶん沈黙する。ずっと沈黙しているだろう。
◇
「たとえばの話なんだけど」
「うん?」
「ある日、空から神様が降りてきて、『きみたちの暮らしている地球は、ぼくたちの果物なんだよ。きみたちは、地球をより美味しくするための酵母みたいなものでね、きみたちがたくさん繁殖すると甘みが増して美味しいんだよ。それがきみたちの生まれてきた意味なんだよ』って言われたら、たぶんさ、それがほんとうの神様でも、バカにすんなって思って逆らうと思うんだよな」
「……ん? え、えっと……うん。そうだね? 何の話?」
「なんでもない」
神様はずっと黙ってる。
黙っているからって、いないってことにはならない。
でも、黙っている。
黙っているから、誰の正しさも保証されない。
罪の基準も、罰の基準も、償いの基準もない。
でも、許されるとか、許されないとか、そんなのは、その人の受け止め方次第だ……という話になってしまったら、人はそれぞれに、自らの罪を、勝手に、許してしまえる。
それが『正しい』のだろうか。
……なにかが、いま、わかりそうな気がする。
「副部長」
「あのさ」
「ん」
「その呼び方、やめない?」
「……こだわるねえ」
「うん」
不意に瀬尾は、表情をこわばらせた。
やけに近い距離のまま、彼女は俺をまっすぐに見て、
ほんとうにとつぜんに顔を寄せて、
彼女の唇が俺の唇に触れた。
「……」
一瞬後、さっきまでみたいに、俺を見る、揺れたままの瞳、かすかに赤らんだ頬。
「……は?」
「……あ、えと。いやだった?」
「いや、とかそういうんじゃなくて……」
遅れて、俺の心臓がうるさく跳ねて、考えごとのすべてがどこかに飛んでいった。
「じゃ……もっかい、してもいい?」
「……えっと」
俺は、
「……いいよ」
と言った。
彼女は、それでも逡巡するような気配を見せた。そのままだと何かを失いそうな気がして、今度は俺が、彼女の方へと近付いていく。そしてまた唇が重なった。
頭のなかで何かがちかちかと光った気がした。
それがなんなのか、よくわからない。
もう一度離れたとき、俺と瀬尾はまたお互いに視線をむけていた。
「……隼くん」
と、とつぜんに、瀬尾は俺をそう呼んだ。
三枝隼。
俺の名前。
俺が投げ出されている場所。
そう呼ばれて、俺は、俺が俺なのだ、ということが、なんとなくわかった気がした。
隼、という名前。
父がつけた名。
そう呼ばれるもの、としての自分。
「あのね」
と、瀬尾は口を開いた。
「うん」
「……すき」
「……は」
と、ほとんど息みたいな声が出て、また唇を塞がれた。
もたれかかるみたいにして、瀬尾のからだが俺の胸のなかに転がり込んでくる。
どういうことなんだろう。
わからない。
彼女の柔らかい髪が首筋に触れて、そのくすぐったさに肌が過敏になる。感触のすべてが、俺の感覚として与えられる。頬が喉仏に触れる、その、遅れてやってくる、冷たさのようなあたたかさ、あたたかさのような冷たさ。そのどちらが自分の温度なのか、よくわからない。
「あのさ」
と俺は声をあげた。なんでか震えていた。
なんで、震えるんだろう。
不意に風が吹いて、視線が青空に吸いよせられた。
俺はその風を感じた瞬間に、どうしてだろう……ほんとうに、どうしてなんだろう……こんな風が、たぶん、ずっと前から、たぶん俺が生まれるより前から、ずっと吹いていて、俺がいなくなったあとも、ずっと吹いているのだろうと思った。
そう思った瞬間に、なにかがわかった気がしたのに、それは一瞬だけの出来事で、すぐわからなくなる。
「ずっと、言おうか迷ってたことがあって」
「うん」
「……俺、瀬尾が好きだ」
「……ん。いくじなし」
「……たしかに」
瀬尾は俺のそばで笑った。
「名前」
「ん」
「名前で呼ぶべきだと思う」
「……青葉?」
「疑問符、とって」
「青葉」
「まる」
からかうみたいに、ごまかすみたいに、彼女はそんなふうに言った。
「ばかみたいだね」
「うん。……ばかみたいだ」
自分が、笑っていることに気付いた。
ちどりは、怜は……あの子は、何を言うだろう。
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